‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ

震災日録 6月9日 ガイガーカウンター

2011年6月20日 月曜日

原発20キロまで走ったとき、ガイガーカウンターがあれば、と切に思った。自分でもほしくなって探しているが、品薄、それに5万円以上するらしい。東大の院生の話では「あんなの材料費は5000円もしないで自分でつくれますよ」とのことだから、安く作って安く売ってほしいな。そうしてすべての保育園・幼稚園・学校に配布すべきだ。東京では新宿百人町での調査を毎日は発表していたがこれは地上18メートルでのこと。地上1メートルほどの生活圏での数値も知りたいし、幼児を持つ親は砂場や芝生の数値も知りたいのは当たり前。ホットスポットという言葉もうっかりつかえない。

「柏や我孫子もホットスポットなんですってねえ」「僕の家は柏です」絶句。

「小さなお子さんがいらっしゃると大変ねえ」も気を付けないと「自分ちは子どもがもう大きいと思って人ごとみたいに」ととられかねない。「はやく収束するといいですね」とつぶやくしかない。

若いころ、生きている実感が持てなくて、この公害や核がある地球がいつまで保つのかも予想がつかなくて、戦争を体験し、生き延びて以降、高度成長の中で結婚し、子どもも生まれて普通の市民生活をしている両親を羨んだことがあった。そのとき私は20代で、両親は50代。いま子どもたちが同じような目をしてわたしを見る。「お母さんがオレたちの運までみんな食っちゃってるんだよな」「そう、このヒト、運が強いからね」

若者たちの未来への閉塞感、申しわけない。東京駅のドーム、姿を現す。屋根は登米産、北上の熊谷産業が被災前に送ってあったスレートで葺かれている。これからドームのスカートの一部は津波を生き延びたスレートで葺かれることになる。

震災日録 6月8日 節電の方法、逃げてはいけない人

2011年6月20日 月曜日

地下鉄三田線は間引き運転で昼なおラッシュアワーなみの混雑。エスカレーターも止まり、宣伝のパネルの電気は消え、照明も暗いので出勤中本が読めないと遠距離通勤者は嘆いていた。それなのに駅には東京電力の出力の75%しか使っていないと書いてある。25%は夏のクーラーなどに貯めておけるのか、それが知りたい。貯めておけないなら、エスカレーターを動かしてほしい。

節電というなら、すべてのお手洗いの音姫を撤去。電話のうるさくてしつこいお待たせ音楽も撤去。バスや電車の不必要なアナウンスもやめる。レストランのBGMもやめる。すべて原田病の患者(わたし)からいわせれば頭痛とめまいのもと。

いわき市で「まず連絡がつかなくなったのが市議と坊主」と誰かがいっていた。「中央から派遣されていた裁判官と医者もさーっといなくなった」とも聞いた。原発が恐いから逃げるのはいいが、逃げてはいけない人をはっきりさせよう。それは税金から給料をもらい、住民を守るためにいる議員と公務員である。丸森町の小さな子供さんもいる女性公務員は「何が起きても立場上、私が町を出るのは最後になるとおもいます」と書いてきた。エラいと思ったが、これが正しい考えだ。

いっぽう今回、老人施設の寝たきりのお年寄りを助けるため若い職員がなくなっている。老人は戦争も生き延び、じゅうぶん長い命を享受したのだから、いのちをつなぐために20代、30代の職員は「老人をおいて避難してもよい」という法律を作ったらどうだろう(とはいっても責任感の強い職員は老人を置いて逃げられないだろうなあ)。

3・11、東京電力の勝俣会長は外遊、清水社長は妻と観光、国会議員や命がかかわる電力、航空、鉄道の役員は任期中、「妻と遊ぶ」なんていう覚悟のない人にはやってほしくない。

原子力安全・保安院は原子力危険管理院と名を変え、この前議会で意見陳述した小出裕幸、後藤政志、孫正義、石橋克彦氏などを起用したらどうか。

今月の自殺者は去年よりずっと増えて1ヶ月で3200人、このままでは4万人を越えるかも。福島が特段増えている。東京でも人身事故がよくある。

いまの国会議員などみんなやめても惜しくはないような。消費税を20%! なんかにする前に国会議員を100人に、地方議会の定員もうんと減らす。神楽坂辺りには建築ナンタラいう天下り団体がたくさんある。各省庁の天下り先のそういう法人もみんな潰す。しかるのちなら消費税増税をかんがえてもよい。しかし消費税とは導入時に論議があったように大衆課税で、金持ちにも貧乏人にも同じように払えというのだから、結局は貧困層いじめなのだ。

