2013年2月 のアーカイブ

1月26日 テロ特別措置法?

2013年2月26日 火曜日

日揮という会社の社員が殺害されて遺体が帰国した。ニュースはそればかり、飛行機から降ろされると作業員がみな深々と礼をし、副大臣が現地に飛んだり、安倍首相がテロを許さないとか、演説。なんだかたんなる企業戦士が祖国の英雄のようにあつかわれ、違和感を覚える。
「これがジャーナリストや旅人ならこんな扱いをするかしら」「彼等はビジネスで、いわばもうけるために危険を覚悟でアルジェリアにいったんでしょ」と母は言う。イラクの人質のときのような自己責任論も出てこないで、このままテロ対策のほうにシフトしていくのはなんともいやなかんじ。安倍、石破、麻生なんて顔は見たくもないが、民主党をこき下ろしてこんな連中に変えてしまったのはわたしたち。女性の登用はいいが、党三役も大臣もみんな右より、高市早苗のしたり顔をみると串田孫一さんじゃないが、スリッパで画面をひっぱたきたくなる。
夜中『チャイナ・シンドローム』を見る。40年前とは思えない、いまのことのようだ。アメリカの原発にジェーン・フォンダ扮するテレビキャスターが取材にいき、小さな事故に遭遇。原発の所長のジャック・レモンは技術者として誇りももっているが、漏れだした水に格納容器の穴を疑い、上司に進言するが、利潤を追求する経営陣は稼働を命令、ついに所長は自ら武器を持って集中制御室に立てこもり、射殺される。

1月25日 累進課税を復活せよ

2013年2月26日 火曜日

「レ・ミゼラブル」フランスの民衆蜂起を描いた作品だとは、あまりそう思ったことはなかった。しかもスーザンボイルの歌ったあの歌が、あんなに悲惨な状況で歌われる歌とは。自分の生んだ子を預けてまで働かなくてはならず、まともな職には就けず、売春婦になって体を傷めるいのちのきわに、私の人生は何だったのだろう、いろんな夢もあったのにも、という悲しみに泣いた。いまもこんなふうにバンコクで買春で稼いで田舎に送金している人もいる、母親もいる。日本にも生活保護が申請できないで、無理な労働を強いられている母子家庭は多い。この層にもアベノミクスは襲いかかり、収奪するもよう。累進課税の最大72パーセントというのはいつ、どうしてなくなったんだろう。私が貧乏にあえいでいた頃、黒柳徹子さんが国会かなんかで、累進課税に反対し、私が一時間番組に出ると、最初の1分くらいしか手元に残らない、などといっていてこの人は赤旗なんかでいいことをいうわりにはわかっていない、とおもった。才能のある人、勤勉努力する人がある程度、豊かな暮らしをすることはモチベーションを高める上で必要だが、豊かな暮らしをするのに年間一億はいらない。

1月24日 もやもやする気持ち

2013年2月26日 火曜日

『旅と鉄道』に北陸の温泉にいったルポが載っている。取材でなく撮影旅行みたいになってしまいもうこりごり。被写体が既にフォトジェニックじゃない。もこもこ着ていったのでそうとう膨張しており、まいった。『文芸春秋スペシャル』には永遠の私のアイドル、沢田研二さんのことを書いた。これまたハズカしい。掲載紙が来ると必ず落ち込む。石巻の坂下清子さんが、胸の内のもやもやを吐き出せなくておられた。集落でなくなった方たちの顔が浮かび、「まいにちなくなった家のあとのところを通るたびに、ごめんね、ごめんね、と胸がつぶれる思いで通る」とおっしゃっていた。一方生活のために、『強運の牡蠣』の応援の人たちの対応、発送、メディアへの登場も必要になり、引き裂かれるような気持ちでおられると思う。わたしも被災地のことを思うと胸つぶれ、選挙結果に打ちのめされ、身過ぎ世過ぎの原稿も書き、おいしいワインを飲んだりして、よる寝る前に何か大事なことを忘れているようなかんじがする。修業が足りない。

