2011年11月 のアーカイブ

震災日録 11月6-9日 普天間基地の騒音

2011年11月21日 月曜日

今日からオキナワへ行く。沖縄の仕事が来るとすぐいきたくなってしまう。今回は宜野湾市にある普天間基地の騒音の取材。旅のあいだ中、原発の本を読んでいた。長谷川公一『脱原始力社会へ――電力をグリーンする』、広川隆一『福島 原発と人々』、小出裕章『原発はいらない』。原発と八っ場ダムはそっくりであるが、基地もそっくり。
話を聞けば聞くほど、住民の本音が見えにくい。親戚が勤めている、地主で地代をもらっている。基地の外だが食堂やタクシー、カラオケ、米軍放出家具やなど基地で生きている人が多い。はっきり名前を出して意見を表明するのは公務員くらいだ。市としては基地反対を表明しているから。「いま基地がなくなったらどうして食べて行くんだ」「地主が土地を売って乱開発するだけですよ」「本土のマスコミは反対ばかり取り上げている」「65年に一回ヘリがおっこっただけですよ」。かとおもうと「どういう視点で取りあげるのか」「基地は皇居に持っていけ」「東京の連中はぬくぬくしている間にこっちは夜も眠れないんだ」と言い放たれる。理解しようとしてわざわざ来た人間をなんで責め立てるのか。気持ちはわかるが、まずいやり方だと思うけど。宜野湾市は基地さえなければ青い海に面した夢のような町なのに。

震災日録 11月5日 飯田屋

2011年11月21日 月曜日

ひるすぎ台東区の合羽橋の図書館ホールで一葉について話す。最近、映像を見せずに話だけでどうみんなの想像がわくか、話す力を試しているところ。というのはやたら凝った映像ばかり見せられるがあと何も残らない発表をさんざん聞かされたから。
帰りに本を売りに来てくれたヤマサキに飯田屋のどじょうをおごる。マニュアル通りではない対応に心寛ぐ。「父が生きていた時に連れて来てもらいました」というと仲居さんは「あらー。おとう様今ここにいらっしゃいますよ」だって。リッチモンドのフロントはこんなこと言えまいな。ヤマサキは気を使わない人とこうやって飲むのが最高だね、といいつつどじょう鍋よりネギをさっと煮て食べている。白木のネギ箱のネギがなくなると仲居さんがまたはこんで来てくれてうれしい。
そのあとヨコハマのKAATでやなぎみわ『海戦』を観に行き、アフタトークで飛び入り、築地小劇場やそのころのモダンガールについて少し話した。前は一緒に研究会をしていた五十殿利治さんとも一緒で楽しかった。

震災日録 11月4日 たまに東京

2011年11月21日 月曜日

今日は一日パソコンの前。

震災日録 11月3日 東北大学の貴重書

2011年11月21日 月曜日

東北大学の高校生の作文の阿部次郎賞の銓衡が昨日夜あり、リッチモンド仙台(9200円)にとまった。このホテルはかなりいい。エコ仕様だし、部屋は広くベッドもダブルで朝食は無料。それも焼きたてのクロワッサン。朝ご飯の場所が昼間はフリースペースとして使える。しかしホスピタリティで4年連続日本一というわりには、フロント嬢の笑顔は営業的で対応もマニュアル通り、「もういっぺんおうかがいしてもよろしいでしょうか」なんて敬語のかわりに「なに?」と聞き返してもいいから人間らしい応対をしてもらいたい。東北大学文学部の場所を聞いたら、全然違う医学部にアカマルをつけて「ここでございます」ときた。
文化の日の午後はここで講演。丸森からも何人も見えたので恥ずかしかった。植物園に行くと、仙台城時代の森が残っているのに驚く。しかしこの前の地震でか、大木がどうと倒れていた。図書館では貴重書の展示をしていてなんと三代将軍家光が竹千代の6歳時の達筆な書簡とか、マルクス自筆の献呈がはいった『資本論』とか、土井晩翠あて千駄木町五十七番地の夏目漱石からの手紙とか、びっくり。漱石の絵で平福百穂の絵に漱石が漢詩を書いたのまであった。