震災日録 6月7日

2011年6月8日 水曜日

JR東日本へ行って来た。結論から言うと、石巻市で被災した登米、雄勝のスレートを調査した結果、塩害も心配なく使えるものは使うことに決定した、という。技術者担当者は枚数やどこに何を使うかまで説明してくれた。とにかくここまでこれてよかった。

いっぽうJRはこちらのサイトやブログまで細かくチェックしているらしく、表現が「信頼性を失わせ、そのようなことが続くとこういう場も持てなくなります」との注意を広報担当者から受けた。公式の場で言わなかったことは書かないでほしい、とのこと。「スレート屋根募金はJR側の意向で難しそう」などとは言ったことはないとのこと。お詫びして訂正します。「ならばこの場でお願いすればやってくださるのですか?」と聞いてみたが返事はなかった。

「使わせる」とどこかにうっかり書いたのがよくないともいわれた。「使っていただく」にお詫びして訂正します。しかし国鉄時代は駅はもちろん国民のものだった。私企業になったとしても駅は公共財であり、ニューヨークでもペンシルヴァニア・ステーションが壊されたことにショックを受けた市民が立ち上がってセントラル・ステーションを保存した。公共財の利用者は意見を言う権利がある。まして保存運動によって残った駅だし、鉄道や航空会社は命を預かる事業である。東京電力だって私企業であるが、国民の監視がたりないとあのように暴走する。また広報担当者には「表現の自由」ということをどのように考えているのか、聞きたかった。とにかく「使っていただける」ことが分かったので、私は自分の時間をほかの大事なことに使うことにする。

それにしてもスレート募金は、駅を閉鎖し、お手洗いも水場も使わせず帰宅難民を出して大きな批判を知事たちからも受けているJR東日本にはイメージを上げるいいチャンスだったのになあ。あ、また余計なお世話といわれそう。

震災日録 6月6日

2011年6月8日 水曜日

今日は夕方、北上次郎さん、岡崎武志さんと新潮社「よむよむ」の「小説で旅する日本」の鼎談。震災の話のでない数時間を過ごし、ほっとした。北上さんは「本の雑誌」の発行人目黒孝二さんでもある。小さな直販雑誌の経営と配達の苦労話に花が咲いた。

山本玲子さんから聞いたところでは、桐生の三角屋根の工場にも被害が出ているとのこと。宮城県村田町の蔵の町並みでも10棟以上が解体を決めたとか。そのほか福島市のヴォーリズ設計の教会も解体。

もちろん人命救助、避難所の生活支援、ライフラインの復旧、医療や福祉、精神的ケアが優先されるだろうが、誰かが専門でやらないと、どんどん文化財も壊されてゆく。

国登録文化財谷中花重も瓦が落ちて困っている模様。こうした各地の被害状況でわかっていることがあれば、お知らせください。

震災日録 6月5日 みんなで震災を語り合う

2011年6月8日 水曜日

午後1時半から谷中コミュニティセンターで5時まで3時間半のロングトーク。

テーマは義援金、物資支援、炊き出し、避難所支援、仮設住宅、瓦礫処理、町の再生、わが根津の被災、原発、農業と漁業、そのほかなんでも。被災地を見てきた人たちの感想。いわき、気仙沼、山元、新地、南三陸、登米。意見、アイディア。

大塚モスクのハルーンさんより、なぜモスクはこれほど迅速に長く支援を続けているか、という話も胸にせまった。トルコのムスリムは11日の夜の便でトルコを発ち日本に支援に来たそうだ。その受け入れや同行をしているうちにハルーンさんたちも支援を始めてしまったという。いわき出身の菊地さんは「地域のみんなが自分の故郷のためにこれほどがんばってくれるかと思うと泣けてくる。でも原発がみんなの心を塞ぎ、元気がなくなっているし、安心だと思い込みたい複雑な心境になっている。そう思わないといわきでは暮らせないから。東京から数値などとうてい伝えられない状況」

