‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ

7月23日 政府事故調報告

2012年8月6日 月曜日

朝から忙しく、亜紀書房の足立恵美ちゃんは中島岳志さんとの共著のゲラを持って来て、それに入れる写真や地図を探して行ったし、4時半には筑摩の金井さんが『千駄木の漱石』の初校ゲラをとりにきて、おなじく図版や写真の相談をして行った。同じ本郷あたりは頭がごちゃごちゃになった。それなのに4時に共同通信の社会部から電話があって政府事故調の報告に付いてコメントを求めたいと言う。私は青島都知事の世界博中止いらい、口頭のコメントというものがいかにゆがめられ、恣意的に使われるか呆れたのでずっと断っている。しかし原発事故について何か発言できる機会を逃すのは犯罪的だと思い、「とても全部に目を通す時間はないけれどこの間の政府の対応も含めて考えていることを言えばいいですか?」と聞いたところ、それでいいというので引受けることにした。今回のN記者は頼むときこそブンやさんらしくちょっと強引でもあったが、直した文を出先まで電話をかけて確認したり、夜中に私が送った質問についても丁寧に応えてくれたし、ちゃんとした人だった。でもこんな状況のなかで引受けたため、私のコメントが的をえたものであったかは疑問である。ここで補足すると、概要などを読む限り、もちろん東電の事故調よりはましだが、国会の事故調よりは後退しているという感じ。スピーディの発表のおくれの指摘など既に言われている事を端切悪く述べているだけ。放射性物質で現場に近づけないというならそのぶん、もたれあい、かばいあいのたるい保安院・東電関係とか、不安がなきかの如き原子力ムラの油断とか、もっと構造的な事を腑分けして、これからの方向性を出してほしかったと思う。莫大なお金使ってやっているのだから。委員の選任、委員の専門性、中での論議、官僚の誘導や操作がなかったかなど、非公開だから全然わからない。政府の審議会や懇談会はたいてい官僚が作文し落としどころを作っていて委員は追認するのが普通である。それとどういう違うプロセスで行われたのか、もちろんメンバーを見る限り行われたのだと思うが、知りたい所である。さっきからPDFを読んでいるが、ちっともすすまん。なんせ数百ページもあるのだ。官庁のホームページとは文書の余りの長さと日本語とは思えない官僚用語にうんざりして途中で読むのをやめるのを意図しているとしか思えない。中学生でも飲み込める概要版を。そして政府はみんなが恐怖におののいている4号機使用済み燃料プールについて刻々の実態を広報すべきであろう。

7月22日 小さく世を渡りたい

2012年8月6日 月曜日

鷗外も好きだし、漱石も好き。愛情の質は異なるのだけど。鷗外はなんといっても完璧な明治人で、夫としても父親としてもやさしいし、練れた人だ。教養は高いし、文章はゾクゾクするほどすっきりしてかっこいい。かたや漱石は神経衰弱で、夫としては病気が出ると突然殴る蹴る、DVもいいとこ。でも江戸っ子でさっぱりしているし、若い友人たちにはやさしい手紙を描く。いま国難の時、生きていたら鷗外は国家の一員としてなにか積極的な役割を果たさざるべからず、しかし漱石は声高に原発反対ともいいそうにない。「懐手をして小さく世を渡りたい」ひと。でも身近な青年たちを十人以上は励まし、才能を伸ばしているのだ。やっぱり10万人集会より道な地域活動が大事だと考える私としては、漱石の生き方はこれから、よく考えるほうがいいと思う。「菫ほどな小さき人に生まれたし」というのは環境に負荷をかけない生存の指針である。

