2011年4月 のアーカイブ

震災日録 4月15日

2011年4月20日 水曜日

今日は朝9時JR東日本に要望書を届けにいく。朝、ラッシュアワーに乗る。間引き運転だから混む。遅刻できないので新宿の本社前のスタバでコーヒー。道行く会社員はみんなマスク。終わってからこれからのことを相談。帰って賛同者への報告を書く。多児さんに送ってなおしてもらい、今日行った5人の名で賛同者にまわす。

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みなさま

本日朝9時、JR東日本へ「東京駅赤煉瓦駅舎の屋根のスレートについて」(おまわししたのと同じ文面です)という要望書を渡しに行って参りました。4月10日の呼びかけからほぼ5日間のあいだに3037名の方が賛同してくださり、その名簿をつけてお渡ししました。研究者、建築関係者、また登米や仙台の被災地の方々、広く全国のいろんな仕事をお持ちの方々がいます。24年前、駅舎保存の時に手書きで封書で署名を集めていたころを思うと夢のようです。みなさまの思いをお届けして参りました。

JR東日本では広報部、建設工事部、設備部、総務部のかたが丁寧に対応してくださいました。その中でいままでわからなかった工事の進捗情況がわかってきました。

*辰野金吾設計の大正三年の創建当時は雄勝産のスレートで葺かれていた。
*戦後、戦災からの復旧のさいは登米産のスレートで葺かれた。
(ここまでは既知)

*今回の修復ではできるだけ登米産のスレートは再利用する、足りない部分も雄勝産の国産スレートを使いたい、という方針だった。しかし雄勝は職人さんも少なくそれほど新材の量がみこめなかった。また三階やドームの復元などがあり、足りない部分はすでにスペイン産のものを発注してあった(線路側など見えない部分に使う)。
*登米産のスレートは一部、すでに南北ドーム下をそれで葺いてある。
*残りの登米産の使えるスレートが北上の熊谷産業で被災、雄勝天然スレートの新材も被災、どちらも人的被害がない、ということだけわかっ たがまだ現況がつかめていない。

「来週、現地を視察し、現況を確かめ、被災スレートのうち使えるもの は文化財保存の鉄則に従い使いたい」と確約してくださいました。ただし、「重要文化財であり、駅舎として活用する以上、海水に浸かったス レートの安全性などの検証が必要」とのこと。

この5日間にいろいろな専門家や文化庁なども働きかけてくださったと聞いています。JR東日本の方たちと忌憚ない意見を交換しました。わたしたちとしては 被災地を落胆させず、被災地を励ますための活動をJR東日本と協力して行いたい。スレート洗いのボランティア、被災地でスレート洗いの雇用を作り出すことはできないか。寺社で行われる瓦寄進のようなことが東京駅でもできないか。スレート一枚ずつに祈りやメッセージを書いて屋根に載せられないか。東北と東京を結ぶ玄関口である東京駅を東北復興のシンボルにしたい、そんなことを話し合い、なごやかなうちに会合は終わりました。

ともかく、「被災スレートをできるだけ使いたい」と確約いただけたのは、みなさまのお声のおおきな成果と考えます。これからJR東日 本の現況確認と調査の結果を待ちます。

募金したいという声も大きいのでとりあえず「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」のなかに「東京駅スレート屋根基金」をつくります。これは 被災スレートの救出、水洗い、使用へ向けての活動に限定して使います。
また文化財保存に不可欠なスレート産業の復興については可能性を探りつつ、新しいご提案をしたいと考えています。短期間に賛同署名を集めてくださったみなさま、本当にありがとうございました。

呼びかけ人
「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」
事務局長前野まさる 多児貞子、森まゆみ、山本玲子、椎原晶子

会社も家も流された茅葺き屋根工事熊谷産業はプレハブで再起。東京駅の屋根ためのスレートは最優先で拾い集めました。これは戦後の修復の際の登米産、最利用してほしいものです。

会社も家も流された茅葺き屋根工事熊谷産業はプレハブで再起。東京駅の屋根ためのスレートは最優先で拾い集めました。これは戦後の修復の際の登米産、最利用してほしいものです。