震災日録 11月2日

2011年11月21日 月曜日

みんな朝早くしごとに帰っていった。そこで女川の総合運動場に最後に建てる仮設住宅を観に行った。昨日いっしょになった毎日新聞の記者中島みゆきさんの案内。彼女はボランティアとしてもここに関わっている。神戸の震災のとき坂茂という建築家は鷹取教会をボール紙で再建した。
坂さんは今度はユニットを組み合わせてすてきな3階建て仮設を設計した。学生たちはそこに設置する整理棚をどんどん作っている。広い中庭には集会場も作られるようで入居の決まった人々は待ったかいがあったとよろこんでいるという。
それにしても原発の交付金で小さな町にしてはなんという不必要なほど大きい、広い運動公園を作ったことだろう。
そして隣接する最初に作られた仮設住宅は入った人には申しわけないが坂さんの仮設とはなんと差があることだろう。そちらは今冬に対応できないので断熱工事の最中。
とはいえ坂さんの仮設にしても1人なら6坪、2人で9坪、3-5人で12坪という国の基準はかなり狭いものである。流された家はこの辺ではみな広々としたものであったろうから。

震災日録 11月1日 なつかしい鳴子の宿みやま

2011年11月21日 月曜日

10時泥の新幹線でゆっくり仙台へ。松島の駅で米農家兼ライターの渡辺さんが待っていてくれた。「宮城の米はほとんどひとめぼれになっていますが、僕はササニシキ偏愛です。放射線量をきちんとはかりたいので、県だと20ベクレルまではNDと出てしまうので、3万5千円かけて独自の調査をかけました。セシウムも134が例えば20、135が20とすると両方で40出てしまうわけですからね。全く出なかったので一安心です。でも子供さんのいる家庭になかなか今年も買ってくださいとはいいにくい」。
石巻市尾野崎の坂下さんのうちはとってもきれいになっていた。長面浦という素晴らしい入江で牡蛎の養殖をしている。「隣近所は戻ってくるかどうか迷っているけど、私たちが住むと決めたらすこし考えが変わる人もいると思う」と健さんは相変わらず元気。尾野崎は旧河北町、北上川河口の集落、震災では裏のお寺にみんなで逃げてかなりの人が助かった。「大川小学校へ通っていた子供たちがかえってこないけどもなあ」と清子さん。北上大橋が仮ではあるが開通したのが明るい話題だ。しかし大川小学校を右に見て尾野崎までは左側の田んぼはみんな北上川になってしまっている。右側は全く何も集落がない。一筋の道だけが復旧した。「いいんだ、日本のモン・サン・ミッシェルをめざす」と意気軒昂だ。ここには「北上いきいきクラブ」があってみんな復興へ向けて前向きである。
夜、鳴子温泉にみんなで集まった。ここの川渡(かわたび)温泉みやまの板垣さんもみんなと仲良し。きょうは震災以来みんなで顔を合わせ、この8ヶ月の苦労を話し合った。

震災日録 10月31日 東大構内、青木誠さんご逝去

2011年11月4日 金曜日

今月もはや晦日。きょうは東京大学内をはかる。農学部の畑のあたり、噂の原子力研究所のあたり、浅野地区には放射性物質を扱っているというサインあり。医学部、ここも1988年頃、医療用ラジウムなどを中庭にぽんぽん捨てていたとの新聞報道あり、谷根千でも記事にしたところだ。どこも構外とほぼ似た値、一カ所だけ最大0.39出たところがあった。きのうも中腰やしゃがんではかったのでふくらはぎがぱんぱんだったが、日に照らされての屋外活動、家に帰ったら爆睡してしまった。4時の目の定期検診に遅れるところだった。
弥生町にお住まいの青木誠さんをお訪ねしたら6月にご逝去されたとのこと。青木さんは弥生町町会の役員として、東京大学の原子力研究所が何か放射能漏れや事故をおこしたとき、町はどうなるのかと心配して、東大や文京区、東京都などに文書を送ったり、住民への安全管理の説明を求めていた。しかし東大の対応もいまの東電と同じ、安全神話を繰り返すものであった。文京区は東大が安全といっているなら安全でしょうといった権威主義で、相手にならないとずっとおこっていらした。谷根千にも何度も資料など送ってくださったし、記事にもしたのだが、何度も、いつもは要請に応えられずにいた。3・11以降になってやっと保坂元議員が青木さんを訪ねて意見を聞いたそうである。しかし青木さんは3・11以降、むしろ口数が少なくなって、頭の具合も少し悪くなったようだと奥様はいう。フクシマの事故は青木さんにどんなに衝撃であったことだろう。私たちも電話をいただくたび青木さんの話をゆっくり聞く暇がなく、まともに答える記事や活動ができなかったことを反省する。あまりにも鈍かった。青木さんは炭坑事故の際ガスを報知するカナリアのような、志賀原発反対でみんなに神懸かりだといわれた川辺さんのような、黒澤明『生き物の記録』のビキニ水爆実験におののいた町工場の社長のような、きわめて感受性の強い人であったのだ。

震災日録 10月30日 線量はやや高めか?

