2011年11月 のアーカイブ

震災日録 10月28日 北京原人の意見

2011年11月4日 金曜日

今回の東北の地震で両親ともなくした子供は100人くらいはいるという。中国で唐山地震のときもたくさんの孤児が出た。中国で聞いた話しだと、その子たちは係累がないからと政府が連れて行って諜報部隊に入れたというのだが本当かなあ。身近な中国人に北京に行ってきたよと話すと、「タクシーは来ないし、車の運転のマナーは悪いし、地下鉄は混んでいる上、切符の買い方がわからないし、なんでそんなとこいったの? 北京子の私が聞くと、いまいるのはあれ、北京の人じゃないね」という。「日本に来る中国人もマナー悪い、居酒屋で靴下脱いでテーブルの上において大騒ぎしているから恥ずかしくて注意したよ」という。世界一早い新幹線ができたじゃないの、というと、「あれは天国へ一番速い新幹線だよ、危なくて乗れない」と手を振った。彼に聞いたおかゆとシュウマイの店、都一処はおいしかった、とお礼を言うとやっと顔がほころんだ。

震災日録 10月27日 夕日が沈む頃

2011年11月4日 金曜日

朝、お宮の祭礼。海岸ベリを御神輿が走りまくる。ここのお年寄りは聞き書きをしている間でも手を休めない。小豆の皮を剥いたり、網を繕ったり、本当によく働く。かんじのいい小振りな資料館、その上に木の椅子やテーブルの図書室、そしてかつて粟島馬を放牧したマキを見に行った。馬と人間は共存しつつも、畑を荒す馬を捕まえてマキに追い込む作業は花見時のお祭り気分だったらしい。天気はすっかり回復して、海は青い。
帰りの船は快適だった。おりる間際にすばらしい夕日が沈んだ。画家のともちゃんと瀬波温泉によって帰った。もう島に帰りたくなる。次はタラ鍋を食べにおいでと島の人がいった。海は荒れるらしいが。

震災日録 10月26日 公共土木事業

2011年11月4日 金曜日

海はしけた。きのうはフェリーも欠航。今日午後3時半はどうにか出た。
夜はお祭り、宵宮である。鳴り物入りでない、しずかな村の祭礼だ。一人一人のお年寄りが純真で、恥ずかしがりで、女性は特に、頭に手ぬぐいやタオルをまきその上に帽子をかぶって顔を隠している。カメラを向けると顔を隠す。竹富島と人口規模や水牛車をやっているところは似ているが、竹富はかなり観光化がすすみ、こんなうぶでかわいらしい感じの人はそうはいない。そうはいってもかつて出稼ぎを多く出した村は高齢化し、村の土木工事は島外からの人がきてやっている。防潮堤、崖崩れの修理、住宅工事、夏の観光シーズンが終わったいま、それらの働き手が民宿に泊まっている。夜中に太鼓をどんどん鳴らしながら若者たちが回ってきた。やれかかといって「早く母ちゃんは起きて赤飯を炊け」という合図らしい。きのうばあちゃんにごちそうになった赤飯もしるこも小豆からばあちゃんが育てたもので絶品だった。民宿たてしまの食事も珍しいものばかり。カメノテとかブリの内蔵のキムチ和えとか。お酒が進む。

震災日録 10月25日 しけの日

2011年11月4日 金曜日

船は揺れた。天気も悪くなってくる。高速船は早々欠航。3日も船が行き来しないとかなり物販が滞る。アイルランドでそんな絶海の孤島があった。世界遺産になっていた。
私より少し上の方たちは集団就職で東京や大阪に出た。もっと上の人たち、80くらいの方たちは小学校を出ると、女中奉公や製糸工場に出稼ぎに行った。男たちも戦後もずっと出稼ぎに行った時代が長かった。昭和50年代に離島ブームが起き、民宿がはじまって島は観光で立ち行くようになった。釣り客、家族連れの海水浴客がリピーターでやってくる。中には90歳のばあちゃんが一人で客をもてなし、シーツも洗っているところもある。釜谷の集落にとまる。松田やさんの煮魚、焼き魚はとってもおいしかった。観光化するのでなく、馬を使った交通やスローカフェなどをつくって金銭に迷わされない人と人のつながりを大切にした島になるといいと思う。

震災日録 10月24日 越後の粟島

2011年11月4日 金曜日

越後の粟島に行く。新潟まで新幹線。稲穂一号で村上へ、乗り合いタクシーで岩船港。
そこからあわしま丸で1時間半のこの島へ私はなぜいくのか? 脱原発デモも国民投票も大事だと思うけど、反対する以上に、別の未来を提示することが大事だと考えるからだ。原発のいらない、スローで豊かな、小さな楽しい暮らしを。それを谷根千でもして来たつもりだし、でも谷根千では東京電力、東京瓦斯、東京都の下水道、地下鉄やタクシー、人ごみと縁を切ることはできない。それにしても人ごみってスゴイ表現だね。自分以外の人はみんな「混み」。もっといえばゴミ。なんでこんなに並んでいるのよ、とぷんぷんしながら国立博への列の最後尾についたおばさんを見たが、そんな感じ。あんたが並ぶからだよ、とは怖くていえなかった。
粟島は350人の人口で合併していない。島には小さな発電所、フェリーでも外の車は島内に持ちこまない、じいちゃん、ばあちゃんが田を耕して、魚を釣って静かに暮らす。むかし粟島馬というのがいてその聞取りを頼まれた。昭和7年に最後の一等が絶滅したという。

