‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ

3月5日

2013年4月3日 水曜日

きょうは浅草でおはなし。ビューホテルって初めて中にはいる。
浅草の方を前に浅草の話をするのは難しい。浅草は好きだけど。もう少しいいたかったこと。
浅草は怖い。小さな頃、行きすがりのヤクザが私の手の甲で煙草を消そうとした。
浅草は早い。浅草寺も仲見世も伝法院通りもすぐしまる。
浅草はレビューも映画も消え、食べるところだけになってしまった。
浅草には一見の客からぼったくる店もある。
浅草は地元の常連だけ大事にして、地方からやっと訪ねた客をないがしろにする店もある。
その辺をどうにかしてほしいなあ、と言いたかった。
由布院などは旅館組合で提供するサービスや料理の品質向上を計っているし、横浜中華街では絶対、反社会的勢力を町に入れないパトロールをやっている。あれほど安全なチャイナタウンは世界中にない。渋谷のセンター街や歌舞伎町でも行政ぐるみで風紀向上や町の清掃をしている。浅草ではどうなのだろう。
定番の浅草観光案内をくり返すメディアにも問題は大有りだ。
黙ってても客の来る有名店でなく、まじめに地道にやっている小商いや職人さんに日が当たるような情報発信はできないか?
そうおもう。

『旅愁』、ローマにいるピアニストのマニーナとエンジニアのデヴィッドは同じ飛行機に乗りあわせたが、故障でナポリに降ろされる。直すのに2時間はかかるとナポリ観光をしている間に飛行機に乗り遅れ、しかたなくナポリでつかの間の時間を過ごすが、愛し合ってしまい、しかも乗るはずだった飛行機が墜落。二人はこの世から姿を消して愛の生活を営もうとする。出来過ぎだよ。そしてフィレンツェの景色の良い丘に家を構えるが、いろんなところから足がつき、アメリカからデヴィッドの妻と息子がやって来る。マニーナはアメリカでリサイタルを開き成功、しかしデヴィッドを家族の元に帰すためフィラデルフィアのリサイタルをキャンセルして南アフリカへ。
まあローマ、ナポリ、フィレンツェの1950年ころの景色を堪能するだけで楽しいが、話としてはむちゃくちゃ。マニナは隙だらけで見つけてもらいたがっているみたいだし、なぜ失踪した二人があんな豪邸に住めるのか、妻は別れると言っているんだから別れてやり直せばいいのに。つかの間のラブアフェアを楽しんで妻の元に戻る男の定番映画。それになぜ南アフリカなの? アメリカ人目線で、イタリア人がデブで野卑な原住民みたいな描き方なのも失礼。
音楽はいい。クルト・ワイルのセプテンバーソングはいいな。それとラフマニノフの2番が淀川長治の『日曜洋画劇場』で流れていたのはこの映画のせいか? 主役のジョン・フォンティーンは大昔の東大教授の父親を持つ日本生まれ、両親が離婚して父は日本人メイドと再婚、姉のオリビア・デハビランドとは仲が悪く、『風とともに去りぬ』の役を取りあったり、4度も結婚したり、気球のライセンスを持っていたなんて、誰かこのの人の伝記を書いていないかと興味がわく。美人だけどかなり過剰な印象。ジョセフ・コットンは『第三の男』のほうがよかった。

3月4日

2013年4月3日 水曜日

このところ『レミゼラブル』『パイとの旅』を見たので、なんだか今までに見た外国映画のことを思い出している。アトランダムにベスト。その映画で一番残る俳優をメモしてみた。シロウト的リスト、難しい暗い映画はあんまり好きじゃない。社会派は好き。戦争、マフィア、SF、アクション、パニック、スパイ、ホラー怖いのみんな嫌い。この世が涙の谷なのに、どうして映画でまでくらい怖い世界を見なくてはいけないの?

