‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ

震災日録 3月8日 群馬の山を除染すると……

2012年3月12日 月曜日

忙しいので丁寧に料理を作る暇がなく、スーパ-で野菜の他、ラーメンやチゲの素、ベーコンなどつい、便利かなと買ってってきた。これが食べてみるとみんな化学調味料で舌がびりびり。
しまった。外食もだめだが、家で食べるにしても買物に気をつけなくては。いつもは気をつけているのになあ。家中の化学調味料のはいっているものを捨てる。サトコはついに花粉症の始まり。私にはまだこない。
サトコによれば八ッ場ダムのある群馬県長野原町も所によってホットスポットがあるという。60年、ダム計画で苦しめられて来たところが放射能でも苦しまなければならないなんて。ある住民は「山の除染はあきらめている」といったそうだ。ダムは住民のためでなく東京を含む下流都県民のために作られようとしている。しかし下流都県民は八ッ場と川でつながっていることに気づかない。でももし八ッ場で山を除染したとすると、その放射能は吾妻川から利根川に入り、やがてわれわれ都民の水道水となって口にはいるだろう。2年8ヶ月後に東京湾が最大に汚染されるというのはそういうことなのだ。それでもまだダムは自分に関係ないというのか。

震災日録 3月7日 いまさらでも福島の子どもたちを避難させたい。

2012年3月12日 月曜日

昨日はねられなかった。「ふくしま集団疎開裁判」に関するホームページや映像を見、いままでそれほど関心をもたなかったことを恥じた。映像ドキュメントの仲間たちは早くから郡山や福島に取材にいき、映像化して流していたのが。http://www.eizoudocument.com/0632sokaisaiban.html

これは郡山の14人の子どもが集団疎開をもとめて郡山市を提訴したもの。郡山の3月以降の放射性物質の積算量は7.8~17.2mSv、これはチェルノブイリで子どもたちの疎開の基準とされた5mSvをはるかに超える。それでも疎開先のゴメリ市では、数年後から子どもたちの体に異常が現れ、通常10万人に数名しかあらわれない甲状腺異常が1996年には10人に1人見られるようになったという。しかし文科省は20mSv以下なら教育活動をすると言明、また福島県が山下某という「100mSv以下なら大丈夫」論者をお抱えにしていることからも、行政は率先して子どもの健康を守ろうとはしていない。下の郡山市の学校のうち、アカマルはチェルノブイリなら強制移住地域となるはずの放射線量。

http://fukusima-sokai.blogspot.com/2012/01/no-yes.html

わたしは夢を見た。それは中学校のときに林間学校で行った長野の美しい高原。
国の研修施設で、たまたまそこに坂田文部大臣がきて草の上で逆立ちをしてみせてくれた。あのときまだ50そこそこだったのかな、そのまわりに小学生、中学生が集まって拍手をしている。文部大臣ははりきって額に汗をかきながら逆立ちのまま手で歩いた。どこから来たの? と私がきくと白いカーディガンの女の子が『郡山から』といって恥ずかしそうに、でもにこにこしながら、広い草の上をかけだして行った。みんな楽しそうに草の上で遊んでいた。
ここで目が覚めたのだが、国立の青少年施設、泊まるところも食堂も、教室研修室、体育館ところによってはプールのある施設はたくさんある。そこに郡山、福島はじめ高線量の地域の子どもたちを国が責任を持って集団疎開させる。最初は希望者からでもよい。そこでは近隣からの食料や炊き出しの協力も受け入れ、ボランティアの学生を派遣し、勉強を見てもらう他、それぞれの生き方や進路や受験に付いても話し合う場を作る。疎開によって差別もされず、進学に不利益をもたらさない疎開を国は最大限の誠意をもって行うべきだろう。私は国家公務員上級職の研修に講師で行ったことがあるが、ここなんか一人ずつ個室の高級ホテル並だった。緑の多い広い敷地のあの施設も疎開に使えばよい。エリートに育った青年を優遇するより、これからの命と健康を大事にしなければ、なんのための子ども手当、何のための少子化対策。