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ドロナワで荷物を作る。古着も顔の見える関係ならオーケーか。だいたい自分だって服を買わないのに新品を買ってまで送るということにちょっと抵抗がある。下着は買ったけど。クマちゃんは、いいよいいよ何でも持って来てというので、社員の顔を浮かべつつ、男物にアイロンをあてる。着る人の顔を思い浮かべるということは大切だ。このまえも靴下を持って来てと言ったらずいぶんストッキングが入っていた。避難所でストッキングがいるかいな。どんどん本が段ボールで届く。向うへ行って渡す簡単なメッセージを作る。

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「こどもたちに絵本とマンガを!」プロジェクト

このたびの東日本大震災にあわれたみなさま、心よりおみまい申し上げます。
避難所で電気や水道も不自由ななか、生活は大変なご苦労だと思います。
まずは食べもの、着るもの、ふとん、暖房などが大事だと思いますが、心の糧としての読書の時間も大切です。

お持ちのご本も波に流されてしまったかもしれません。
毎週、買っていたマンガが手に入らないかもしれません。
学校も図書室ごと津波にあったところもあると聞きました。

仙台に「少年ジャンプ」が一冊しか入らなかった日、150人で回し読みをしている
というニュースが東京に届きました。
集英社のある編集者が『ジャンプ』を被災地に届けたい、と思い立ちました。
それに知り合いの編集者たちが協力して絵本やマンガを集めました。
きょうお届けするのは本当に少ない量です。
でもすべて個人的な努力で集めたものです。
どうぞ皆さんで読んでください。楽しんでください。

みんな元気でね!

森まゆみ・早川真理・滝川修

協力者・倉沢紀久子・足立恵美・平田賢一・佐川祥子・熊倉沙希子・山本明子・山﨑旬・岩田一平・河合桃子・稲葉希巳江・横川浩子・川原理子

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現地の情報を集める。消防の先頭に立つ宍戸克己さんよりメール。

「おばんでございます。
ハウスの中で、いろいろな苗作りも始まっています。
神明社の桜もいつもと同じように膨らみ、16~18日には咲いていると思います。
ほっとはしますが、素直によろこべない気持ちです。

相馬市から亘理町までの状況をお知らせします。
相馬市は6号線の東にバイパスをつくったので、そこまでが浸水域。岩の子は広い田んぼに松の木が横たわっています。
ホテル飛天の西側、道路に横たわっている船をよけて松川浦に行くと、たこ八あたりまで被害が大きいです。
新地に行きますと、6号線の西側まで浸水し船があちこちに見えます。釣師浜は、家並みがほとんどないです。
宮城県に入り磯浜。ここも釣師浜同様家並みがないです。新地駅、坂元駅は跡形も無く、列車も大きく脱線しています。
亘理町荒浜の鳥の海荘あたりもさら地状態になっています。すごい惨状です。
丸森町の筆甫中学校も南相馬市の方々の避難所になっています。133人、内19人が小・中学生で丸森の学校に通うことになります。原発の影響は、とても大きいです。
角田・丸森は学校によって14か15日が入学式になります。
原発とモニタリングの状況が気になる毎日ですが、元気を出していきましょう」

何となく寝付かれずいろいろ気になって何度も起きる。なるようになるさ。

震災日録 4月14日

2011年4月18日 月曜日

きのう、4月2日の光源寺でのおにぎり作りの映像を見ていたら、まだ10日しかたっていないのに、世界は刻々動いてしまっている。あのころ関東圏の野菜が取りざたされたが、それから関心は福島市や飯館村の放射能の高い数値、海洋汚染と魚の安全性へとくるくる動いている。きょうは千葉県産のサンチュが話題だ。しかし出荷自粛と言ったって独自に計って基準以下のものを売るのがどうして悪いのだろう。

原発への不安は消えないが、ニュースでも比重は少なくなり、東京から避難しようという気持ちもなんとなく薄くなってきた。のど元すぎればなんとやら。水もマスクもどうでもよくなってしまった。人間は慣れるのだ。ニュースも「収束の目途たたず」のみで詳しいことを伝えなくなった。

