8月10日 たかが電気、の考え方。

ある雑誌に坂本龍一の「たかが電気」という言葉を引いた。私もそういう気がする。
電気は我々の生活に欠かせなくなっているが、明治の終わりごろに普及したので、それまでは行灯やろうそく、石油ランプを使っていた。それで一葉も鷗外も漱石も名作をモノしたのである。私の子どものころでも、クーラーはなく扇風機はあったけど、冷蔵庫は氷を入れる木のボックスだったし、ご飯は羽釜で炊き、サンマは七輪で焼いていた。それがマンションではガスこんろは使えない、石油ストーブも使えない、ということになって我々の生活は電気漬けになってしまったのである。電気はエネルギーのほんの一種類に過ぎないということを思い起こしたい。
そうしたら編集者から、
「在宅で人工呼吸器をつけている患者さんの家族が、「停電で死ねというのか」「生きるために再稼動に賛成します」と発言しているのを目にしましたが、そう言われると一瞬言葉につまってしまいます」という付記が来た。坂本龍一さんのところににも反論が多いようだ。私はこのことを考えて見た。
1、病気治療中の方たちや病院には電気を最優先で使っていただきたい。
2、原発を再稼働しなくても停電にはおそらくならない。
3、原発由来でない電気で医療器具を動かすことはできるし、病院などは万が一の場合でも自家発電機を持っているはず。
そして
4、自分が生きるために再稼働を認め、他人に被曝労働をさせてよいというのは傲慢でないのか?
5、不必要なまでの電気をつかった延命は、私ならしたくない。
ということである。