震災日録 3月6日 誰も知らない基地の話

2012年3月12日 月曜日

渋谷キノハウスで『誰も知らない基地の話』の試写を見る。朝日新聞の宜野湾市長選の記事をみて映画配給の会社から連絡がきた。渋谷円山町に映画美学校も移ったらしい。
イタリアのビチェンツィアは私も行ったことがある。世界遺産の美しい町だ。そこにアメリカが駐留米軍基地を作ろうとしている。それでイタリア系とイタリア人の若者二人がこんな映画を作ろうと思い立ったのか。マイケル・ムーアを思わせる手法で、資料映像を挟みながら二人は世界の基地を調べて歩く。見てよかった。知らないことが多かった。沖縄だけではない。40カ国に700も米軍基地がある。表題でもあるが、それをスタンディング・アーミーという。インド洋の島からは基地ができるから危ないと、島民2000人が追い出され故郷を失った。しかし米軍兵士はそこの珊瑚礁でヨットに釣り、海中水泳などまるでレジャーランドのような生活をしているらしい。沖縄でも世界で一番危険な普天間基地で轟音に耳を塞ぐ子どもたち、自分の土地を勝手に取られたおじいさんなどの映像が印象的だ。なんのためにこんなに基地があるのか?
日本を仮想敵中国や北朝鮮から守るためではない。米国の軍事産業とそれとかかわる人のためだ。アイゼンハワーが大統領辞任挨拶で、これら軍事産業の商業的拡大は危険だといっているのも知らなかった。アメリカのこうした「金儲け資本主義者たち」はホスト国日本のエリートと野合している。「日本の下級官僚や自治体職員なら、ちがった対応をするでしょう」というブラウン大学の女の先生がいうことの正しさは、野田総理と伊波元宜野湾市長や、百歩ゆずっても仲井真知事の差を見てもわかる。だれが住民のことを考えているのか。日米安保条約は事前通告でいつでもやめられる。

震災日録 3月5日 あまりに論議をつくさない復興町作りについて

2012年3月12日 月曜日

きのう、陸前高田を再訪した建築家の薩田さんは「いま何が一番よろこばれるかというと女子大生。若い女の子がきて静かに話を聞いてくれると言うのが、お年寄りは一番元気が出る。孫みたいでかわいがりたくなる」のだといった。そりゃ、そうだろうなあ、とおもう。
その陸前高田は名古屋市のまるごと支援を受けていて、名古屋市の都市計画の専門の職員もまじえてお年寄りたちが元気なうちにできるだけ早く、と書いた計画ができたらしい。山を削って高台に住宅地を作り、海際は8メートル盛り土してかさ上げし、防潮堤で守りながら商業地、漁業基地などにするという。それの説明会はたった2時間だそうな。参加の町作りとはとうていいえない。同じようなことがあちこちで起きている。名古屋の町の縁側育み隊の建築家・延藤安弘さん、神戸の震災で活躍された真野地区のプランナー・宮西悠二さんは仙台市荒浜でプロジェクトを始めた。「希望の黄色いハンカチ大作戦」
http://yellowarahama.at.webry.info

震災日録 3月4日 命を守れる避難所とは

2012年3月5日 月曜日

今日は67年前の同じ日、谷根千をB29が襲い、190人もの人がなくなった。
3月10日の東京大空襲では一晩で10万人くらいの死者が出て、よく知られているが、この日のことは知られていない。また広島、長崎は海外でも知られているが、東京大空襲でさえ、海外では知らない人が多い。
3月4日は爆弾で、今の千駄木3丁目の鹿島湯の倉庫で23人なくなった。不忍通り反対側の崖下の防空壕では坂上の貯水槽が爆弾で崩れ40人以上がなくなった。そのほか三崎町、初音四丁目、真島町でなくなった方70余名を慰霊するため三四真地蔵が建立された。詳しくは谷根千80号参照。今日、谷中コミュニティセンターで行われた「谷中は戦場になった」での初めて聞いた発言より。

