久しぶりに石巻市北上川河口の坂下清子さんと連絡。息子さんは被災した製紙会社でリストラに会い、そのため社宅には住めなくなったので、仮設住宅にはいったが、震災から一年以上たっていたので、もとの集落の人たちとは違う所に入らざるを得なかった、と聞き驚く。それでも三部屋あるし、息子さんは福祉の仕事の勉強をし出した。旦那の健さんは毎日海にいっては刺し網をしたりして元気、私は手をついて骨折してしまったの、という。またまた驚く。なかなか東北に行けないでいる。
加藤周一『羊の歌』で気になった一節。
「すべての事件は、全く偶発的にある日、突然おこり、一瞬私たちを驚かしただけで、忽ち忘れられた。井上蔵相や団琢磨や犬養首相が暗殺され、満州国が承認され、日韓議定書が押しつけられ、日本国が国際連盟を脱退し・・・しかしそういうことで私たちの身の回りにはどういう変化も生じなかったから、私たちはそのことで将来身辺にどれほどの大きな変化が生じ得るかを、考えてみようともしまかった」(『羊の歌』)
オスプレイの配備、尖閣列島、竹島で今起こっていること、毎週金曜日のデモ、そのほかがあと5年したらどんな意味を持ってくるのだろう。
‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ
8月18日 石巻の坂下さん
2012年9月10日 月曜日8月17日 ケイコちゃんの鳥肉
2012年9月10日 月曜日高知の安芸市の近くの山の中で土佐ジローなる地鶏を飼っている50代の男性に恋をして結婚した若い友人のケイコちゃんが、鶏の手羽やもつやコマ肉を送ってくれた。ほんとうは買って支えなくてはいけないのに、申し訳ないことだ。ありがたいことだ。
コマは親子丼に、もつはそーめん、トマト煮、手羽は塩焼きにし、残りの骨でスープをとってラーメンに。最後まで供養しておいしくいただきました。
土佐ジローがどんなに大切に飼われたおいしい鶏肉かについてはこちら。
気になったら注文してあげてね。それにしても元愛媛新聞記者は養鶏家と、高知新聞記者は蔵元と、共同通信記者は牛乳屋さんと、東京新聞記者は木工職人と、NHK記者は印刷所の人と、みんな取材先で体を使って働く男に魅了されたのかゴールイン。いいことだ!
8月16日 秋の新刊ラッシュ!
2012年9月10日 月曜日今日も来客のおおい一日だった。7月に『町づくろいの思想』がみすず書房からでました。いま本がなかなか売れないのは知っているし、2400円という値段が高いのもわかる。だから買って読みましたと言う人がいると手をあわせたくなる。私としてはこれがこの5年間考えて来たことの集大成なので、それも元書いた「新たにす」という朝日・読売・日経の共同サイトはもうなくなってしまったので(いったいあれはなんだったのだろう)、インターネット上でも読めなくなっている。だからこうしてまとめてくれたみすずの守田さんには感謝して、本を買ってせっせと配っているのだが。
次に出るのは筑摩書房から『千駄木の漱石』これも筑摩のウェブに連載してから3・11が起ったりしてまとめるのに時間がかかってしまった。久しぶりの文芸大作!なのだが、版元に迷惑がかからないか、心配。往来堂の笈入さんががんばってくださるそうだが、みなさんのご支援をおねがいします。おもしろいと思います!
