震災日録 10月31日 東大構内、青木誠さんご逝去

今月もはや晦日。きょうは東京大学内をはかる。農学部の畑のあたり、噂の原子力研究所のあたり、浅野地区には放射性物質を扱っているというサインあり。医学部、ここも1988年頃、医療用ラジウムなどを中庭にぽんぽん捨てていたとの新聞報道あり、谷根千でも記事にしたところだ。どこも構外とほぼ似た値、一カ所だけ最大0.39出たところがあった。きのうも中腰やしゃがんではかったのでふくらはぎがぱんぱんだったが、日に照らされての屋外活動、家に帰ったら爆睡してしまった。4時の目の定期検診に遅れるところだった。
弥生町にお住まいの青木誠さんをお訪ねしたら6月にご逝去されたとのこと。青木さんは弥生町町会の役員として、東京大学の原子力研究所が何か放射能漏れや事故をおこしたとき、町はどうなるのかと心配して、東大や文京区、東京都などに文書を送ったり、住民への安全管理の説明を求めていた。しかし東大の対応もいまの東電と同じ、安全神話を繰り返すものであった。文京区は東大が安全といっているなら安全でしょうといった権威主義で、相手にならないとずっとおこっていらした。谷根千にも何度も資料など送ってくださったし、記事にもしたのだが、何度も、いつもは要請に応えられずにいた。3・11以降になってやっと保坂元議員が青木さんを訪ねて意見を聞いたそうである。しかし青木さんは3・11以降、むしろ口数が少なくなって、頭の具合も少し悪くなったようだと奥様はいう。フクシマの事故は青木さんにどんなに衝撃であったことだろう。私たちも電話をいただくたび青木さんの話をゆっくり聞く暇がなく、まともに答える記事や活動ができなかったことを反省する。あまりにも鈍かった。青木さんは炭坑事故の際ガスを報知するカナリアのような、志賀原発反対でみんなに神懸かりだといわれた川辺さんのような、黒澤明『生き物の記録』のビキニ水爆実験におののいた町工場の社長のような、きわめて感受性の強い人であったのだ。