田辺さん*三崎坂で菓子屋をしていた。おひな様をしまおうかなあ、という日に空襲があっておひな様どころか家が爆弾でやられたと聞いた。下谷の遺体は両大師橋に並べられた。アメリカ軍は厚木あたりに落とすつもりのところ、視界が悪いのであきらめ、しかしグアム、サイパンまで爆弾を持って帰るのは重いので谷中当りに落とした。私は学童疎開中でいなかったが、子どもより疎開先の猫の方がいいものを食っていた。それで猫の煮干しご飯を食べて未だにネコマンマを食べたと言われている。戦後、不忍池を田んぼにしたが、一部の人が収穫を隠匿したというので翌年からやらなかった。

*浅草育ちの父から逃げるなら川より山へ逃げろと言い聞かされていた。隅田川では人は死に、上野の山では助かった。
*上野で育ち、戦後は防空壕は冷蔵庫代わりに使った、湿っていたが今では乾燥したのか湿っていない。
*谷中の台地から見ると浅草のコンクリートのたてもの2つ3つ、残してあとは焼け野が原だった。父は花火は好きなんだけど、焼夷弾を思い出すから嫌いだといっていた。屋根の上に焼けこげた死体がのっていたそうだ。
*教えてくれた先生は医学生として空襲の惨状を見、医学より戦争を止める経済学を学ばねばと専門を替えた。1969年にベトナム戦争のことを考えようとMITの学生が1日研究モラトリアムをした。ホテル・カルフォルニアなどに見られる69年スピリットをどう思うか。
*谷中でなくなった方を誰がどう葬ったのか――警防団の人々が谷中墓地の日暮里の駅、上野公園のあったあたりに仮埋葬し、八柱霊園に回葬したと聞いた。
*父の従兄弟たちは14歳と12歳で日本橋浜町で抱き合った遺体が発見された。明治座に逃げてなくなった方が多いとも聞いている。
*私は89歳で、そのとき南京に兵隊でいた。もう戦闘はなくのんびりした生活。毛沢東と蒋介石の軍隊が闘うのを傍観していたりした。そこへ内地から手紙が来て空襲でやられたことを知った。麻布三連隊で、内地に転属になり,帰って来たら品川の駅で空襲に遭った。5・25宮城が焼けた日であった。こんな馬鹿な戦争はやめたいと思った。
*昭和21年生まれ、父は中国戦線に2回行って、マラリアで私が小学校6年のときに死んだ。中国人の首をつるした写真や馬を殺した写真などうちにあった。父は同期の桜をうたっていた。
*栃木にいたので戦争はピンと来なかった。日光と京都は決して爆撃されないと先生がいっていた。うちには将校が泊まっていたので物資には不足せず、勉強もしなかった。農家で朝は麦踏み、かえると兵隊さんの手伝い、飛行場の草むしり。矢板でベニヤの飛行機を作っていた。戦後は置いていったモーターで水汲みなどした。
*今のと夫婦ですが、私は長野で食うに食われず、大豆の煎ったのを口に入れるだけで嬉しかった。ほんとうに白米で通したなんて非国民と夫を恨んだりして。でも今回の地震のような支援がなくたって人々は立ち上がった。
*姑のいとこが業平にいたが、警察官だった夫を空襲でなくしてひとりぼっちになり寂しがってよく来ていた。父母兄弟もみな空襲でなくしたといっていた。
*浅草の今戸で生まれたが母の実家の小田原に移転して空襲を逃れ、いま生きているんだからせめて戦争をふたたび起こさない運動に関わりたいと思っている。父は上海近郊で死んだことになっている。それが10月31日で、私は11月28日に生まれたので父の顔も知らない。家内のオヤジは鞜職人で、3月10日の空襲に会い、隣りの老婦不を助けられなかったのを悔やんでいた。人間として悔しく哀しかったのでしょう。
*母の弟は戦地に5、6年いて帰って来たが85歳で死ぬまで一切戦地のことを誰にも語らなかった。言えないことがあったのかなあという気がする。