そして10月初めには亜紀書房から中島岳志さんとの共著『帝都の事件を歩く――藤村操から2・26まで』が出る予定。中島さんは北海道大学の教員で、『週間金曜日』の編集委員で、いま大阪の橋本市長と論戦中で超忙しいのだけど、3・11以降、二人というか仲間たちで歩きながら考えたことが詰まっている。
そして同じころ、中公文庫で『鷗外の坂』が二度目の文庫化される。ほんとうにありがたいことです。どうにか生誕150年中に出すことができる。そのためにもういちど鷗外の住んだ土地をたどり直しました。20年近くたって、向島も千住も全く変わってしまっていた。
8月15日 二十世紀の意味
2012年9月10日 月曜日敗戦の日。石堂清倫の『二十世紀の意味』を読む。実におもしろい本であった。東京大学新人会から左翼運動に加わり、転向して満鉄に勤め、戦後共産党に入るも除名、トリアッティやグラムシの翻訳もして90代まで長生きされた。20世紀をまるごと生きてその意味を問うている。社会主義の理想と現実、ソ連邦の実態、戦前の共産党の中にいたスパイたち、つかまったとたん党はなんの助けもしてくれない、そんなもののために命をかけることはなかったのだ、ということを書いている。少数精鋭の運動の時代は過ぎて、陣地の中で知的、文化的ヘゲモニーをとることの重要さ。それにしても野坂参三って何だったんだろう。
ゆたかはあしたからの仕事の段取りもあると言って昼過ぎに帰ってしまった。夕方からは加藤周一「羊の歌」を読む。うーん。むかし読んだ時は感じなかったが、あんまりハイソすぎてついていけない。
8月14日 岩﨑邸
2012年9月10日 月曜日きのうから長男もお盆休みで帰って来たので、夜を徹して話し、こちらは眠たいが朝から仕事。息子たちはゆっくり寝て、昼からは二人で引きこもって甲子園を見て、3時半になったら「岩﨑邸を見に行こうか」と来た。宮大工なのに見たことがないという。親子三人で外出なんて20年ぶり。なんだかうきうき。岩﨑邸は公開されてから大変な人だ。こういう貴族の暮しに憧れる人がおおいのらしい。私はこの家の主、岩崎久彌の伝記を書いてまだ本にはなっていないが、尊敬すべき人である。それにしても戦前の財閥はすごいものだな。いくら孫正義さんがお金持ちでもこんな家に住もうとは考えないだろう。人海戦術でなければ保持できない。庭師、運転手、掃除係、食事係、洗濯係、お運びさん、宴会の時は芸者が着替えた部屋もある。久彌自身の家庭は清潔で妻ひとりを守ったようだが、客の接待には芸者さんがきたのらしい。広大な芝生の庭を眺めながら氷宇治白玉で涼をとる。
憶い出した。この先の庭に西郷が立って、不忍池を見下ろし、アームストロング砲を上野の山の彰義隊に打ち込んだのであった。夕方には京都から乾曜さんが見えたので谷中あたりをぶらぶらした。若い人と話すと心が弾む。
8月13日 イーストフード
2012年9月10日 月曜日私のいる白山はパンやさんと魚やさんがほとんどない。それで裕美ちゃんにもらったおいしいオレンジジュレを付けて食べようとスーパーで大手のYパンを買ったら娘に「私、食べないからね」としかられた。イーストフードを使ってあるものは食べないというのである。イースト菌とイーストフードの区別もつかない私はいろいろ教えてもらった。
たしかにこのパンはいつまでもやわらかくてカビも生えないのである。
大観音前のパリットフワットのパンはおいしいが二日目位から固くなる。
私だって子どもが生まれたころには発がん性などずいぶん食品の安全性を勉強したりしたのだが、このところかなりおつむがゆるくなってきた。「放射能ばっかり騒いでいるけど、もとからあった添加物や農薬の食品汚染も危険だと思うけどね」と娘。中国整体の先生に子どもが生まれ喜んでいるが、中国へ帰りたいが食べ物に何が混ざっているか、全く信用できない、と心配していた。それにくらべ日本は規制が厳しいとは思うが、それでも危ない添加物は相当あるようだ。「お母さん、買う時は原材料を見るのよ。一番使っている量の多い原材料順に並んでいるんだからね。添加物は下のほうに書いてあるから見逃さないでね」はいはい。でも今の私の視力ではメガネかけてもこんな小さな字は見えないがな。
8月12日 ぼけじまん