それはわが丸森へ対しても同じ。なんといっていいかわからない。東京だって都は新宿の高さ18メートルのところで測った数値を公表しているだけ。

谷中防災広場をよく使う若いお母さんたちの発言も新鮮。「小さな子どもがいると被災地にも支援に行けず、光源寺でおにぎりを握るのは少し何か役に立てている気持ちがした」(わたしなんか阪神淡路の時は何もしなかった。えらい)、「子ども連れではお弁当が使える施設がほしい。飲み食いが禁止される施設が多い」(ほんとうだあ)、「防災広場の椅子の下に煮炊できる器具があるというが日頃使ってないのにいざという時に使えるのか? 日常的に使ってみた方がいい。オーストラリアのようにバーベキューサイトがあれば住民の交流にも役立つ」(そのとおり)、「放射能が気になっても自分の子だけマスクをさせると、何気にしてんのといじめの対象になったりする。弁当を持たせると先生が御宅のお子さんだけですよ、とかいう。本当の気持ちを話し合えないで鬱屈が溜まってゆく」

だからみんなでこれからも話し合おう。なにせヤマサキは会場整理とお茶の係だし、私1人で討論をさばいて、まことに不手際、ごめんなさい。なにか話したいことがある人、といっても日本ではなかなか手が上がらない。南三陸町に長いこといっていた建築家の松下朋子さんの姿も見えたのに、いつか見えなくなった。ぜひ今度は話してくださいね。原発のはなしももっとしたい人が多かったはず。守本さんたちと解放感で前後不覚。

震災日録 6月4日 霧島神宮

2011年6月8日 水曜日

あさ、熊襲の穴というのを観に行った。ここは古事記の大和武尊が河上武を女装して撃ったという伝説のあるところだ。いかにヤマトタケルが美男子だとしてもこういう卑怯な手は許せない。しかも殺される間際のカワカミタケルが「この方は天皇の御子なるぞ」といって手下を制し、タケルの一字を献上したというのも古事記史観で眉つばだ。それにしてもヤマトタケルも九州からわが吾妻までよく移動するものよ。最後が杖により白鳥になって死ぬところは悲しくていいけどね。弟橘姫入水のはなしを思い出し、また津波の死者を思う。

運転手さんに「3・11以降、お客は減りましたか」と聞くと、「その前に新燃岳の噴火ですっかり減ってしまったから、今はむしろ戻っているんじゃないですか」とのこと。新燃岳は近いが霧島や妙見温泉には関係ない向きに煙は行っているのだから風評被害だという。霧島神宮は天孫降臨のニニギノミコトなどが祭神。その故地は高千穂河原といって、ここも1235年の御鉢の噴火によってお宮が焼失、いまのところに移ったというのだから、火山帯にある日本人は地震や噴火と共存しながら古来生き続けて来たことになる。運転手さんは「鹿児島の誇りは桜島です。あれが噴火しつづけてくれているので鹿児島は地震が少ないんですよ」ガス抜きも必要だというわけだ。最後の霧島ツツジがちらほらと咲いていた。6時半家に到着、溜まっているメールを片付け、新聞を読む。

東京新聞は読者投稿欄が面白い。70代80代の老人たちが過激にまっとうなことを言っている。東電は解体しろとか、被災地のために働かない代議士はみんなやめろとか、生きているうちに本音を吐いた方がいいものね。

双葉町が町あての義援金を被災者に配らないで「避難民の中から犯罪者が出てご迷惑をかけた」として避難先の埼玉県騎西町にあげるらしい。人がいいというかバカというか。愛知県東海市では住民から集めた支援物資のうち姉妹都市釜石市から要請のなかった粉ミルク、紙おむつなどを市内の保育園などへ回したが、買って送った市民から「趣旨が違う」と苦情を受けあわてて回収したとか。誰か使えばいいじゃないか。市民も市民、役所も役所だ。こんなだから支援物資は受付けません、になるのだ。みんなを苦しめるこの公平原則。その陰にもっとおおきな不公平がいっぱいあるのに。白鵬ら人気力士岩手県山田町へ、いいぞ。皇太子は山元町山下小学校へ、たしかにあそこは素晴らしい避難所だった。渡邊校長がなつかしい。だけどもっとひどいところを見てもらいたい。

震災日録 6月3日 田平の滝

2011年6月8日 水曜日

昨晩遅くなって土盛海岸のブルーエンジェルに到着、朝になってみると一枚ガラスの向うに素晴らしい海が広がっていた。宿の主人は朗らかで上品な女性。大阪で会社を経営していた夫君が奄美が大好きで、ここに建てた保養所を終の住処にしてしまったという。なくなられたあとも1人でお住まいだ。「空港から3分ですし65歳以上は日本のどこでも1万2千円で行けますのよ。冬はお休みでのんびりやっています。台風の時はさすがに心細いですが、婿がガラスを厚いのに替えてくれたので雨も吹き込みませんし安心です。晴れた日も雨の日も海はいろんな表情でいいものですよ」