7月21日 鷗外記念館

2012年8月6日 月曜日

鷗外記念館は民間委託で丹青社という会社が指定管理者をとったらしい。しかしこの間の動きや150年イベントを見ていると文豪鷗外を顕彰する、あわよくば観光の目玉にする、といった感じで、著名人の講演、鷗外にちなんだお菓子のコンテストなんかやっているが、じっくり鷗外の作品を読もうとか、考えようとかいう話ではないようだ。だいたい区長を始め、アカデミー推進課の職員たちもどのくらい鷗外を読んで、ほんとうに愛しているのだろう。少なくとも新しく採用された学芸員のやる気をそがないようにしてほしい。しかしその人たちとて鷗外については初心者で、それなら元鷗外図書館にいた鷗外担当の司書をなぜ配置しないのだろう。私が『鷗外の坂』を書くのにお世話になった岩本さんや鷗外の動く映像を発見された方や、自費でドイツまで調べに行った方や区内に優秀な図書館員がいるのに、その人たちの力をなぜ区は大事にしないのだろう。
サトウハチローの記念館が区にゆずられる時もうまくいかなかったのは、区職員が来て「金目のものがない」とか「あれはいくらしそうだ」といったので佐藤家がいやになったと佐藤家から聞いた。サトウハチローへの愛情が微塵もなかったと言う。私が視察の区議たちと高村智恵子のふるさと福島県安達町で出くわしたときも、視察はほんの2、3時間で、その間中、壁にかかったミレーの複製やケースにはいった弥生式土器の複製を「あれは本物か」「いくらするかな」とお金の話ばかりして、こんな真贋の区別もつかないなんて顔から火が出そうだった。かたや安達町の町議さんは農家の方が多く、お金の話はしなかったし、議員の他に仕事を持っているだけ地に足がついて居た。区議たちがさっさとバスで温泉に引き上げた夜、私はその町議さんの農家にとめてもらったが、議員の給与が18万円と聞いてびっくり。文京区議は調査費とか含めると年収1000万というのに。区議なんて他に仕事を持って18万くらいでいいのではないか? スカンジナビア諸国の用に昼のしごとが終わったら夜議会をすればいい。
いまのやり方は鷗外にたいし微塵の愛もない、といってよい。

7月20日 お上の事

2012年8月6日 月曜日

鷗外記念館の映像資料として録画。団子坂上から見た感じよりは、中は良かった。しかし280坪のところにギリギリ建てているので庭も狭くなったような。地下が展示スペースだそうだ。鷗外の半生、女性観、こどもたちとの付き合い、好きな作品について話した。「最後の一句」のいちの「お上の事はまちがいがございますまいから」ということばが3・11以降、何度も耳にこだまする。これは難しい作品だ。ふとした事で良心が曇って間違いを犯し死罪を言い渡された大阪商人の父のために、いちらこどもたちは身代わりにしてください、と奉行所に申し出る。お白洲でいちが目を見開いて行った言葉。「お上の事に間違いはございますまいから」。この言葉の意味はなんでしょう、ってヒロシのときの共通一次に出たけど、むずかしいなあ。もちろんいちはお上を信じているわけではない、これは皮肉でもない、江戸と言う問答無用の時代に、商人の娘が武士に対して言ったぎりぎりの抵抗である。保安院にも首相にも文部省にも、お上の事に間違いはございますまいから、と目を見開いていってやりたい。

7月19日 自分でしごとを作れば

2012年8月6日 月曜日

誰が原発に賛成しているのだろう。私のまわりの人で脱原発でない人はいない(ひとりメールで再稼働賛成ですと書いてきた編集者がいる)。とりわけ女は母親である場合も多く、原発だけはいやだ、もうこりごりというのだ。そうすると国民投票をすれば勝てると思う。賛成なのは経済界の上の方の人たち、銀行マン、立地の人たちは原発の恐怖と仕事がなくなる恐怖をはかりにかけているのだろうか。過疎地を原発やダムや空港建設や道路工事でどうにかまわして不満のでないようにするという田中角栄型の国土経営を根本的に転換しなくてはならない。それにしても地方の人々も仕事はお上から振ってくるとでも思っているのだろうか?「私たちだって主婦三人で谷根千工房という小さな会社を、仕事を作って貧乏しながらどうにか3人4人の子どもを育てて来たんだから、自分でしごと作ったらいいのに」というと、息子が「お母さんたちはやっぱり特殊技能とアイディアとエネルギーを持った3人だからなあ」という。そうかなあ、どの町でもできそうな仕事なんだけど。

7月18日 立ち上がれんのはオトコじゃない

2012年8月6日 月曜日

この前、佐藤忠吉さんが見えた時に発した言葉がすごい。東北はどんなですか、と私に聞くので、「原発事故の彼方でなかなか被災地まで支援が届きません。女性は元気なんですけどね。男性はがんばっている方もいますが、お酒やパチンコで紛らわせている方もいるようです。まあ、家も仕事も時には家族もなくされたのですから、当分はしかたないです」というと佐藤さん、ピッと眉を上げ「そういう時に、家族を守るために立ち上がれんのはオトコとはいわれませんな」佐藤さんが島根の土石流で、幼児をなくされ、家を失い、なおかつ立ち上がったオトコであった事を憶い出した。