2012年9月10日 月曜日昨日聞いた話も忘れちゃうの、というと、みんなそれは忙しすぎるからですよ、と言ってくれていたが、最近では「年相応なんじゃないですか」というフォローになって来た。若年性痴呆症かしら、というと娘は「もう若年とはいえないんじゃないの」とひどい。友人のことを「それにしてもKさんはお母さんの介護をしてエライ」というから、すかさず「私もいざとなったら介護をしてくれる?」と聞くと、「それにはいままでの子育てによるでしょう」とつれない。とにかく目が悪くて家の中のゴチャゴチャの中から何も見つけ出せないし、老眼鏡、遮光サングラス、鍵、財布、帽子、気に入りのスカーフと次々なくし、さすがにへたった。一生で何枚のショールをなくすのかしら。
8月11日 幽霊画を見てすずむ
2012年8月27日 月曜日アフリカのセネガルから一時帰国中の横関さんと幼稚園以来の友人裕美ちゃんと、漆器の専門家の智ちゃんと4人で全生庵に幽霊画を見に行った。円朝のお墓と鉄舟のお墓におまいりしているときょうは落語協会の法要の日らしく、桂小三治さん、桂歌丸さん、こぶ平さんじゃなかった三平さんなどの姿も見え、虚無僧が笛を吹き、各自が扇子を火にくべて供養するところも見学できた。とにかく日本近代美術史の枢要な名前がほとんどあるんですな。今年は高橋由一の絵は展観されていなかった。かえりにイル・サーレでランチ、そこで出た話しによれば、今使っている電気の6割は灯りでなく動力、ICチップをそれにつけてコントロールすれば必要な時だけモーターを動かし、40%くらいの電力を節減できる、というのだ。ほんとうなら24パーセント、電力を使わずにすみ、原発はいらなくなるのではなかろうか? 詳しい人からの情報を待ちます。
8月10日 たかが電気、の考え方。
2012年8月27日 月曜日ある雑誌に坂本龍一の「たかが電気」という言葉を引いた。私もそういう気がする。
電気は我々の生活に欠かせなくなっているが、明治の終わりごろに普及したので、それまでは行灯やろうそく、石油ランプを使っていた。それで一葉も鷗外も漱石も名作をモノしたのである。私の子どものころでも、クーラーはなく扇風機はあったけど、冷蔵庫は氷を入れる木のボックスだったし、ご飯は羽釜で炊き、サンマは七輪で焼いていた。それがマンションではガスこんろは使えない、石油ストーブも使えない、ということになって我々の生活は電気漬けになってしまったのである。電気はエネルギーのほんの一種類に過ぎないということを思い起こしたい。
そうしたら編集者から、
「在宅で人工呼吸器をつけている患者さんの家族が、「停電で死ねというのか」「生きるために再稼動に賛成します」と発言しているのを目にしましたが、そう言われると一瞬言葉につまってしまいます」という付記が来た。坂本龍一さんのところににも反論が多いようだ。私はこのことを考えて見た。
1、病気治療中の方たちや病院には電気を最優先で使っていただきたい。
2、原発を再稼働しなくても停電にはおそらくならない。
3、原発由来でない電気で医療器具を動かすことはできるし、病院などは万が一の場合でも自家発電機を持っているはず。
そして
4、自分が生きるために再稼働を認め、他人に被曝労働をさせてよいというのは傲慢でないのか?
5、不必要なまでの電気をつかった延命は、私ならしたくない。
ということである。
8月9日 最近聞いた話
2012年8月27日 月曜日最近聞いておもしろかったが忘れてしまいそうなこと。
ジャズ喫茶・映画館の店主ヨシダさんは映画を作っていた人。もともと戦前は動坂町七番地にいた一族で、お父さんは御役人で練馬に移住したと言う。五人兄弟のうち、ひとりが講談社の社員のうちにもらわれた。おくさんは登米ゆかりで鳥越育ち。お二人は被災地支援や原発なしで暮らすための活動にいろいろ関っておられる。最近うれしかったのは、お店に見える鹿島田真希さんが芥川賞を取られたことだそうな。
本郷通りの中華料理フーエンの焼き餃子も水餃子もおいしいのはお父さんが中国東北部(満州)の残留孤児であって、本場仕込みだからである。いまは子どもの代で息子さんとそのお姉さんが店をしきるが、なにを頼んでもほんとうにおいしく、とてもリーズナブル。「だからお父さんは日本人で、養父母のめんどうもよく見て、なくなったので日本に来ました。だから私たちはハルビン育ち。お母さんは中国人で、そのおじいさんというひとは最後の科挙にうかったんだけど、そのとたんに清朝が倒れて、それでお医者さんになりました」とお姉さんに聞く。人に歴史あり、だなあ。