8時に中山さんが「奄美で一番きれいな滝を観に行きましょう」と迎えに来た。「だって雨ですよ」「だから水量が多くてきょうはいいはずです」。名瀬からそんなに遠くない。「初心者コースです。沢登りもありますが」という話だったが、台風のあと、道はかなり崩れていた。崖を落ちないようにそろそろと進むと「もう難所は過ぎました」と中山さん。その一言でほっとする。川を渡るとすぐ長靴に水がはいった。「最初に濡れてしまうと気が楽ですよ」となんだか見透かされているみたいだ。

沢をどんどんいくとまるでボルネオの森のようだ、木の根やつるにつかまりつついくとこんどは「ハブが枝やつるに化けてますから気を付けて」にぎょっとする。現れた滝はたしかに堂々たるもので、ものすごい水量、最上部は太い1本なのが途中から岩に当たって「われてくだけてさけてちるかも」なのであった。

1時に空港へ。2時半に鹿児島へ。空港近くで前から泊まってみたかった妙見温泉石原荘へ。もてなし、建築や置いてあるもののセンス、行き届き方、食事、かけ流しの泉質、そしてお値段、どれも申し分なし。これまたキュレーターとして全世界の宿を知っているユカさんと宿の「ベストファイブを書き換えなくちゃね」といいつつ黒麴の焼酎を飲んだ。

震災日録 6月2日 名瀬で再会

2011年6月8日 水曜日

夜中じゅう豪雨。トタン板によくまあと思うほどの雨が当たる。ふれば土砂降り、林芙美子「浮雲」を思い出す。することがないのでみんな花札をやる。私が混じると5連勝。「こういうのビギナーズラックというのよね」とユカさん。私は船で先に古仁屋にわたる。バスをまつ間、首相不信任案の投票を待合所のみんなと見る。そんなことやってる場合か。小沢一郎、岩手出身のくせになにも被災地のためにがんばらないで、菅首相が浜岡とめると財界を代弁して菅つぶしにかかるんだからな。友だちの裕美ちゃんが三田佳子のコンサートに行ったら小泉元首相が来ていて「自分も来ているくせにいまごろこんなとこに来てと思っちゃった」といってた。正しい、一般人と元首相はちがう。裕美ちゃんは女社長だが「東電幹部は避難民にみないえを明け渡せ」と言っている。

それにしても菅の辞任表明と不信任案が同じ日に出るなんて、まるで大政奉還と倒幕の密勅が同じ日に出た幕末みたいだ。まるで政府も国会もマスコミも信じられん。維新じゃなくてこれはまさに国家の瓦解だ。

名瀬までのバスは私1人。運転手さんに「奄美の主要産業は何ですか」と聞くと即座に「公共事業です」と返った。去年10月の大雨で崩れたところも直して仕事になったという。今回の台風でほくほくしている土建屋さんもいるのかも。国税からの補助金で奄美の自然がどんどん傷つけられているのを知ったら「離島振興法」の生みの親宮本常一も泉下で嘆くだろう。タコが自分の足食っているような。

夜、7年前の取材でお世話になったもと笠利町の学芸員、宇宿貝塚の番人だった中山清美さんとお仲間にあう。今朝の新聞にも万屋遺跡の撹乱について中山さんのコメントが載っていた。「文化財指定以前の遺跡ですが、ちょっと対応に追われて遅れました」と恥ずかしそうにいう。きらきらした目はそのままだが、熊本大学で博士号を取られ、この3月に退職して、余生は奄美と琉球弧の自然文化の保全をするつもり。こういう地方公務員もいることを大書しておきたい。「大学で教えないんですか」と聞くと、

「本土には私くらいの研究者はたくさんいます。奄美には大学がないので,私は奄美にいてこそ、子どもたちや大人たち、外から来る人に奄美の歴史や文化を伝えていける。むしろ一緒に掘り起こして行きたい。禁止や管理優先でない、みんなで掘り起こしゆるやかにつながって行く形の世界遺産はできないかと思っているんですよ」