午後1時半からは和室で、谷中防災コミュニティを考える有志の会『地震発生、そのときあなたはどうしますか』が行われた。
*谷中まちづくり協議会防災対策部会長・篠田さん
真島、初四、三崎などは気密、うちの上、三崎南町会はお寺のあいだにちらほら町家がはさまっている程度。状況が違う。一とき集合場所は谷中14町会に18カ所ある。
谷中小には9町会対象者2523人がもしくれば立錐の余地はない。毛布は2000枚ある。上野中には4町会923人、上野高校には1町会。発災後3日間は何もできないと考えてください、と行政には言われている。医薬品は外傷などのくすり。谷中クリニックの高橋先生などとの連携、町会ではお寺との協定なども模索中。自助、共助、公助のほかに近所(近助)も大切だと思う。
*谷中まちづくり協議会、環境部会会長・松田橿雄さん
安心安全に暮らせる町である必要があるが、耐震化をいってもなかなか進まない。今古いものが残っているので観光の人気スポットになっている面もあり、そういうにぎわいと防災をどう両立させるのか、むずかしいところ。町会にはいっていない人も多くなり、昼間に震災が起ると半数は自宅にいないなど、人手不足。若い方の参加を期待したい。コミュニティでは谷中は絆がつよい先進地区だが加えて結(ゆい)まですすめたい。また自宅に最低3日、できたら5日の食料備蓄がのぞましい。他区では街角水道栓や手押しポンプを配備しているところもあるが、家の前に植木をしている家の10メートルのホースをつけた散水銓も有効だ。

*建築家・薩田英男さん
谷中コミセンの防災建て替えに付いて、1・出入り口は広い方がいい。2・廊下を多目的に使う。3・多目的ホールは窓がない換気が悪いと避難所としては使えない。などのことが専門家としては気になった。陸前高田に再度行って、重ねていくことの大切さを思った。
命を救う鎮守の森、諏訪神社。いま市は1回2時間の説明会だけで、8メートルの高さの盛り土をして町を再生しようとしている。それで住民の意見をくめるのか。いま壊すなら解体費用は市で出すということでどんどんこわしている。瓦礫が片付いて自分の家がどこにあったのか分からない。記憶の町が消えていく。生きていた場所の証しがなくなってしまう、という声もある。お年寄りは女子大生が来て静かに話を聞いてくれたりすると喜ぶ。大手のプレハブ仮設でない木造の仮設住宅を造ったところもある。岩手を回る移動図書館のプロジェクトやみんなの目の底に残る大庄を部材を探して建て直そうとする動きもある。

*上野消防団、庄野さん。
真島町で3代目。昭和63年から消防団に入る。消防団員はどんどん減少している。AEDなど応急救援をしたい。自分たちが習得して地域に伝えることが大事。夫の実家は仙台の荒浜でたくさんの話を聞いた。本当に被災地は見ると聞くのは大違い。そのことから谷中での防災を考えた。マンションや一人暮らしの人が増え、顔も知らない人といざとなったら谷中小学校で避難生活を送るのかなあ、と戸惑いもある。