おととい荒川さんに原子炉についてあれこれ教えてもらったが、だんだん吐き気がしてきて頭痛もひどい。なんで上の方に使用済み核燃料がおいてあったのか、危ないじゃないか、テロにでもあったらどうするんだ。全部ばれちゃったじゃない。かといって下に置いてあったら安全というわけでもない。どこかへ持っていくわけにはいかないの、あ、そうか、六ヶ所村は拒否してるんだ。窒素を入れて圧が高まらないのはどこかから漏れているんでしょ。セシウムもそこから漏れているわけ? なんてシロウト考えをぶつけてみるがいっこうにわからない。わからない技術で作った電力を使うのはいやだ。

鳴子・川渡温泉みやまの板垣さんから電話あり。「天罰だなんて言った石原慎太郎を都知事に四選するなんて東京都民はどうなってんの?」いわれると思ったよ。東京消防庁の活躍のおかげでしょうか。「結城登美雄さんはちょうどうちでインタビューを受けていた時に地震でよかったよ。移動中だったらあぶなかったしょ。結城さんは海辺の町も村も全部見て歩いて付き合いがあったから。ああいう人は大事だよ」
そういえば私も結城さんにくっついて唐桑に行ったことがある。あのとき、おじいちゃんに妙に気に入られて大きな石のついたおもちゃの指輪を「これ、おめにやる」ともらったものだ。あのおじいちゃんどうしたかな。みやまさんは「地震以来、客が来なくてね。すいてて何時でも泊まれるから来て」という。「あたしも講演はいくつもキャンセルだし、新聞の連載は紙が足りなくて始まらないの」というと、「そうか。東京も被災地だね」

4月2日(土)の報告

2011年4月15日 金曜日

4月2日に光源寺で作られたおにぎり(1220個)と支援物資(食料・衣料・長靴などトータルでダンボール37箱)は、大塚モスクで集められた支援物資とともに、同日夜(一部は翌日曜日)に出発し気仙沼に向かいました(山﨑範子)。

避難所となっている気仙沼中学校(約500人)では、調理はできないがお湯はあるということなのでおにぎりとカップラーメンなどを、気仙沼公民館(約300人)ではお湯も難しいということで、おにぎりと果物などをお渡ししました。

今回運んだ牛乳と果物は、避難所ではほとんど手に入らないということでとても喜ばれました。避難所の方たちのお話では、果物、野菜、牛乳、衣類、下着、靴などがとても不足しているということでした(大塚モスク)。

3月26日(土)の報告

2011年4月15日 金曜日

3月26日の「おにぎりにぎり隊」(とどなたか命名してくれました)、前日準備から最後の搬送、お掃除までのお手伝い、ありがとうございました。
37名にきていただいて、米60キロで1219個のおにぎりができあがりました。
光源寺さんには場所、道具、電気、水などの提供のほかに、助っ人用のトン汁と温野菜も用意していただきました。
おにぎりのほかにも、たくさんの方からいただいたたくさんの支援物資は、17時にすべて大塚モスクに届けました。
これらはジャパン・イスラミック・トラスト(日本イスラーム文化センター)マジスト(モスク)大塚の緊急支援物資とともに、車2台に積み込まれ、今晩のうちに被災地に向けて出発しました。(山﨑範子)

3月26日夜に出発しました支援物資輸送第7便についてご報告いたします。

今回は、ボランティアの方たちが作ってくださったおにぎり1219個をはじめ、たくさんのものを大型バン2台で運ぶことができました。運んだ物資は以下の通りです。衣類15箱、レインコート(12入)7箱、インスタントスープ10箱、お菓子類11箱、パン2箱、インスタントラーメン55箱、ジュース6箱、納豆8箱、砂糖・塩2箱、紙食器類3箱、衛生用品3箱、トイレットペーパー4箱、水タンク3個、電池・懐中電灯1箱、みかん30箱、りんご20箱、イチゴ10箱、キウイ5箱、バナナ5箱、きゅうり10箱、キャベツ10箱、レタス10箱、お米200kg、その他5箱。

