震災日録 4月11日

寄田さん曰く、「みんな理性で判断するから逃げられなくなる。感性で反応してヤバいと思ったら逃げるしかない」。さすが馬とおなじ動物的な本能を持つ寄田君。
でも北海道のサトコも一週間で、ニューヨークのヒロシも新学期なので、またみんなで東京へもどってきた。やっぱり二人をおいては逃げられないな。
今日本列島はねじれをなおすために身悶えしているのだろうか。余震が続く。
太平洋側が陥没した半面、粟島では海面が隆起して、岩が露出し、そこに白い塩が付いている。潮焼けというそうだ。

1時の船で岩船へ。本当は瀬波温泉あたりでもう一泊したかったが、東京駅のスレート瓦について呼びかけたところ、たいへんな反響になってしまった。かいつまんで申せば、

東京駅の復元工事に当たり、石巻の熊谷産業がスレート瓦は終戦後の修復の際の宮城県登米・雄勝産のものをていねいに外して使えるものを選んできれいにして60,000枚、いましも東京へ運ぶばかりになっていたところ、被災、津波で流され、それでも4万5,000枚は拾った。塩抜きをすれば使えるという。しかしこのまま行けば工事主体としては進捗上、津波に流された瓦を使わずにスペイン産の瓦を発注する計画とか。被災した企業を応援し、建築文化保存のためにも瓦募金をして、瓦一枚ずつに募金者のメッセージを書いてもらい、東京駅を東北復興のためのシンボルにできないか、という提案をした。これに対して大勢から返信がきた。そのいくつかを紹介したい。

東京駅にかぎらず、「復元」とは決して竣工時の姿に戻すことではなく(それはあり得ず)、竣工から今日に至るまでの歴史を見失ってはいけないと考えています。したがって、戦後のスレートを少しでも多く残すことはとても意義あることです。
(木下直之・東京大学文化資源学)

あの地域では天然スレート(粘板岩、地元では玄昌石といっていました)葺きの屋根の民家がよく見られましたし、屋根材に使った廃材でしょうか、釘の穴が開けられたスレートが北上川の河口部に流れ着いたものをたくさん見ました。今でも机の前にその時拾った玄昌石をおいてあり、それを見ながらこのメールを書いています。もし雄勝町のスレートが東京駅舎の屋根を葺くことになれば、その社会的な効果は被災した地元はもちろん、JRにとっても計り知れないと思います。(赤坂信・千葉大園芸学)

熊谷産業は、私の現場でもたびたびお世話になっています。強面風で優しすぎるお兄さんとか、素敵な人ばかりです。私の教え子も一時お世話になっていました。
署名人にはぜひ入れてください。(波多野純・日本工業大学建築史)

 いぜん雑誌で歴史建築の素材を訪ねて登米のスレートを取材したことがあり、「雄勝天然スレート」木村社長邸などを撮影しました。あの美しい建物や気仙沼大工の名作、登米尋常小学校や警察署が消えてしましまった事実も知らされおどろき、いま掲載誌の写真見ながら呆然としています。今回の趣旨に賛同します。(中川道夫・写真家)

歴史的建造物の修理修復では使えるものは徹底して使うのが鉄則です。
面倒だからそれをやめるというのは賛成できません。(西 和夫・神奈川大学名誉教授)

「赤れんがの東京駅を愛する市民の会」では要望書をつくり、有志と賛同者の名義で
JR東日本に持っていく予定。同時に塩抜きの方法に付いても専門家から意見が寄せられている。

瓦は、多孔質なので、表面を流しただけでは塩分が中に残ります。
ビニールプールのようなものに水を張り、どぶづけする必要があります。
泥をとり、できれば水は3回くらいは替えたあと、また流水で洗ってほしいです。
塩分量も全数でなくていいので、測りたいところです。(権上かおる・アグネ技術センター)

このことも検討する必要がある。
そんなこんなで1日も早く東京へ戻ることに。熊谷を過ぎたあたりで新幹線フリーズ。
余震で停電、そろそろ日も暮れる。あーあ。幸田露伴ではないが、「待つということは待つということだ」。前の席の人が握手を求めてきた。「森まゆみさんでしょう。よく読んでいますよ。しみじみと」こんなときは嬉しいものである。運のいいことに新幹線は20分遅れで走り出す。車内アナウンスも落ち着いて的確だった。これもJR東日本。3号車を喫煙車にしてなおかつ車内を無線LANにしているJR東海よりも全席禁煙のJR東日本はずっと好きだ。