震災日録 6月2日 名瀬で再会

夜中じゅう豪雨。トタン板によくまあと思うほどの雨が当たる。ふれば土砂降り、林芙美子「浮雲」を思い出す。することがないのでみんな花札をやる。私が混じると5連勝。「こういうのビギナーズラックというのよね」とユカさん。私は船で先に古仁屋にわたる。バスをまつ間、首相不信任案の投票を待合所のみんなと見る。そんなことやってる場合か。小沢一郎、岩手出身のくせになにも被災地のためにがんばらないで、菅首相が浜岡とめると財界を代弁して菅つぶしにかかるんだからな。友だちの裕美ちゃんが三田佳子のコンサートに行ったら小泉元首相が来ていて「自分も来ているくせにいまごろこんなとこに来てと思っちゃった」といってた。正しい、一般人と元首相はちがう。裕美ちゃんは女社長だが「東電幹部は避難民にみないえを明け渡せ」と言っている。

それにしても菅の辞任表明と不信任案が同じ日に出るなんて、まるで大政奉還と倒幕の密勅が同じ日に出た幕末みたいだ。まるで政府も国会もマスコミも信じられん。維新じゃなくてこれはまさに国家の瓦解だ。

名瀬までのバスは私1人。運転手さんに「奄美の主要産業は何ですか」と聞くと即座に「公共事業です」と返った。去年10月の大雨で崩れたところも直して仕事になったという。今回の台風でほくほくしている土建屋さんもいるのかも。国税からの補助金で奄美の自然がどんどん傷つけられているのを知ったら「離島振興法」の生みの親宮本常一も泉下で嘆くだろう。タコが自分の足食っているような。

夜、7年前の取材でお世話になったもと笠利町の学芸員、宇宿貝塚の番人だった中山清美さんとお仲間にあう。今朝の新聞にも万屋遺跡の撹乱について中山さんのコメントが載っていた。「文化財指定以前の遺跡ですが、ちょっと対応に追われて遅れました」と恥ずかしそうにいう。きらきらした目はそのままだが、熊本大学で博士号を取られ、この3月に退職して、余生は奄美と琉球弧の自然文化の保全をするつもり。こういう地方公務員もいることを大書しておきたい。「大学で教えないんですか」と聞くと、

「本土には私くらいの研究者はたくさんいます。奄美には大学がないので,私は奄美にいてこそ、子どもたちや大人たち、外から来る人に奄美の歴史や文化を伝えていける。むしろ一緒に掘り起こして行きたい。禁止や管理優先でない、みんなで掘り起こしゆるやかにつながって行く形の世界遺産はできないかと思っているんですよ」

奄美は独自の王権がなかった。あるときは琉球王朝に支配され、近世からは薩摩の支配を受けた。維新以降は薩長藩閥政府の支配、そして国の都合でアメリカ軍政下に。

「だから奄美独自のゆたかな文化を島人が自覚し、自信を持つことは大事なんです。森さんたちのように自分の足元を掘って記録した試みは勉強になります。島尾敏雄や田中一村はそんな奄美をかきのこしてくれましたからそれも大事、でもどのように描いたかより、彼らに描かせた奄美とはなにか、というほうに関心があります」

奄美のいたづらな妖怪けんむんがおすすめする「けんむん認定」をはじめている。「ザシキワラシみたいなものですか」と聞くと、「いや河童に似てるかな」。

ケンムンは本来穏やかな性格だが、自分の悪口を言ったりバカにする人は容赦しない。ガジュマルの木に住み、魚や貝が好きで、ときに魚の目玉だけとって食べる。相撲も大好き、通りすがりのひとに勝負を挑んだりする。占領軍がきて刑務所を建てるとき島人はケンムンの祟りをおそれて「マッカーサーの命令だ」と叫びながらガジュマルの木を切った。その後、ケンムンがすくなくなったのは住処の樹を失ったためとも、マッカーサーに祟りに行ったからとも。