震災日録 10月22日 仙台

2011年11月4日 金曜日

今日一日が勝負。朝は中公文庫のゲラを返す。『世界』の長い原稿を書く。どこにも行かず。丸森の新米を炊いて食べた。このお米を頼んだとき、ものすごく長いリストが送られてきた。放射線値NDに始まり、残留農薬まですべて。仕事終わったのは朝の5時。2時間仮眠を取って仙台へ。新幹線で爆睡。文学館で円朝について話し、料理研究家の高橋広子先生の家へ。さすがに食の専門家だけに食べ物のことに造詣が深い。今日はハラコ飯と実だくさんの汁をいただく。仙台市内だが3月11日は停電。11時まで水が出たので風呂や薬缶、鍋に水をくみおいた。プロパンガスで調理し、とにかくおむすびを握っては来る人全部に食べさせた。家は避難所状態。仙台で委員会があった娘さんの恩師と大学院生を2日泊めた。大変な経験をたくさん聞いた。

震災日録 10月21日 大鹿村騒動記

2011年11月4日 金曜日

海沿いに魯迅公園や青島などいってみる。また横浜の山手のような日本なら高級住宅地を歩く。プラタナスの街路樹も美しいがすんでいる人は庶民ばかり。でもこの町の高低差は老人にはきついだろう。あっという間に帰る時間になった。午後の飛行機は行きよりずっと大きく、画面で『大鹿村騒動記』で原田芳雄をみる。大楠道代は吉永小百合なんかよりよっぽどうまいのに文化功労者になれないな。三国連太郎、佐藤浩市、岸部一徳、芸達者ばかり。ヤマサキが見ろ見ろという映画をこんな小さな画面で見てまたおこられそう。
かえって白山の映画館でチベットでの中国の人権弾圧の映画とコンサートあり。こんなことしている国に行ってきたのかと慄然。ヒマラヤを越えて逃げてきた子供たちを育てる施設はダライ・ラマ法王の妹が経営しているらしい。疲れているのにイベントに参加して荒川さんやはてなさんとワインを2本もあけてしまった。

震災日録 10月20日 日本人観

2011年11月4日 金曜日

バスに乗って新市街までいくが面白くもなし。土産物は貝細工くらい。昼過ぎに地図にある風景特区にいってみるが変な地下街があるだけ。まっすぐの参道みたいなのがついた子供の天国とかいう公園があった。後で聞いたら日本統治時代につくった植民地神宮の一つの跡。今回の東北大震災で、中国のテレビに日本の普通の被災者が写り、泣いたり笑ったりする普通の人々だということがわかって日本人観が修正されたという。日本人といえば残虐な軍国主義者のようなすりこみがされているので、びっくりした人は多かったらしい。とくに石巻の水産加工会社では中国人従業員をすべて逃してついになくなった社長がいた。社員に人望があって中国人女性らが社長社長と嗚咽する姿に日本人観を変えた人もいるらしい。中山通りの古い店で海鮮火鍋を食べた。さっぱりしておいしかった。マテ貝、しゃこ、アサリと食べ尽くした。青島ビール。

震災日録 10月19日 ドイツ人の作った町

2011年11月4日 金曜日

朝から町を歩き回る。青島は新しい町。山東省は山東菜っ葉で有名。19世紀末にドイツが租借してつくり、モダニズムやハーフティンバーなど様々な洋館が林立する。しかし石を貼ったり構造材を見せたりかなり重くしつこい。白雪姫やヘンゼルが出てきそう。なかにはロシア風もある。しかしドイツは第一次大戦中に手放し、三等出兵した日本がそのあとにはいり、そのまま使った。これも観光資源なのできれいに塗り替えたりしているが、かつて一家族が住んでいた家に、配電盤が16付いていたりする。ガス、水道、トイレもない一間に老人が住んで、庭で菜っ葉を作ったりしている。生みの親はいいのになあ、と思うことしきり。老舎の住んだ家、康有為の住居が記念館になっていたのをみられたのは運がよかった。昼ご飯はしらエビの唐揚げとホタテのネギ情由で青島ビール。午後はビール工場を見学。またビールを試飲した。

震災日録 10月18日 辛亥革命100年

2011年11月4日 金曜日

毛沢東故居を探しながら鼓楼、鐘楼などの周りを歩く。
昼過ぎの飛行機で青島へ。桟橋王子飯店からこの町のランドマークの桟橋が見える。
中山大通りをあるいて春和楼という古い店を見つけ、アワビ、エビ、ホラ貝の炒め物、豆苗などを食べる。青島ビール。夜は8時から辛亥革命のドラマをやっており、それぞれそっくりさんの役者が演じている。宮崎滔天が着ている着物が柄物のウールでぶくぶくなのや、孫文の日本の住居の日本間がやたら広くて、障子の桟なども変なのはご愛嬌。いま日本にはいないようなマッチョな男の大時代な演技も面白い。結局3晩つづけて2時間ずつみる。字幕がつくので略字はむずかしいがわりあいよくわかる。