民主党の政治家が失言をしては失脚している。沖縄で「犯す前に犯すというバカがいるか」発言は本当だとしたら女性と沖縄にたいして言語道断ではあるが、マスメディアの報道もこの間、鵜呑みにできないことはみんな分かって来た。でも政治家にオフレコなんてありえない。記者が複数いるところで話したらオフレコではないだろう。そういうときに真性が出るものだしね。橋下について「こういう風にしてファシズムができていくのか目の当たりに見る感じ」という新聞読者欄に共感。われわれは危ないところにいる。「議員の視察を辞めて被災地支援を」にも共感。思い出す。谷根千をはじめた頃、福島県安達町というところへ招かれて自費でいったら文京区の議員団が到着して、弥生式土器のレプリカを見て「これ、本物かな」(なわけないじゃないか)、壁にかかったミレーの晩鐘を見て「これ、本物かな」(なわけないじゃないか)、一時間ほど区議と町議で懇談のあいだ、「森さんは外に出ていてほしい」と区議団にいわれ、そのあと彼らはバスでさっさと岳温泉に去っていった。視察とはその程度のもので税金のムダ。私は町議の家に泊めてもらい、夜は農村の女性たちと高村智恵子の生き方などについて話し合った。たっぷり給料や調査費をもらっているのだからよほど興味のあるところへは個人で行ったらいいだろう。そのあと宴会でよって女性議員にさわったり、おんな風呂をのぞいた議員も過去に例があることだし。安達町の人たちはどうしているかな。文京区議は100万くらい給料が出るらしいが、われわれは19万円で農業しながら議員をしていますといっていたっけ。
2011年12月 のアーカイブ
震災日録 12月9日 議員の視察は税金のムダ
2011年12月14日 水曜日震災日録 12月8日 ドキュメンタリーを見る幸せな一日
2011年12月14日 水曜日毎日映画コンクールの審査。いい環境で一日映画漬けなんて。しあわせ。
毎日新聞のために「新しい女」について書く。3日に毎日に私の記事が載ったらしくメールがいろいろ来てきょうは毎日漬け。神保町ですいれん舎の高橋さんと能登行きの打ち合せ。志賀原発裁判資料を出すのでそれにつける映像を撮るために能登へ行く。
本を書くことから地域の生活史のインタビュー、映像記録へとずいぶんしごとの幅が広がって来た。目の病気のため書評や解説の仕事がつらいし、映像や録音はまた別の表現の方法でおもしろい。志賀原発で原発は地域社会と馴染まない、という判決を出した井戸裁判長はいまは弁護士になられ、脱原発の運動に関わっておられる。会ってみたいな、同い年だし。
震災日録 12月7日 またおいでね
2011年12月14日 水曜日もう帰る日だ。暑かったり寒かったり。今日はまた蒸す。朝は大山裕達さんに話を聞く。ながらく神奈川県にいたが大山家を守るために帰ってこられた。神奈川出身の奥さまは竹富暮らしを楽しんでいらして藍ジシンのきものをすでに三反おられたとか。竹富には警察官はいないが、桟橋で無言のチェックが効くし、まず治安がいい。おたがいが助け合って生きていく。毎日朝は家の周囲を箒ではき清める。帰って来てよかった、という。11時45分の船に乗ったら内盛スミさんがいて、「またおいでね。遊ぼうね」といって踊る仕草をした。その手の動きもかっこいい。篤さんも乗っていて「もう帰っちゃうの、今日は山羊汁のつもりなのに」と声をかけてくれた。二人の言葉が温かかった。帰りの飛行機は追風なので5時頃には羽田に着いた。人ごみの中にはいったとたん、竹富に帰りたくなる。100以上もたまったメールの対応。12日の牡蛎の会はもう2日間で埋まった。
震災日録 12月6日 時化にあって命拾いした話
2011年12月14日 水曜日中森荘の内盛勇さんから話を聞く。おにいさんの正玄さんとまた違ったすばらしくお元気なおじい。正玄さんは兵隊にいき、ちょっと下の勇さんは護郷隊にはいって西表に駐屯した。戦後は、由布島に小屋を建てて西表で田んぼをやっていた。お盆の頃帰ろうとして台風に会い、波にもてあそばれながら二里泳いで竹富に帰った冒険談などをきく。