「チコと鮫」動坂映画で父と見た。
「すばらしき風船旅行」日比谷で父と
「狼王ロボ」渋谷で父と、ファザコンがバレそうだが
「ランスロット」動坂映画 「キャメロット」よりずっといい。
「若草物語」キャサリーン・ヘップバーン 古きよきアメリカ
「大いなる幻影」ジャン・ギャバン あの鼻、あの掠れ声 小石川図書館
「戦艦ポチョムキン」なんせ岩﨑あきらさんの解説
「チップス先生さようなら」ピーター・オトゥール、のびのびした奥さん
「天使の詩」動坂映画 タオル二枚ぐしょ濡れ
「サウンドオブミュージック」浅草大正館で母と 全部歌えるよ
「アメリカン・グラフィティ」いいね、あのスカート
「ロミオとジュリエット」レナードホワイティング・オリビア・ハシー 日比谷
「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」
「ソフィーの選択」どっちをとるかなんて!
「グッドウィルハンティング」マッド・デイモンのファンに
「わが青春のフロレンス」オッタビア・ピッコロ 大塚名画座
「はるか群衆を離れて」デビッド・ヘミングウェイ
「12人の怒れる男」日本版もなかなか
「僕のおじさん」ジャック・タチ あのシュールな背景、モダニズム
「悲情城市」でぶの兄さん好き
「紅いコーリャン」コン・リーの最高傑作
「始皇帝暗殺」張豊毅にいかれた
「コニャックの男」サミー・フレーにいかれた
「夕なぎ」ロミーシュナイダーすてき。サミー・フレーも出てた。
「木靴の樹」ミラノの郊外で同じような風景のところあり
「八月の鯨」年とともにしみる映画、まさに私と妹
「黄昏」ジェーン・フォンダは好きじゃないけど。
「サイダー・ハウス・ルール」せつないな
「ガープの世界」おなじくアーヴィング、人生はスリルだらけ
「カラー・パープル」ブランコに乗るシーンが忘れられない
「ミッドナイト・エクスプレス」これをみてイスタンブールに行けてない
「招かれざる客」シドニー・ポアチエ
「ある愛の詩」キャサリーン・ロス クリスマスの樅の木を男が担いで
「追憶」バーブラ・ストレイザンド 女のほうが思想に忠実ね
「明日に向って撃て」ロバート・レッドフォード 見る前に飛べ!
「フィラデルフィア」ディンゼル・ワシントンがアカデミー賞だろ!
「グッドナイト・グッドラック」飛行機で。赤狩りのさいのジャーナリスト話
「チャイナ・シンドローム」原発所長の責任の取り方、ジャック・レモン
「恋に落ちたシェイクスピア」あのがつがつした目がいい
「マルチニクの少年」なんだかいい香りのする映画だった
「フィールド・オブ・ドリームス」父と息子の夢は野球の選手
「大統領の陰謀」レッドフォードとダスティン・ホフマン
「エリン・ブロコビッチ」ジュリア・ロバーツの最高作
「愛人」須賀敦子さんとデュラスをいろいろ話したっけ
「さすらいの青春」ブリジット・フォセー 大塚名画座 フランスまで追っかけ
「ニュー・シネマ・パラダイス」山崎と仰木と見てみんなでおいおい泣いた
「ひまわり」ソフィア・ローレン大好き 汽車からのあの眼
「昨日・今日・明日」マルチェロ・マストロヤンニ ナポリの階段商売
「ドクトル・ジバゴ」ジュリー・クリスティ 氷の宮殿はマッシュポテト?
「ウェストサイド物語」ナタリー・ウッド たけくらべアメリカ版
「マイ・フェア・レディ」オードリー・ヘップバーン、勝手なヒギンズ先生
「昼顔」カトリーヌ・ドヌーブ ああいう願望、誰にもあるかも
「パードレ、パドローネ」シチリア人の視力、聴力にびっくり
「ローマの休日」グレゴリー・ペック 永遠の青春映画、
「アンジェラの灰」アイルランドに行ってよく背景がわかった
「メアリー・ポピンズ」やっぱりたのしくていいよなあ
「シベールの日曜日」森の中、池の音
「王女メディア」マリア・カラスは存在が叙事詩だ
「ブーベの恋人」クラウディア・カルディナーレ イタリアのファシズムの映画
「死んでもいい」メルナ・メルクーリ、かっこいい。指輪を川に捨てて。
「国境は燃えているか」マリー・ラフォレ これ最高な映画!
「俺たちに明日はない」フェイ・ダナウェイ
「嵐が丘」I am Heathclif!
「天井桟敷の人々」マルセル・カルネ
「悪魔が夜来る」忍び寄るファシズム、この方が好き
「卒業」ミセス・ロビンソンがいいね!
「クイーン」エリザベス女王のそっくりさん。
「英国王のスピーチ」私も吃音だったので。