*台東区議、防災石川さん
浅草の歯科医。東京大学地震研究所は4年以内に震度7が来る確率を70%と言っているが、いま都のデータを集めているところ。谷中のコミュニティには注目している。京都の祇園などでも文化財が多いが、あそこは木密と言っても細い路地の裏は広い道、条件が違う。関東大震災では町の人が神田佐久間町小学校を3日間まもりとおした。そのような初期消火の地域防災を向う三軒両隣でどのようにやるかが大切だ。
*台東区本田係長
台東区に荒川の氾濫や決壊で5メートルの浸水が来た場合には谷中コミセンに本部機能を持たせる。
そのほか
*お寺と防災、
*井戸と防災――出なくなった井戸をもう一度掘り下げる。台地の上では飲用不適でもわかしたりして飲んでいる。井戸水の浄化の研究は?
*震災時の医療――どの医師がどこに張り付くか
*観光客と避難場所
*災害マニュアルは住民に配られるのか? ――現在手入れ中。
*知的障害、精神病、介護の必要なお年寄り、車椅子の方の避難はどうするのか。
などの問題提起や討論がなされた。

その後、場所を移して初音の森防災ひろばで、防災井戸、ベンチをはずせば火を使える、防災トイレのシステムを学習、じっさいにベンチをはずして豚汁をつくり、お湯を沸かしてアルファ米をたいてみた。火鉢カフェ主宰の中村有里さんの説明では炭は間伐材の利用で森にとっても環境保全になり、熱効率高いが煙や焔は余りでず、火事や呼吸困難などになりにくい優れもの。これと珪藻土の七輪、熱効率を挙げるブリキの煙突(お茶缶の底を抜いても代用可)なども有用。橋詰さんたちの豚汁がうまいのはさすが、けっこうアルファ米の山菜ご飯もおいしかった。

震災日録 3月3日 ガラクタ整理

2012年3月5日 月曜日

ひな祭。今日はガラクタ整理のはなしを聞いたので、家に帰り、枯れ果てた鉢植えを10個捨てる。『芸術新潮』『東京人』『旅』などのバックナンバーも段ボール2箱捨てる。「谷根千」という商標にもなんら執着がない。それで新しいことができる。それでも本と書類で家が片付かない。ガラクタ整理師さんいわく、いろいろ考えたら一番のガラクタは夫だ、という人が多いんですよね。うーむ。
このところ胃痛はなはだし。そうすると炊事する元気なし。

震災日録 3月2日 相変らず大変ないわき

2012年3月5日 月曜日

光源寺の島田富士子さんはずっといわき支援を続けておられ、檀家ながら頭が下がる。
昨日来たメール。

お久しぶりです、島田冨士子です。3月5日にレンタカーでいわきに出かけます。現地からの要望などをみなさんにお願いできれば幸いです。
以下、現地の方々の必要としているものです。光源寺に寄せていただけると有難いです。3月5日に届けますので3月4日までにお持ちください。

野菜または野菜ジュース
野菜があまり生産されていないし、県外のものが高くて、少ししか食べられない。

とくに子どもに県外の米を食べさせたい
フリーズドライ米
煮炊きがしづらいお年寄りが、いつでも食べられる
ミシン
エプロンなどなにか作って内職にしたい
空気清浄機
気管支ぜんそくの人が多くなった

いわき市は30万を越える、福島第二の都市なのに、そこでまだこういう需要があることに驚く。被災地格差というのだろうか。原発に近い海辺の被災地で、お米を炊くのもままならないお年寄りがいるようだ。阪神淡路大震災では仮設での孤独死が問題になったが、今度もこんなことが起こるのか。

震災日録 3月1日 言葉の問題

2012年3月5日 月曜日

言葉に関すること。「フクシマと言う言葉を使うのはやめていただきたい。胸がいたみます」というメールがsnowという人から来た。下さった方、匿名でなければもっとよかったのに。しかしこれは考えるべきことである。わたしは福島と言う土地やそこで暮らす人々のことを指す時は漢字を用い、それと区別して東京電力福島第一原発事故が引き起こした問題を著す際にはフクシマと使ったりした。とくにアレクシェービッチが「我々はみなチェルノブイリ人となった」といったことに感銘を受け、この原発を止められなかったことに責任があるとの自覚に立って、日本人全体の問題である、自分たちだけ逃げられると思うのはまちがい、福島の人々と連帯したい、などの思いで使っていた。しかしフクシマと書かれる度に傷つく人が、胸の傷む人がいるのなら、これからは注意して使うか使わないか考えたい。しかしsnowさん、あなたはヒロシマ、ナガサキ、ミナマタなどという片仮名を見ても胸がいたむのだろうか。