1月23日 窮極のパッシブ

2013年2月26日 火曜日

家ではほとんど暖房をつけていなくて、今年の冬助かったのは原田病のときに某女性誌の方が持ってきてくれた足袋湯という室内ブーツ。これは人体の熱を特殊素材で反射させてまるで汗を書くほど足が暖かい。イシゲンというメーカーが出しているもの。もう一つはこれも彼女が持ってきてくれた大豆袋で、レンジでちんして、肩の上に載せると暖かい。韓国の砂袋みたいなもの。あとは頚筋を冷やさないように、絹をまいているだけ。至って原始的である。夕方、新橋の樽平で共同通信の記者たちと津田医師と飲む。
こんな居酒屋はもう東京に少なくなった。一品ずつは高いような気がするが、たくさん頼んで飲んだのに、そんなに高くはなかった。小山さんに村上春樹の作品などに聞いたら読みたくなって来た。

1月22日 仮設は東南アジアへ

2013年2月26日 火曜日

谷中コミュニティセンターのことでできたすばらしい仲間のうち、松下さんが東大の修士を卒業されて博士課程に、藤倉さんが学位を取られたので、おいわい。仮設住宅は2年半でゴミになるどころか、高台移転や公営住宅の建設が進まないので、5年7年仮設住まいになる人たちが多そうとのこと。ゴミになるのではなくて、それは東南アジアとかに運ばれるのだそうな。ダイワハウスはじめプレハブメーカーは大儲け、神戸でも復興費の9割は兵庫県外に流出したという。東北でも「被災地のために使われる」税金は『被災地でもうける』ゼネコンやハウスメーカー、シンクタンク、コンサルタントなどのふところに入ることになる。またアパレル関係の仕事の酒井さんからは、震災時にダウンジャケットをきて歩くのはチャッカマンを着ているようなもので、綿やウールを着たほうがいい、という指摘もあり、中村さんは火鉢カフェの主宰者で、さまざまな熱源の必要を教えてくれたのでうちも火鉢を試してみることにして炭を買った。

1月21日 震災日録

2013年2月26日 火曜日

岩波新書『震災日録』を校正。ずっと映像ばかり取っていていれる写真がないことにあわてる。同行した方達から提供してもらう。2011年3月11日に東日本大震災が起こり、旅先で『世界』の清宮さんから5月号の緊急特集に書くことを求められた。なんといっていいかわからなくて、私は26日くらいまでの日録、見たこと聞いたこと考えたことを書いた。その後もブログで毎日のように書いて来た。『世界』にその後も7回連載したのでそれをまとめるつもりだったがやっぱりブログの日録を中心にしたほうが臨場感があった。しかしブログに書くのと新書になるのではやはり違う。今読み返すと気負いや興奮や勘違いもあるような気がするし、誰かの心を傷つけるのではないかと思う。とにかくメールなどを引用させていただいた方たちからは快く転載の許可をいただけた。いまは事象が複雑で、わかりにくく、分断も生まれているので、いまから刊行後の反響が気がおもいが、「そのとき感じたことを正直に書いたのだからしかたがない、何を言われても甘んじて受け止めよう」という気持ちになっている。架空のことを書く、昔のことを書くのとちがって、いまのことを書くのがどんなに難しいか、思い知った。

1月20日 商店街めぐり

2013年2月1日 金曜日

朝、石巻から熊谷さんがきたので、早稲田の安井商店に案内したがお休み。東京案内は商店街が一番いい。ここは東日本大震災支援で東北各地のものをおいてくれている店。
しかたないので、早稲田構内の歴史的建造物を見学、じゅうぶんの大隈講堂、イギリスのグローブ坐を模した演劇博物館。グローブ坐は茅葺き屋根だったので熊谷さん大喜び。フランス人ソワジックさんも一緒に都電で巣鴨庚申塚、おばあちゃんの原宿はきょうも大にぎわい、マルジの赤パンとか、生姜湯、漢方薬、八つ目ウナギ、カリンののど飴、靴下かさねばき、ウエストゴムのモンペ、もうおじいさんおばあさん必需品ばかり、合い言葉は健康に年を取る。北上や雄勝も46パーセントが老人なのでこういうコンセプトで商店をやってみたらどうか。トキワ食堂でビールで白子やサバ味噌で満足。大ビン450円にはなける。更に地下鉄でハッピーロード大山へ。東上線で帰って仕事。