以下は、輸送と配布に同行した方からの報告です。
今回は下記の2箇所で配布致しました。
気仙沼市立松岩公民館
気仙沼市役所唐桑町役場

松岩公民館は被災者約350名が避難する避難所で、唐桑町役場は唐桑地区の避難所11箇所で生活する755名および自宅で物資を必要とする住民に物資を配布する地区の災害本部です。
基本的には各施設に運んできた支援物資を均等に分けて配布しました。ただ松岩ではおにぎりが足りていると言うことで、おにぎりは全て唐桑に持っていきました。
また停電の続く唐桑地区へは、気仙沼市内のお店で懐中電灯や乾電池の在庫があると言うことで、LED懐中電灯20個および12本入り単4乾電池8パックを急遽購入して他の支援物資とともに届けました。(大塚モスクより)

おにぎりにぎり隊

2011年4月15日 金曜日

4月2日、大観音光源寺でのおにぎり造りの様子です。大塚モスク(ジャパン・イスラミック・トラスト)はアフガニスタンなど支援の経験から初動が早く、3月13日にはトルコNGOのメンバーと支援物資を仙台の被災者に届けました。それからもおにぎり造り、支援物資の要望を聞いて送るなど連日活動をしてきました。富士見坂など地域活動をご一緒した池本英子さんから要請があり、山﨑範子が呼びかけて3月26日、4月2日と向ヶ丘光源寺境内をお借りして谷根千地域の方々が集まり、二度の「おにぎりにぎり隊」と支援物資仕分け隊の活動が行われました。4月2日時点では関東の一部の県の野菜も品目によっては出荷停止になっていましたが、現在は解除されています。この活動にはイスラム教徒、仏教徒そのほかも協力参加していますが、宗教活動ではなくあくまで被災地支援活動です。

震災日誌 4月13日

2011年4月15日 金曜日

がんばる、という言葉は嫌いではない。頑張る、よりもっと好きなのは頬張る、かな。おいしいサンドイッチとかさ。でも「がんばれ東北」や「がんばろう、いわき」とあちこちで見かけると食傷気味。「もうこれ以上がんばれないよ」という人には「がんばらなくていいよ」といったほうがいいという。でも「がんばれ」も自粛したくはない。最近、がんばれそうな人には電話を切るとき「いっしょにがんばりましょう」といったり、それ以外の人には「お体お大事にね」といったりする。「踏ん張れ」とか「けっぱれ」もいいかな。

実は東京駅のスレート屋根の反響で忙殺されているのだが、それより以前、16日から18日まで東北に行くことにしていた。それは東京でほとんど報道されていない、福島北部から宮城南部の海沿いの町町へ絵本とマンガを届けにいくプロジェクトだ。

これは集英社の私の文庫を作ってくれている瀧川さんが「仙台にジャンプが一冊しか入らなくて150人ならんでる」というニュースに心を痛め、ジャンプを東北に持って行って届けたい、というきわめてシンプルな希望から始まった。

そこで親しい編集者たちに呼びかけたところ、ポプラ社の倉沢紀久子さんは「児童書ではないけど、避難所で読める気軽な小説とかエッセイ」を、平凡社の山本明子さんは「ちょうど別冊太陽で資料本で集めた絵本があるので」、佐川祥子さんは「福音館の勝尾さんと相談して子どもの本など」,朝日新聞出版の岩田一平さんは「科学読み物を送ります」、JTBの河合桃子さんは「旅行関係の楽しい本を一箱」,ヤマサキの息子メディアファクトリーの山﨑旬くんからも、亜紀書房の足立恵美さんからも、協力のメール。岩波の平田賢一さん経由で児童図書部の熊倉沙希子さんからも仲間で集めます、といってくれた。みな個人的な努力である。ありがたい。

社として、業界としてはそのうち大きな取り組みをされると思うが、できるだけ早く届けたい。同じ児童書でもマンガと学参と絵本と科学読み物では編集もまるでちがう仕事だと思うが、子どもに早く落ち着いた読書環境をという思いは同じだ。「ジャンプが届いたら、さぞうれしいでしょうね。毎週ジャンプを読んでいた子にとっては、ジャンプは平和な日常を象徴する、心安らぐものだと思います」という熊倉さんのメールはみんなの思いである。すでに避難所に読み聞かせなどにはいっている方々もいる。マレーシアから来た方は「どこへいってもお年寄りが話しかけてくる。みんなつらい話、経験したこと、これからのことを聞いて欲しがっている」という。そのうちお年寄りの話し相手になりにいきたい。今回は16日から18日の3日間の予定で、石巻の東京駅の屋根の現況も見てこなければならない。できれば女川原発周辺の方のはなしも聞きたい、いやいや欲張りすぎて虻蜂取らずにならないように。