すでにこの問題を取り上げているサイトがありました。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1312571935

私は「世界に対してこの問題を訴えたい」意図で使ったことは一度もない。
「なんで美浜、大飯、伊方などに県名はついていないのに、これだけ県名がついているのだろう」という疑問ももっとも。また事故直後、新聞などが「福島第一原発」と使うたびに「東京電力」と頭につけろ、と感じていた。そして福島在住の方からの痛切なコメントにも胸がいたんだ。農業どころか福島で作るのか、と町工場にまで仕事がない状態だそうだ。2月28日に寄田さんが「フクシマではなく福島です」と書いていたように、原発事故にばかり目がいってしまわないで、福島の大変な生活に目を凝らす必要がある。
「ノーモア・ヒロシマ」が英語としてはおかしいこと、9.11や3.11も使うべきではないなどという意見もある。いいだすときりがない。3.11に誕生日や結婚記念日の人もいるのだから、とか。うちの娘は3.20が誕生日だけど「べつにいいんじゃない」といっていた。私は3.11は震災と津波の日と認識し、原発とは結びつけない。事故が起きたのは3.12だ。

震災日録 2月29日 追い炊きのできない風呂

2012年3月5日 月曜日

閏年。4年に一度の29日。
屋良朝苗さんゆかりの沖縄少年会館が老朽化によって壊されることに反対している市民グループが那覇市内の小学校を調べたところ、10校もそれ以上の老朽化で危ないと言う。先にそっちを改築するべきではという意見。思いやり予算で米軍基地が置かれているところは基地対策費ですばらしい校舎や体育館が建っているが。
東京新聞によれば、仙台の住宅地でも地盤が崩れ、現地に残るか、引っ越すか、深刻なことになっていると言う。そして全国1000カ所の盛り土による宅地造成は極めて危険と国土交通省もいっている、と東京新聞。その同じ省が八ッ場ダムで盛り土の代替地をつくろうとはどういう話?
今日は雪。寒いから昼からお風呂に入る。お湯を入れ替えるのはメンドクサイから追い炊きポン。仮設住宅で一番困るのは追い炊き機能がついていないことだとあちこちできいた。衛生面からそうしたらしいが、東北の寒い現場でどういうことだろう。お年寄りはお風呂洗うのもおっくうだし、プロパン代が物すごい、と嘆いていた。

震災日録 2月28日 寄田さんからメール

2012年2月28日 火曜日

放射線の影響がどの程度のものか? よくわからない。
陸前高田の材木を燃やすことや、岩手県の瓦礫処理までヒステリックに反対する人たちにはうんざりする。
子どもが小さければ注意するのは当たり前だが、いますぐ福島から逃げろ、逃げないヤツは馬鹿だ、というような文言にも違和感を感ずる。
当面、私自身はウクライナ基準くらいのものなら食べる。一bqも出ちゃいけない、というのは現実的に無理だ。福島でも群馬でも栃木でも必要ならいく。
友人の馬の調教者でホースセラピストの寄田勝彦さんから。許可を得て公開します。長文だがぜひ読んで欲しい。
彼は沖縄や粟島で福島からのこどもたちのキャンプを行い、しかも福島にあたらしく牧場をつくることにしました。福島にこどもたちがいる限り。

「僕は原発に反対です。
世界にある、全ての原発がなくなれば良いと思っています。
低線量被爆もなくすべきと考えています。
特に自分で選択出来ない子どもたちを大人が守るのは当然の事なので、命を基準としたルールを作ることが重要だと考えます。
分からない事は安全サイドに立って考えるべきです。
そして、命のボトムラインはお金ではありません。
お金を基準に命を計量することは許しがたい侮辱です。