最新は『インドへの道』。デヴィッド・リーンは好き。叙事詩的な映像のなかに人間の細かく動く気持ちや運命が描かれる。植民地主義に疑問を持ち、インド人と交流したいという若い上流の娘アデラが婚約者の母と婚約者が待つインドへ行く。植民地だから私の知っているインドとは違う整然と美しい風景。そこでインド人医師で貧民の救済もしているアジスと出会い、その誘いでマラバー洞窟にいく。アジスのほうもイギリス人に興味を持っていたのは否めない。しかし洞窟のこだまに恐怖を覚えたアデラは走って山を転げ下り、スノブなイギリス婦人の告発でアジスは強姦未遂で逮捕される。理解したいと思って近づきながら最後は異文化への恐怖で拒否する、これは人種差別、階級差別、すべてに共通することだ。これが免疫の意味だ。アデラがエリート判事の婚約者との結婚、すなわち植民地主義をも拒否したのは良いが、アジスの傷はいえない。アジスのほうにもインド人らしい過剰なところがあってリアリティがあった。マラバーヒルってマルクスの著作に出てこなかったかな。

3月3日

2013年4月3日 水曜日

28日に粟島のタラで友人宅でバスク料理をご馳走になった。現地での刺身やナベもおいしいが洋風にしてもまた。大井町ってまず行くことがないが、とてもすみやすそうな庶民的な町で、また行きたい。井の中の蛙、谷根千しか知らず。そのとき肝もおいしかったが、白子を沢山貰い、臭みを抜いてからまずは和風の吸い物を造り、次は酒と片栗粉を振ってバタ焼きにし、最後はバスク風にニンニク唐辛子とねぎ・シイタケのざくぎりをいれてスープにしてぶっかけご飯にしたら超うまかった。どれもでたらめレシピ。

3月2日

2013年4月3日 水曜日

西川さんの「谷中の家」でこのところ月一原発映画祭をやっている。地域から地道に原発問題を考えていく試み、映画を見て、関係者の話も聞いて、カフェタイムに質疑応答をする。きょうはもと福島民友記者だった医療ジャーナリストの藍原寛子さんが福島の子どもたちのいま、を写真や動画を交えて語ってくれた。2012年5月くらいから。「校庭で表土を削るそばでマスクの子どもたち」「削った土はフレコンバッグに入れて地下にあるいはシートをかぶせてそのまま」「福島大付属幼稚園は園児が急減」「朝鮮初中学校の児童・生徒は新潟にそっくり避難」「保養は障害児の受入れほとんどなし」「地元スーパーの放射線測定も地元メディア取りあげず」「毛髪や乳歯の保存運動はじまる」「原発賠償で古民家はほとんど価値ゼロの評価」といった知らない事実、視点をずいぶん得ることができた。
会場からは「なぜ福島の人はおとなしいのか」「あんな目にあったのに福島で自民党がなぜ勝つのか」という声も。これに対し福島出身者から「戊辰でやられ、自由民権で弾圧され、抵抗すると偉い目に会うということが染み付いている土地柄。長いものにはまかれろ、太いものにはからまってろ、ということで今まで来た。贈収賄事件も多い」という意見も。
私も「子どもたちは避難させるべきだと最初思ったが、そういうと反発される。保養と言い替えても親の理解や余裕で保養に行ける子と行けない子がいる状況はどうしたらいいのか」と聞いてみた。藍原さんの答え。「福島の人々はものすごく傷ついているので、ちょっとしたことに人生全部を否定されたように感じて反発する。まずこの土地はいいところだったんだよ、ということを認め、そこから話を始めないと」。司会の植松明子さんより「伊達市は学校全体で新潟へ移動教室を広め、これなら親が避難するかしないか、という苦しい判断をしなくてすむ。こういう取り組みが広がっていけば」。私の行く石巻でもみな「ここはとてもいいところだったんだよ」という。それを聞くことから話が始まるのに、原発については「早く避難してほしい」という気持ちが先に立つ。「そこにいるあなた、ここにいるわたしを承認する」「分断の世界から立ち去る」というのが藍原さんの提案。わたしは苦しいけど差別や分断があることを認めてそれと向き合うことが大事だと考えるが。
劇団銅鑼の40周年『からまる法則』を見に行く。六本木俳優座劇場で満員。
うーむ、一言で感想を云えないような。