地震以来、やけに白髪が増えた。むかし旧満州にいて、ソ連の兵士が家に入ってきたとたん髪の毛が逆立って、翌日全部白髪になった、と望月百合子さんに聞いたが、そんな感じかな。

震災日録 4月12日

2011年4月13日 水曜日

今年は花見をする暇も、気分でもない。自転車を走らせる間、お林稲荷のさくら、千駄木の郷のさくら、そして安田邸の見事なしだれ桜に見ほれ、心慰められる。

たれこめて 原発のゆくえもわかぬまに 待ちしさくらはうつろいにけり

先週サトコが夜中に帰ってきたので「おそいわね」といったら「仰木家で私の誕生日やってくれたの」という。「あら、まだ早いじゃない?」「何いってんの? もうとっくにおわっているよ」と娘の誕生日すら忘れていた。

きょう、原発はレベル7になった。チェルノブイリとおなじ。出ている放射能は10分の1とか、この期におよんでまだいっているが、1ヶ月で10分の1なら、これから1年出続ければ、同じ以上出るだろう。ニュースも基準値の10倍100倍でても「基準値以上」としかいわなくなった。

中国整体の先生は「原発どうしてる?」が挨拶。100万人いた中国人の7割は帰国したって。ぼくもこわいなーという。「日本はいいけど、中国で地震あっても義援金送っちゃだめ。みんな政府の人のものになっちゃうから」「日本の地震は唐山地震の360倍の大きさで3万人? 唐山は20万人。唐山で同じ地震が起きたら300万人くらい死んじゃうのかな」。予想がつかない。国連機関で働いていた人に聞いたら「現地に千円とどけようと思ったら1万円寄付しないと」。日本も同じではないかしら。

9日の鎌倉の大江健三郎さんの講演は桜井さんたちが行って撮った。10日の日比谷でもは荒川さんがとって来た。2500人に増えた。高円寺にはサトコ。2万人くらいきたって。映像ドキュメント「宇沢弘文と語る」いいですよ。必見。

「東電の供給する電気を使っていた私たちも同罪だ」という女性に映画会であった。違うと思う。毒入り餃子を買って食べた人が、それを作って売った人と同罪だなんてことはありえない。東電は営利会社で、できるだけコストを下げ、できるだけ株主にもうけさせるため住民や議員や心ある学者の疑問にこたえず、老朽原発を点検もせず使ってきた。電力という商品を多く売るため、オール電化住宅を奨励し、風呂でもトイレでも何でも電気なしでは使えないような仕組みを作り、消費者にこたえるといって夏のピーク時にあわせて原発をふやして電力を製造した。「電力供給」という言葉はまやかしだ。これでは「お客さまの要望に応えて」になってしまう。「電力濫造」とでもいったらいい。
きのうの株、出来高1位は東電、2位システムトラブルのみずほ、3位三菱UFJ 、4位原発製造の日立、5位おなじく東芝、むべなるかな。

震災日録 4月11日

2011年4月13日 水曜日

寄田さん曰く、「みんな理性で判断するから逃げられなくなる。感性で反応してヤバいと思ったら逃げるしかない」。さすが馬とおなじ動物的な本能を持つ寄田君。
でも北海道のサトコも一週間で、ニューヨークのヒロシも新学期なので、またみんなで東京へもどってきた。やっぱり二人をおいては逃げられないな。
今日本列島はねじれをなおすために身悶えしているのだろうか。余震が続く。
太平洋側が陥没した半面、粟島では海面が隆起して、岩が露出し、そこに白い塩が付いている。潮焼けというそうだ。