7月17日 ちまき到来

2012年8月6日 月曜日

島根の佐藤忠吉さんから手造りの郷土食、ちまきをいただいた。「拝啓、常ならざる事が常であり、行為の束縛を無視し、原子の領域に土俗で踏み込んだ人間の驕慢を痛感し、信が失われた昨今、普通の毎日、昔の暮しがなつかしく思われます」。ちまきは餅米を蒸して搗いて笹の茎に巻き付け、笹の葉で丁寧にくるんであった。それ後と茹でて皮を剥き、きな粉と砂糖に付けて食べるが、こんな丁寧につくられたものをあっという間に食べてしまうのが毎年、申し訳ないような気がする。

7月16日 炎天下の集会

2012年7月23日 月曜日

さよなら原発10万人集会が開かれた。いこうかどうか迷ったあげく、家にいた。原田病患者には夏の日差しがつらいし、人の多いところも弱い。映像ドキュメントの仲間は手分けして取材にいった。17万人という主宰者側発表と7万人という警察発表と。坂本龍一さんの「たかが電気」というのはいいフレーズだ。いま漱石を書いているが、漱石も鷗外も石油ランプの下で万年筆で名作を書いたのだ。100年前には日本で電気を使っている人はそれほどいなかった。明治38年で契約件数は10万戸。それにしても炎天下で有名人のアピールをずっと聞かされるタイプの集会に対する疑問もないではない。10万集まれば政府はぎょっとして方針を変えるのだろうか? 壇上と壇の下が分かれてしまうような集会はもうそろそろ変えたい。同じ言葉をくりかえし叫ぶのも。参加者は疲れただろう。いま荒川さんからメール、屋根のないステージで発言者もかわいそうだったと。

7月15日

2012年7月23日 月曜日

気持ちが食い違って、家の中がもやもやし、息子はご飯も食べずに出て行った。本の校正中の私は、こういうとき男の作家は家を出て、仕事場も持って居ていいな、と思う。
私の知人も仕事場をもち、家事や育児、経済や家庭運営は妻に任せている人が何人もいる。私は仕事の他にそれ等を全部やっている。しかし子どもがかえってくればご飯食べたのかな、と思うのは私の方で、向こうは「食べたよ」「何度も聞いてうるせえな」と思っているのはたしか。三木卓「K」を読む。ひとりでいるのが好きな詩人の妻との別居結婚の話。小説家はこうも書くのか、と表現には感心しつつ、でも何となく妻のほうへよりそって読んでしまう私。

7月13日 臼井吉見と碌山美術館

2012年7月23日 月曜日

臼井吉見、古田晁、唐木順三は筑摩書房を起こし、支えた3人だが、みんな信州の人である。臼井吉見記念館にいって憶い出した。昭和52年は恐ろしい就職難で、女子大生は全く募集がなく、朝日とちくまが重なって私は筑摩を受けたのだった。忘れもしない小川町あたりの古い木造2階屋に願書を取りに行き、小さな会社だな、と思ったのに、中央大学の大教室一杯に学生が試験を受けていて、こりゃだめだな、と思った。しかし最終4人にまでははいって、面接を受けた時の怖かったこと、銀髪の学者みたいなおじさまがずらりと並ぶ。何を話したか覚えていないが、「校正をする気はありませんか」と聞かれ、校正のなんたるかを知らない私は「編集がしたいんです」と答えて不合格。
臼井吉見は編集者と作家、評論家の幅広い仕事をして最後の「獅子座」が未完である。維新の群像を描いた者だそうで是非読んでみたい。それと臼井吉見は福島県双葉中学校の教師をしていたことがあるというのも初めて知った。
そのあと碌山美術館へ行き、4時間、五十嵐学芸員に昔年の疑問をいろいろ聞いてみた。なんで碌山は急死したのか、など勉強になった。山本安曇という鋳造家も安曇野の出身で碌山の彫塑をほとんど鋳造したと言うがこの人のことも気になる。妻と子と昭和20年の3月4日の空襲でなくなっている。とすると谷根千のあたりではないだろうか?