お昼は狩俣恵一先生のご両親に挨拶に行ったら、お昼をどうぞととびきりおいしい焼きそばにあずかった。お父さんは本当にようすの良い方で、がっしりして声も大きくて、さすがに名家に婿がねと見込まれただけのことはある。「家中先生もきれいな人を連れ歩いて」などと冷やかしてくださって、昨日とはずいぶん待遇が違う。夜は念願の赤山喜介さんのお話を聞くことができた。92になられるのに、記憶力抜群で耳もよく聞こえてビルマ戦の話などをしてくださった。きょうは泉屋さんに泊まる。篤さんの夫人きょうこさんとゆっくりお話しできてよかった。東京で働いていたのに竹富に来て、篤さんと出会い、このひとだ!とおもって結婚した。すごいな。
震災日録 12月5日 竹富のフーチバーの香
2011年12月14日 水曜日昇助さんの植物や薬草に関する話を聞く。ヨモギは長寿と関係あるようだが、内地へ移植すると香りが2年目からうすれるという。午後は内盛親和さん悦子さんのはなしを聞く。ヴィラ別邸の若手リーダーの打ち上げに混ぜてもらう。夏は中筋のヴィラ竹富にずっと泊まってたいへん快適であった。そのレストランに新しいシェフが来たのだが、工夫があってなかなかおいしいお料理。「女の私が行ってもいいの?」と聞くと、上勢頭篤さんは「もう女じゃないでしょ」なんていう。ほんと口が悪い。でもそういうずけずけ本音を言って裏がないところが竹富の好きなところ。
震災日録 12月4日 松竹荘にて
2011年12月14日 水曜日5日間、内盛荘にお世話になったので、松竹荘に移る。一本裏の道で静かだし、家には花が咲き乱れる。ながく農業に携わり、魚も採り、なにより手仕事の得意な昇助さんが大好き。きょうは奥さんの美智江さんの話も聞けた。美智江さんのおじいさんは竹盛といって医師免許を持たずに薬草などで治すお医者さまだったのだ。これがじつによく島人を治したという。願寿屋であっさりしたそばを食べ、午後は内盛スミさんに昔の井戸の話や伝説をきく。夜は客の三線を聞いて久しぶりに早く寝た。
震災日録 12月3日」 反省会と交流会
2011年12月14日 水曜日今日も忙しい。朝は10時から各郷友会などとの交流会がある。今日でた意見は観光客、外国人ももちろん、1日ゴザの上で静座して見るのは今となっては無理なのではないか、とか。島外から来て姪や孫がいつ出るか分からないのでプログラムとだいたいの出演時間を教えてもらえないか、など。そういうと神事なのだから変える必要はないと言う意見も長老からでる。私も足が痛いから低くても椅子席の方がありがたいが、もしかすると頑固なひとが祭の原型を守っているのかもしれなかった。
午後は内盛荘でおじいおばあ、といってもとっても若くて仲が良い二人のはなしを聞く。夜6時からは竹富島文化協会の総会、これも参加を許してもらい、会員でもないのにオスシをご馳走になった。長老たち、そして60代の中堅の方たち、50そこそこの若手、各世代にリーダーがいて、みんなかっこいい男たちだ。本土にはこんなマッチョいないぞ、とおもう。本渡からきた観光客や竹富で働くヘルパーの女性が島の男と結婚する気持ちはよくわかる。それがまたみんな綺麗な方たち。
震災日録 12月2日 種取り祭