1時の船で岩船へ。本当は瀬波温泉あたりでもう一泊したかったが、東京駅のスレート瓦について呼びかけたところ、たいへんな反響になってしまった。かいつまんで申せば、

東京駅の復元工事に当たり、石巻の熊谷産業がスレート瓦は終戦後の修復の際の宮城県登米・雄勝産のものをていねいに外して使えるものを選んできれいにして60,000枚、いましも東京へ運ぶばかりになっていたところ、被災、津波で流され、それでも4万5,000枚は拾った。塩抜きをすれば使えるという。しかしこのまま行けば工事主体としては進捗上、津波に流された瓦を使わずにスペイン産の瓦を発注する計画とか。被災した企業を応援し、建築文化保存のためにも瓦募金をして、瓦一枚ずつに募金者のメッセージを書いてもらい、東京駅を東北復興のためのシンボルにできないか、という提案をした。これに対して大勢から返信がきた。そのいくつかを紹介したい。

東京駅にかぎらず、「復元」とは決して竣工時の姿に戻すことではなく(それはあり得ず)、竣工から今日に至るまでの歴史を見失ってはいけないと考えています。したがって、戦後のスレートを少しでも多く残すことはとても意義あることです。
(木下直之・東京大学文化資源学)

あの地域では天然スレート(粘板岩、地元では玄昌石といっていました)葺きの屋根の民家がよく見られましたし、屋根材に使った廃材でしょうか、釘の穴が開けられたスレートが北上川の河口部に流れ着いたものをたくさん見ました。今でも机の前にその時拾った玄昌石をおいてあり、それを見ながらこのメールを書いています。もし雄勝町のスレートが東京駅舎の屋根を葺くことになれば、その社会的な効果は被災した地元はもちろん、JRにとっても計り知れないと思います。(赤坂信・千葉大園芸学)

熊谷産業は、私の現場でもたびたびお世話になっています。強面風で優しすぎるお兄さんとか、素敵な人ばかりです。私の教え子も一時お世話になっていました。
署名人にはぜひ入れてください。(波多野純・日本工業大学建築史)

 いぜん雑誌で歴史建築の素材を訪ねて登米のスレートを取材したことがあり、「雄勝天然スレート」木村社長邸などを撮影しました。あの美しい建物や気仙沼大工の名作、登米尋常小学校や警察署が消えてしましまった事実も知らされおどろき、いま掲載誌の写真見ながら呆然としています。今回の趣旨に賛同します。(中川道夫・写真家)

歴史的建造物の修理修復では使えるものは徹底して使うのが鉄則です。
面倒だからそれをやめるというのは賛成できません。(西 和夫・神奈川大学名誉教授)

「赤れんがの東京駅を愛する市民の会」では要望書をつくり、有志と賛同者の名義で
JR東日本に持っていく予定。同時に塩抜きの方法に付いても専門家から意見が寄せられている。

瓦は、多孔質なので、表面を流しただけでは塩分が中に残ります。
ビニールプールのようなものに水を張り、どぶづけする必要があります。
泥をとり、できれば水は3回くらいは替えたあと、また流水で洗ってほしいです。
塩分量も全数でなくていいので、測りたいところです。(権上かおる・アグネ技術センター)

このことも検討する必要がある。
そんなこんなで1日も早く東京へ戻ることに。熊谷を過ぎたあたりで新幹線フリーズ。
余震で停電、そろそろ日も暮れる。あーあ。幸田露伴ではないが、「待つということは待つということだ」。前の席の人が握手を求めてきた。「森まゆみさんでしょう。よく読んでいますよ。しみじみと」こんなときは嬉しいものである。運のいいことに新幹線は20分遅れで走り出す。車内アナウンスも落ち着いて的確だった。これもJR東日本。3号車を喫煙車にしてなおかつ車内を無線LANにしているJR東海よりも全席禁煙のJR東日本はずっと好きだ。

震災日録 4月10日

2011年4月13日 水曜日

新潟村上市の沖に浮かぶ粟島に馬をつかったスローな村にするプランのため観に行く。
人口350人だがここは合併をしない。村人の車以外は入れない。粟島馬という在来種が昭和7年までいたので、島の歴史とその聞き取りをして形にするのが私の仕事。

東京駅に早く着いて待合室でぼんやりしていたら、東京駅太陽光電システムを画面で知らせていた。ソーラーパネルで本日の発電量は234キロワット、いままでに41,826キロワット発電。一年で101トンのco2を削減できるとか。いいんじゃない?
東北新幹線は那須塩原までしか行かない。こんなすいた東京駅、初めて見た。