2011年11月4日 金曜日

朝9時に南天堂の前に集合、白山上から3台のガイガーカウンターで地上1メートル、地上5センチを1分さらしてはかって行く。今更という気もしたが、いままでやっていないことだから。権上さんにはカウンターによって精度も違い、一喜一憂しないように、と釘を刺されたが。はかってみて意外に地表近くのが高いということもない、植え込みや土のあるところが高いということもない。しかしフクシマ以前が毎時0.04μSv、いま東京都が発表しているのが0.07~08、しかしはかったところでは0.14から0.23くらいまで出る。発表の2、3倍というところか。まんべんなく汚染されている。家の中に入ると0.07くらいに戻るが。私のガイガーくんは従兄弟が進めてくれたチェルノブイリあとのソ連製、鈍重だが頼もしいやつだ。

震災日録 10月29日 私だけ出られない

2011年11月4日 金曜日

福島で高校生をもつお母さんの話。小学生は市外へ避難する子供が多く、教室の人数は減っているが、その高校ではフリーズしたように誰もでないのだそうだ。誰か一人出てくれば、私も私もとなるかもしれないのに、まず最初のコマが動かないのでジグソーパズルは固まったままほぐれない。だれか最初の一人になってくれとどの親も思っているらしいが、自分がそれになる勇気はない。今回、地震以降、コミュニティの力、ご近所の助け合いが強調されているが、むしろコミュニティが抑圧的に機能することが、特に原発については多いように思う。
別の友人は避難区域の一時帰宅の援助にいったらしいが、許された短い時間の中で何を持って行こうかと判断するとき、位牌、遺影、過去帳、アルバムなどを持ち出そうとすることに驚いたという。人は家と土地の歴史を大事にしているのだ。その話も寄田くんとすると、そうです、逃げられないのは『郷土愛』のせいです、という。
人間にもいろいろあって、国際結婚して地球の裏側にすんだり、アメリカ、ヨーロッパの大学を渡り歩いたり、一番ビジネスチャンスのある国に行って働いたりできるノマド(放浪者)のような人もいれば、土地を手塩にかけ、大地にすっくと立って、共同体の中で地産地消(そこで生まれそこで消えてゆく)人もいる。そういう人たちは生活のすべて、自分の存在する意味がその土地の中で完結していて新たな天地には移れないのかもしれない。谷根千という地域雑誌をやっている間中、「土地へこだわる人」と思われて困った。私はあたらし物好きで、旅がこよなく好きで林芙美子ではないが「根っからの放浪者」であって、どこでもやって行ける。だから避難しない人の方がよくわからない。

震災日録 10月29日 福島の子供たち

2011年11月4日 金曜日

寄田くんは福島の子供たちを反原発の運動の先頭に立てるのに反対だという。子供が対国の交渉に参加し、記者会見などをするのが不愉快だという。私もこの間、それを感じてきた。子供はなんにも考えずに元気に遊んでいればいい。大人はそういう生活を守る義務がある。メディアの前に出された子供たちはなかなか落ち着いていいことをいっていたが、それは彼らの意思なのか、運動関係者の子供なのかよくわからなかったし、痛々しい感じもした。大人の運動に子供が自由意志で参加するのはかまわないが、子供を利用するのはよくない。
私たちは丸ビル保存のためのビル包囲の手つなぎに、忸怩たる思いで、しかし人が足りないので我が子らをかり出したが、ヤマサキマキちゃんが『こんな手がちぎれるくらいならビルを壊した方がましだ』といったのがわすれられない。それでもきたメディアは子供ばかり映そうとした。
妊産婦や赤ちゃん幼児はできるだけ福島、郡山はじめ線量の高いところから避難してもらいたい。政府がそれを責任を持ってやらないなら、呼びかける運動も必要だ。しかし家族が離ればなれになること、ほかにもいろいろ理由があって出られない人もいる。そこにとどまる家族や子供の生活の質を保障する活動も必要なのである。