2011年12月14日 水曜日今日は中筋の演目。いずれもすばらしいが、たくさんありすぎていちいち書くわけにはいかない。狂言も竹富の言葉がわかって、誰が何を演じているか、島のひとは分かるから盛り上がるが、多少知っている顔も化粧をするとまったく違って見え、来年も来なければわからない、と思った。そこで菊池寛賞を受賞した「竹富語辞典」2万5000円なりをえいやっと買った。あついのでTシャツも買った。6時ですべての演目が終わり、中筋の反省会に参加させてもらった。踊りの師匠の野原富子さんと、いまは神司の島仲由美子さんは以前は踊りのよいコンビだったという。しかし由美子さんのご主人義伸さんは狂言の名手だし、娘さんが踊りで活躍、富子さんの息子の健さんも地方のほか猿回しの役で舞台で三線を弾く。この狂言が大変な人気で、さるの役をやった駆クンは一番の人気者、花金が乱れ飛んだ。しかし神への奉納なので花金を投げていいのは子役の狂言に限られる。おばあがうちの孫が出ているというので喜んで投げるそうだ。
震災日録 12月1日 アマチュアカメラマンたち
2011年12月14日 水曜日いよいよ祭の本番。朝6時に起きて弥勒起こしの神事を遠くから見る。ミルクユウというのはいずれ来る幸せな弥勒の世。弥勒は女の神で目が見えないという。それから干鯛の儀が長く続き、10時半より東と西の演目が始まる。世持ちうたきのまえに仮設テントに舞台がしつらえられ、大きな紺地の幕がかかっている。地唄は幕の後。御嶽の前には女性の神司が奉仕する。その前には麻の黒い縞の着物の長老たち。別の面には来賓や島に帰って来た人たち、もう一辺に子どもとおばあたちが坐る。一般の観光客などはその後ろだ。これは客に見せるものでなく、あくまで神さまに見ていただく芸能である。だからプログラムのようなものもない。休憩もなく夕方まで続く。
ニコンのクラブが40人、来ていたがなかにはひどいマナーの人がいる。高級そうな大きなカメラをもって一般席からどんどん中にはいってくる。女性の着替え中の楽屋を撮ろうとする。ばしゃばしゃシャッターを切る。マナーの良いある人に聞くと「昔はフィルムだったのでシャッター押すのも慎重でした。いまは一枚のメディアで700枚とか撮れますし、気に入らなければ夜のうちに整理できますから」という。黄色い線の内側にいた1人が少し前にでた島の人を「マナーを守れ!」とどなった。その意味は「俺の撮るのを邪魔するな」ということだろう。あんなに撮ってどうするのか。目的はアマチュアの写真展に出品して賞を取りたい程度のこと。それで神事を邪魔してよいのだろうか。なかには出番を待つ美しい少女を至近距離からばしゃばしゃやっている。撮られる方は嫌がって注意する人もいるのに、「すこしぐらいいいだろう」とか、まるでオヤジのセクハラ。ニコンも高級カメラを売りたいのか知らないが、島に入る前にマナーはきちんと教えるべきだ。私も初めてだったのでしてはいけないことをしなかったか、心配になったけれど。夕方に写真団体は引き上げ、あとはユークイといって各家に福があるように歌いながら訪問して歩く。かならずお酒とニンニクと島だこが出た。お酒は高台の上に小さな盃が置かれたが、自酌で飲むようだった。女性は一番座に入れない家もあった。
震災日録 11月30日 離島なのに人口増
2011年12月14日 水曜日きょうも祭の準備、中筋のイーヤチつくりに参加。長老の前本さんにみんななんでも聞きながらやっている。前本さんが用意してくれたそばもいただく。竹富は男社会だが、長老に出番と居場所のある島である。夜は男性たちの狂言の稽古。女たちは舞踊、男は狂言とわかれ、これを島の言葉でキョンギンブ(狂言部)という。この島では年間に22回の行事があるという。戦後、復員兵などで島は2000人に人口が増えたが、生産力と見合わず、だんだん減って最少250人にまでなった。いまは毎年40万人が訪れ、内地の人と結婚して子供が生まれたり、アイターンもあって、また人口が350人を超えている。島には現在、星野リゾートによる高級リゾート計画もあって、島外から心配する声もあるが、「島のことは島の人が決める」と公民館長は言いきる。たしかに雇用が増える。いっぽう島の中に新しい居住者が住める場所はなかなかない。空き家はほとんど埋まっている。どうなるか、ゆっくり見守っていきたい。