行きの新幹線で。3・11と9・11、同じ日に起こったなあと思う。神戸の大震災は1、17、その年の3・20が地下鉄サリン事件。3・20は須賀敦子さんの命日でサトコの誕生日だ。朝日新聞を隅から隅までよむ。本当にたくさんの人がかけがえのない家族をうしなったんだな、とおもう。なくなったのは65歳以上が55・4パーセントとのこと。

上毛高原駅で寄田君、カフェスローの吉岡さん、デザイナーの加藤さんと合流。
おととい、7日付けの東京新聞を見たヒロシが「寄田さんへ電話して! 南相馬にやせこけた被曝馬がいる。これ助けられるのは寄田さんしかいない!」という。
電話をしたところ、すでに救出要請があるとのこと。上毛高原へ現れた寄田さんの話。

「今除染してきたところです。暴れる馬を扱えるのはそうはいないからね。で、結論からいうと無理でした。相馬の中村神社の川嶋さんと行ったんですが、競走馬じゃなくって、競走馬上がりの肥育馬でした。それに持ち主がいるので勝手に救えない。もし馬が死んだら補償の対象になるので、連れて行くなら買ってくれということでした。
東京新聞には1,000くらいの反響があったそうです。相馬、南相馬、原町と馬の産地で、今回の津波ではかなりの馬も流されています。原発20キロ圏内の人もこっそり犬や猫に餌をやりにきているみたい。犬は鎖を放されても家に戻っていました。犬がちんと足をそろえているのや、僕らを見てよろこんで追いかけるので、もう心を鬼にして車で走りました。
警察官も放射能が怖いし、心ここにあらずみたいで、簡単に20キロ圏に入れましたよ。立ち入り禁止地区には誰も居ない。30キロ圏の境では住民が犬を連れて散歩してるし、40キロ圏ではジョギングしているし、もうどうなってんのという感じ。土地とか、先祖の霊とか言って離れられない、逃げられない人の住む土地に原発を造るのは卑怯だ。だって高級官僚とか東電の幹部なんて外国でも病院でも逃げられるんだから。逃げられるやつが原発を作っている。自主退避を勧告する、って形容矛盾ですよね。
地震の日の空の色が本当に変だった、と相馬の人は言ってました。それでもみんなのんびりと『原発ももうすぐ終わるから、そろそろ馬追い祭の準備を始めないと』なんて言っている。人間は悪い方の予想を信じず、希望の方を見たがるんだね」

私もそうだ。原発はもういやだ、と思うけど、どこかで誰かが放射能を止めてくれるんじゃないか、とはかない期待を抱いている。

粟島は奇跡のような島だった。離島振興法でたったような立派な建物もないかわり、めちゃうまい魚と温泉もあり、静かな暮らしもあった。350人の島に民宿が50軒。ここにカフェや馬や蓄音機が来て、電磁波や車や花粉にかき乱されない暮らしが作れたら。