3月1日

2013年4月3日 水曜日

谷根千郷土史!『青鞜』創刊号に広告を出している東盛銀行の社長、牧田義雄は明治44年ころ、千駄木林町で楽牛園なる牛乳製造業を営んでいた。広告も地縁に寄るものか、と思ったが、インターネットで見ると、『慶応義塾者出身名流列伝』のPDFにぶつかった。
それによると、牧田義雄は嘉永2年生まれ、掛川藩士石高13石、太田氏の近侍をつとめ、15歳で安井息件の塾に入り、廃藩置県後、洋学の必要を感じて慶応義塾に学び、横浜で英語を学んだ。仕官をすすめられても独立自尊の精神が強く、一頭の牛を飼うことから牧牛業を始め、「三千の乳牛を有して我が国生乳界に重きを為すに至り」とある。それも母牛が病気で死んだり、その頃は牛乳を飲む人も少なく、大変な苦労をしたが、明治18年に帝国大学病院や巣鴨脳病院などで患者の飲用に採用されて広まった。しかし本土で餌の草が取れないので伊豆大島に一大牧場を作る。また本郷区議会、東京府議会の議員を勤め、その硬骨漢ぶりと情誼に厚いことで知られる。
ざっとこういう伝。
興味深いのは千駄木町に掛川藩主・太田氏の館があったことと牧田牧場がその隣接する林町にあることが関係あるのか? 千駄木御林といわれる雑木林を切り開いて牧田牧場ができたのか? 安井息件の墓も近くの養源寺にあるが、それと塾との関係は。牛乳奨励をリードしたのは福沢諭吉だがそれとの関係は、など興味はつきない。

2月28日

2013年3月11日 月曜日

八ッ場ダムの遺跡を守るアピールを国交省と文化庁に出しにいく。国交省は手渡しだけ、科学者の会の要望に文書で答えるかどうかもこれから検討する、とのこと。文化庁は一室を取って説明してくれたが、「すべての遺跡をまるごと保存はむずかしい。記録保存も立派な保存。地元がやる気があって、保存の態勢もとれるようなら文化庁としても応援していきたい」とのこと。つまりダム推進の長野原町、群馬県にやる気がないなら無理だ、ということか。
思い出す。東京駅もいまでこそJR東日本ははじめから保存復元の予定だったみたいな顔をしているが、文化庁に保存の相談にいったとき、「いかんともしがたい。市民運動など広範な国民が動かないと文化庁としては残せともなんとも言えない」と言われた。「うちの予算で東京駅前の土地がいく坪買えると思っているの」とも。それで必死になって署名を集めた。
ここからは余談。東京駅の保存が決まったとき、当時の松田会長は「復元なったあかつきには市民運動があって残ったことをプレートに刻まなくては」といってくださったと記憶しているが、それは反古にされて、赤レンガの東京駅を愛する市民の会の事務局を長らく守って来た前野先生や多児貞子さんさえグランドオープンに招かれなかった。これは歴史上ホントウのことだから、JRにいくら嫌われようと書いておかなければ。
公共工事が時代に合わなくなったときはやめる、という『時のアセスメント』を建設省は1999年に言い出した。だけどそれからそれでやめた例はあるのか。アメリカにはサンセット法がある。いったん行政が決めた公共工事を見直す法律はぜひ必要だ。