これが僕の思考と行動の前提であり、原理です。

さて、ここから原理を超えた現実の話になります。
ある人が定住に繋がる支援はやってはいけないと語ります。
これは、原理主義としては賛成です。
しかし、原理主義の問題点は、切り捨てられるものが多すぎるという事です。
ゆえに、原理主義はファシズム的にならざるを得ません。

考えてみます。

定住に繋がる支援と、定住に繋がらない支援、二つの支援は何が違うのでしょうか?
定住に繋がる支援とは、その場所で暮らす人の暮らしの質を高めるという事でしょう。定住に繋がらない支援とは、今暮らしている場所からの避難して別の場所で暮らす為の支援を指すのでしょう。

この二つの活動を明確に分類し、かつどちらかの活動が悪であるという判断は非常に危険です。
それは、分断を生み出します。それだけではなく、「暮らす人により添う」という内在化された支援が不可能となります。

「私たちは福島です」ここから始める事が重要です。フクシマではありません。

政府や報道が正確な情報を流さないという話とは別の次元です。
正当な市民の権利として正確な情報を獲得する権利があります。なので、政府は正確な情報を提供する事が責務です。その意味で、現在の状況が正確な情報によって生み出されているとは全く思えませんし、政府の発表を信じる気持ちには未だに全くなりません。
しかし、だからといって、暮らしを二分化した価値観で判断するのは間違いです。

逃げたいと考える人には、誠実に対応すべきです。
もちろん必要な支援を受ける権利を失うことがあってはいけません。
残って暮らしたいと考える人にも誠実に対応すべきです。
残る権利もやっぱりあるのです。

凄く環境の悪い地域で暮らしている家族が複数います。
100キロ離れたところに、とても環境の良い暮らしの場所があります。
ある人がやって来て、家族に言いました。
ここから100キロ離れた場所に家を建ててあげるからそこで暮らしなさい。
全ての家族にそのチャンスを与えますと言いました。
でも、やっぱり全ての家族がその提案に参加するわけではありませんでした。
数家族は生まれ育った環境の悪い地域で生きることを選びました。
ある人がいいました、こんな環境の悪い場所に残ると判断する人間は、親として失格だから、何の支援もしません。もし、君が改心したら、新しい場所で新しい暮らしを準備しましょう。
バカはだれか?

スラム街で暮らす子どもたちがいます。
この子どもたちがスラム街から出るという条件を満たすなら、支援をしましょう。
しかし、スラム街で暮らし続けるならば一切の支援をしません。
それは、スラム街での暮らしを認める事になるから。
スラム街を出るしか解決方法はないのですから、支援は条件付です。
これは良いのか?

強制的で暴力的な移動でない限り人は、完全にまとまることはありません。そしてもし、強制力によってまとまったしても、幸福とはほど遠いです。
必ず残ることを選択する人がいます。
そのぐらい歴史や文化は重いものです。時として命よりも重くなってしまいます。
ゆえに、この状況においては、人々に分断が生まれます。
残る人はバカで出て行く人が賢い。
残る人は情報が不足しているのであって、啓蒙が必要である。
残る人が無責任で、出て行く人が責任のある行動を取っている。
この分断と侮辱を増長させるのが、このファシズム的支援です。
これはやってはいけない。
その流れは啓蒙的にならざるを得ず、内発性を排除し、ファシズム的になります。

全ての命は輝く権利を持っています。
その権利は権利を超えて尊厳です。
この尊厳を奪うことは誰にも出来ません。
そしてその尊厳を尊重し認めるという責任を僕たちは負っています。
その尊厳に対して必要な支援を提供することは辞めてはいけません。
何よりも必要な支援なのです。
この尊厳に対する支援は、外部と内部の関係では構築出来ません。
「より添う」という事がどうしても不可欠です。
いかなる命にも寄り添うこと、それは私たちが内部として生きている事に他なりません。
この事がとても重要なのであり、このことがボトムラインなのです」