奄美は独自の王権がなかった。あるときは琉球王朝に支配され、近世からは薩摩の支配を受けた。維新以降は薩長藩閥政府の支配、そして国の都合でアメリカ軍政下に。

「だから奄美独自のゆたかな文化を島人が自覚し、自信を持つことは大事なんです。森さんたちのように自分の足元を掘って記録した試みは勉強になります。島尾敏雄や田中一村はそんな奄美をかきのこしてくれましたからそれも大事、でもどのように描いたかより、彼らに描かせた奄美とはなにか、というほうに関心があります」

奄美のいたづらな妖怪けんむんがおすすめする「けんむん認定」をはじめている。「ザシキワラシみたいなものですか」と聞くと、「いや河童に似てるかな」。

ケンムンは本来穏やかな性格だが、自分の悪口を言ったりバカにする人は容赦しない。ガジュマルの木に住み、魚や貝が好きで、ときに魚の目玉だけとって食べる。相撲も大好き、通りすがりのひとに勝負を挑んだりする。占領軍がきて刑務所を建てるとき島人はケンムンの祟りをおそれて「マッカーサーの命令だ」と叫びながらガジュマルの木を切った。その後、ケンムンがすくなくなったのは住処の樹を失ったためとも、マッカーサーに祟りに行ったからとも。

震災日録 6月1日 磯あそび

2011年6月8日 水曜日

私1人のみしゃんに落してもらい、仁さんと磯あそびにいく。長靴はいて岩場を行くのはものすごく疲れる。でもシッタカやトコブシもとれるので張り切る。岩からはがしたアワビの表面をナイフでこすり、身をえぐりだし、塩で洗って食べる。そのこりこりとおいしいこと。と思ったらウニを踏んでそのとげが長靴を突き抜けて足に刺さり、いたい。海には毒を出す生物もいるそうで「ビーチサンダルはいて泳いだ方がええよ」と仁さん。「世界遺産になったらこんなふうに自由に獲れなくなるかもよ」と心配している。おばあのちえちゃんは大正生まれ、86歳なのに大きな病気したことない、綺麗好きでよく働く。

「子どもの頃は何でも家で作ったし、大島紬も織った。16歳のときにおじさんに連れられて東京にいってミシン踏んで兵隊さんの慰問袋に入れる褌を縫っていたの。空襲は恐かったよー。終戦後、奄美はアメリカの軍政になって、日本でなくなったら帰れないとあわてて帰って来たの。それから結婚したんだけど仕事がなくて沖縄に夫婦で出稼ぎにいって土方やってた。こんどは奄美が復帰になったら帰れなくなるとまた急いで帰って来たのよ」

ほっそりしてにこにこしているけど、大変な人生である。トコブシは台所を借りてバタ焼きにしてみた。夜、姪のタカラちゃんが三線を弾いて歌いに来てくれた。みんな遅くまでカラオケをやっていて病人継続中の私はそれを聞きながら寝た。

震災日録 5月31日 西阿室・南龍にて

2011年6月8日 水曜日

昨日にもまして快晴。秋徳小中学校でスズキさんの息子誠さんが石巻で地震と津波に合った話を聞く。缶詰会社に勤めていて、とにかく50人の社員は高台に徒歩で逃げて無事。全員なくなった会社もあるとか。ついて来た仁さん「焼酎がっこうを出たんだからねえ」とにやにや。今は8人の学校に先生はそれ以上いる。「男はつらいよ」のロケ地となった西阿室へ行く。スズキさんは郵便局で1000円積み立て。日本中の郵便局名の入った通帳を持っている。そのそばに相撲の土俵があった。朝汐関は奄美の出身だそうだ。眉が濃く背中に毛が生えて、色白の柏戸と対照的な力士だった。ガジュマルの大樹の下でうとうと。こういうのをブリーズというのだな。それから実久海岸のすばらしい青いビーチで泳いだ。他の人はかき氷を食べて居眠りしていたのだけど。

今日の宿は南龍。おじさんは奄美のひと、ながらく大阪で中華料理と喫茶店と雀荘までやっていたとか。

「よおくもうかったのよ。それ島にきて全部なくなった。子どもがいないからね、親戚の子どもを大学出したりしてね」「海岸も変わったのよ。こんなにコンクリートで固めて世界遺産なんて目指せるのかね。ばしゃ山村の社長さんは一生懸命反対して自分とこの前のビーチは手をつけさせん。えらいもんだねー」

夜はグルクンの唐揚げ、きはだまぐろの刺身など。