2月27日

2013年3月11日 月曜日

23日に浅草で「沖縄大問題」という集会に参加。辺野古、高江、大浦湾、泡瀬潟などからの報告が続いたが、「本土のマスコミはまったく伝えていない」「沖縄県民の怒りを結集して」といった十羽一からげの発言が目立ち、この論法では敵をふやすだけで味方は増えないのではないか、と思った。長らく基地を押しつけられ、いくら抗議しても無関心、黙殺に出会ってきて、こういう表現になるのもわかるが。
沖縄に行っても一方的に怒りを表明されるだけで、あなたは誰で何をしているの、と聞かれたことはない。関係はイーブンでなく、「あんたら本土の無関心が私らの苦しみを生んでいるのよ」「一回来たぐらいでわかる問題じゃない」としかられる。沖縄が好きで、なにかできないかと思って来たのになあ。この集会には自分の運動の宣伝に来た人もいれば、セクトの新聞も配られて、これもいい感じがしない。「政府は世界自然遺産登録を基地の隠れ蓑にしようとしている」という発言もあったが、国交省、防衛庁、文化庁をそれこそ十羽一からげにしないで、分断して各省庁内の対立も利用して、その隙をつくことこそ戦略というのじゃないかなあ。

2月26日

2013年3月11日 月曜日

私が信頼しているコンサルタントの賛同者より。
「思えば、今から40年近く前に、川原湯温泉湯元旅館主が町長となって、八ッ場ダムの調査の依頼を受けた経験があります。当時、福田派と中曽根派がそれぞれの立場から沼田ダム推進と八ッ場ダム推進の立場になり、川原湯温泉地域は、福田派に付くという政治的な環境もありました。
東京都は利根川フルプラン(水供給計画)にもとづいて、八ッ場ダムを整備しないと、水飢饉が予想され、早期実現を旗印にしており、私たちは、水没する前に地域の資源を整理して、ダム建設による損失などを整理した報告書を提出しました(そのほとんどは農地や農業の衰退による問題が主でした)。調査団を組んで、1週間川原湯温泉に滞在し調査(現地調査及びヒアリング調査)し、最終の日に調査団長(故山崎不二夫東大名誉教授、日本科学者会議代表幹事)等の調査にあわせて調査結果をまとめ報告し、検討した経験があります。
その当時は、地域の方たちはすべて八ッ場ダム建設反対の立場でした。東京都の水飢饉を持ち出しながらも、多摩川等の整備により、八ッ場ダムが出来なくても、乗り越えてきた経過もあります」
今までの経緯ももういちど、検証しなくてはならない。

2月25日

2013年3月11日 月曜日

平塚らいてうは岸田衿子さんに似ている。似ていると言われませんか、と聞いたら「そういわれたことがあるわよ」と微笑んだ。衿子さんも岸田国士のお嬢さんとして父の弟子たちに大事にされ、鷹揚で、声は小さく、人の前で話すのは嫌いで、徹底的にセルフオリエンティッドの神秘的な人だった。でもどこまでも続く話はとっても面白いし、人の見方はなかなか辛辣で、正確だった。
八ッ場ダムのことは「これ以上山や谷を傷つけてほしくない」という衿子さんの遺言なのでやっているだけ。
『青鞜』平塚らいてうは戸籍上ははる。明子、はる、ハル、などの表記が入り乱れ、困る。他の人も子がついたりつかなかったり。
子というのはドイツ語でいうchenであって、女性につけるムスメっこといった感じの愛称というか蔑称というか。明治では戸籍名に子がつくことは少ないが、原稿を公表するときや、あらたまって手紙を書くときは子をつけるようになった。
与謝野晶子も戸籍は「志よう」で、原稿署名もしょう、あき、晶子などが入り乱れるが、既に文学史上定まっている与謝野晶子、岡本かの子の子を取るわけにもいかずなやましい。名案ないですかね?

2月24日

2013年3月11日 月曜日

やっと八ッ場ダムが一段落ついたので、次の仕事『青鞜の冒険』のゲラ直し。
平塚らいてうは明治のヒッピーだったと誰かが言ったがそんな気もする。今回、八ッ場の自然保護なので平和、ナチュラリスト、スピリチュアル、代替療法、自然食などの方たちが興味を多くしめしてくださった。平塚らいてうは明治から禅に興味を持ち、中西悟堂と親しく、正食と手当療法を実践していた。女性解放家としてのみ理解して来たが、元祖ナチュラリストとして理解しても良いかもしれない。『元始に帰れ』というのが彼女の念願だったかもしれない。