震災日録 4月9日 めげない社長がんばる

2011年4月11日 月曜日

石巻の熊谷産業、熊谷秋雄さんが東京に来て寄ってくれました。彼は旧北上町で北上川河口に生える葦を刈って全国の文化財の屋根を葺いています。友だちです。
「震災の時は東京で打ち合せをしていました。東北で大きな地震が起きたと知ってすぐに取って返しました。家族も従業員もさいわい無事でしたが、家も会社も流され、いまは小さなプレハブを建ててそこに寝泊まりしています。従業員は近くの追分温泉で泊めていただいています。追分温泉さんは震災後、商売なんて言っている時ではない、と宿そのまま避難所にしてくれました。温泉付きで助かっています。アルバムも着るものもみんな流され、残っているのはフィリピンで買ったこのバッグとレガシーの車だけ。帰ったら娘が「あ、車が帰って来た」と喜んで、私が帰ったのより喜んでた。妻と子どもは妻の実家に、両親は叔父の家に避難しています。水道は沢の水で、ガスはプロパンだから不便はなかった。電気がないから冷凍庫のなかにあったあわびとか、どんどん食っちゃおうと、豪儀なもんでした(笑)。
海辺の古い駐在所を買って、森さんにもきてもらったでしょ。あれも流されて、両隣や裏のうちの人もなくなられたので、妻は落ち込んでいます。堤防をチリ津波のあとかなりかさ上げしたので、大丈夫だろうと逃げなかったんですね。堤防で津波が防げると言う考えはまちがいです。すぐ逃げることです。うちの従業員は河口で茅を機械で刈っていたんですが、日頃から訓練しているのでみんなすぐ逃げました」
一緒にきた従業員のアブラカさんはモンゴル人。地震のあと、すぐ川から上がって逃げたという。一回目の津波のあと、ざーっと水が引いて、そのあとまたものすごい波が襲ってきた。また対岸の大川小学校で7割近い子どもがなくなったことも熊谷さんから18日くらいに聞いていたが、なかなか報じられなかった。
「学校が避難場所になっていたくらいなので、まさか波が来るとは思わなかったのでしょう。津波がきたのは30分後くらいだけど、助かったのは車で迎えにいった人の子です。知り合いは子供を乗せて帰る途中、後を振り向いたらあと3台しか見えなかったと。その後ろは波だった。実の親か祖父母でないと子どもを渡さなかったらしいですね。マスコミがあとから来てランドセルなんか写すのはどうかと思います。助かった子どもの心も傷ついていますから」
「石巻市はまだ罹災証明も出せていません。合併の悪い影響で、役所は混乱しています。証明がもらえないと、義援金や復興資金ももらえないし、ものすごいやることがのろいんです。うちも印鑑まで流されたので、知恵を働かせ、隣りの小さな自治体に住民票を移し、印鑑証明をもらいました。あと、仮設住宅というのはやめたいな。プレハブ屋さんはもうかるけど、また2年後には膨大なゴミがでるだけですよ。それより全国の林業家の協力でこれからながくすめる家を1500万くらいで建てた方がいいと思います。それをするにも罹災証明が出ないと。まあ、まえよりいいのをつくりますから」とどこまでもめげない社長である。
熊谷さんは茅葺きだけではなく、今回、赤煉瓦の東京駅の屋根の修復に関わっていた。
前回の修復の時の宮城の登米産のものがほとんど。その瓦をていねいにはがして、北上に運び、使えるものを選んで、汚れを取り、また東京へ運ぶという直前にこの震災だった。しかしJR東日本と施工会社は工事が遅れるとして、スペイン産のスレートを発注する予定だという。「きれいに洗えば全部使えるのになあ」と残念そう。
そもそも東京駅は私も加わった「赤煉瓦の東京駅を愛する市民の会」の市民運動がなかったら残らなかった。これを残してくださったのはJR東日本の英断ではあり、当時の松田社長もいまの大塚会長も文化財には大変造詣のある方である。その保存運動の際、登米町や雄勝町からはたくさんの署名が集まった。それは「東京駅のスレートはうちのスレートで葺かれている」というのが土地の誇りであったからだ。
スペイン産のスレートになってしまったらどんなに登米や雄勝のひとはがっくりするだろう。反対に津波にさらわれたスレートをみんなできれいにして東京駅にのせたら、それは東北の復興のシンボルになるだろう。
熊谷社長はいう。「いま登米のスレートは取りつくして、雄勝も『雄勝天然スレート』しか残っていません。木村満さんが社長ですが、そこの工場も工場の地震で全壊しました。ここがなくなるとこれから日本の洋館を日本のスレートで葺けなくなる。薬師寺など寺社の瓦に願を書いて寄進することはよく行われていますが、東京駅の登米産スレート瓦に東北への応援や復興祈願を書いて寄進してもらえば、木村さんの会社の再建に協力でき、東北の人たちも元気が出ると思う」
熊ちゃんの会社は?というと、「うちはいいんですよ。自分でなんとかしますから」とにこにこした。地震が起こって無一物になってからのほうがどんどん元気が湧いてくるという。無一物中無尽蔵とはこのことか。JR東日本も新聞に新幹線を復旧するなどの一面広告を出しているが、そんなことに宣伝費を使うより、熊谷産業や雄勝のスレートを応援する方が、会社のイメージはずっとアップするとおもうけどなあ。

ワシントンのジョルダン・サンドさんにおくったら『津波の被害は東京駅まで?』という返信がきた。そう意識することで、東京にいるわれわれも東北の受苦に心を通わせことができるのではないだろうか。