1月18日 丸の内はん亭

2013年2月1日 金曜日

みんなが東京駅を見たいというので10時に待ち合わせ。北口から中央口、ステーションホテル入り口、中央郵便局、東京駅が出来る為に必要だった高架線、東京国際フォーラム、安田生命ビル、コンドルの三菱一号館、三菱ビル、行幸通り、丸ビル、銀行倶楽部、パレスサイド、工業倶楽部などをご案内。こうして見ると丸の内にも見るべき近代建築とその痕籍がある。みんな「昨日の新宿よりいいね、上品やね」そして最後、東京駅を見下ろす新丸ビル5階の丸の内はん亭で串揚げのランチ、2800円で前菜から始まり、串揚げ8本、生野菜、蓮根のポタージュ(絶品)ご飯に赤出し、コーヒーつきでお腹がいっぱいになった。みんな喜んでくれた。でも疲れさせたのではないだろうか?
地方の人が東京へ来ると東京人がみんな早足でよく歩くのに驚く。すぐそこだからと言ってから20分も歩いた、と一本杉の人たちはびっくり。反対に私が地方へ行くとすぐそこだから、と車で20分くらいの居酒屋に連れて行かれ、タクシーなら3000円はかかるなあ、と思ってびっくり。そのくらいの意識の差がある。北海道の婚家で歩けばすぐそこのラーメン屋までわざわざ車庫から車を出して食べにいったのにも驚いた。

1月17日 戦争展を見る

2013年2月1日 金曜日

鳥取大の家中さんとお昼ご飯。七尾一本杉通りがJTB旅の交流文化賞をとったので、授賞式に上京。新宿も見せるところもないが、高層ビル街、雪のあとで風身を切るごとく寒く、三角ビルの最上階からただで東京を見る。遠くに秩父や丹沢が見える。42階に総務省の戦争に関する施設あり。短期で軍人恩給をもらえない人、シベリア抑留になった人、満州から引き上げた人々の労苦を伝える為の施設とか。これを聞いたらソ連や社会主義に対する敵意がますだろうというばかりの説明。たしかにソ連が戦後に捕虜を酷使し死に至らしめたことは国際法違反だが、それなら中国の捕虜収容所の洗脳、アメリカの国際法違反の空襲や原爆投下、そもそも満州開拓と言う侵略政策をとった日本という国の間違いや、重慶爆撃、南京虐殺も展示しないと、いかにも日本人が被害者であるかのような印象を与える。説明員のおじいさんに失礼ながら一言「こういうことを引き起こしたのも日本の間違った膨張政策でないのですか」というと、おじいさん、色をなして、「そういってもあの頃は世界恐慌で職はなく、飢饉で娘を身売りするなど日本人は国内で食べて行くことができず、新たな大地を求めるしかなかった」という。では国内で行き詰まったら、国外に武力とともに出て行っていいということか。さすが鳥居正子さん、「まったくいまと同じ情況やね。こわいね」

1月16日 高村光太郎の詩碑

2013年2月1日 金曜日

今日は渡辺さんの運転で、雄勝にもう一度行く。味噌作のわき水は底を抜いたペットボトルが指してあった。震災の時、多くの人を助けた水だ。その先には「高台への道」がある。津波の教訓を生かして造られていた。「今回、役に立ったのはお年寄り。どこにわき水があるかも年寄りが知っていた」と渡辺さん。
雄勝は法印神楽が国の無形文化財。これを奉納する神社に行ったら石神社とも書いてあった。石巻といい、ここは雄勝石が地名にしっかり刻まれている。
雄勝の復興商店街であんかけ焼きそばを食べる。私にはちょっと甘くて油っぽい。しかし一生懸命働いている家族に乾杯。時計屋さんはいちはやく加美町に家を借りた。きょうも雪道の渋滞で2時間かかったという。でもお客さんは少なく、店の一部を工房にし、獅子やビールの缶でキャップを作っていた。目覚まし時計とお肉屋で孫の手を買う。
女川では泥のなかに高村光太郎の碑を発見。女川の商店街を見る。