震災日録 3月4日 命を守れる避難所とは

今日は67年前の同じ日、谷根千をB29が襲い、190人もの人がなくなった。
3月10日の東京大空襲では一晩で10万人くらいの死者が出て、よく知られているが、この日のことは知られていない。また広島、長崎は海外でも知られているが、東京大空襲でさえ、海外では知らない人が多い。
3月4日は爆弾で、今の千駄木3丁目の鹿島湯の倉庫で23人なくなった。不忍通り反対側の崖下の防空壕では坂上の貯水槽が爆弾で崩れ40人以上がなくなった。そのほか三崎町、初音四丁目、真島町でなくなった方70余名を慰霊するため三四真地蔵が建立された。詳しくは谷根千80号参照。今日、谷中コミュニティセンターで行われた「谷中は戦場になった」での初めて聞いた発言より。

田辺さん*三崎坂で菓子屋をしていた。おひな様をしまおうかなあ、という日に空襲があっておひな様どころか家が爆弾でやられたと聞いた。下谷の遺体は両大師橋に並べられた。アメリカ軍は厚木あたりに落とすつもりのところ、視界が悪いのであきらめ、しかしグアム、サイパンまで爆弾を持って帰るのは重いので谷中当りに落とした。私は学童疎開中でいなかったが、子どもより疎開先の猫の方がいいものを食っていた。それで猫の煮干しご飯を食べて未だにネコマンマを食べたと言われている。戦後、不忍池を田んぼにしたが、一部の人が収穫を隠匿したというので翌年からやらなかった。

*浅草育ちの父から逃げるなら川より山へ逃げろと言い聞かされていた。隅田川では人は死に、上野の山では助かった。
*上野で育ち、戦後は防空壕は冷蔵庫代わりに使った、湿っていたが今では乾燥したのか湿っていない。
*谷中の台地から見ると浅草のコンクリートのたてもの2つ3つ、残してあとは焼け野が原だった。父は花火は好きなんだけど、焼夷弾を思い出すから嫌いだといっていた。屋根の上に焼けこげた死体がのっていたそうだ。
*教えてくれた先生は医学生として空襲の惨状を見、医学より戦争を止める経済学を学ばねばと専門を替えた。1969年にベトナム戦争のことを考えようとMITの学生が1日研究モラトリアムをした。ホテル・カルフォルニアなどに見られる69年スピリットをどう思うか。
*谷中でなくなった方を誰がどう葬ったのか――警防団の人々が谷中墓地の日暮里の駅、上野公園のあったあたりに仮埋葬し、八柱霊園に回葬したと聞いた。
*父の従兄弟たちは14歳と12歳で日本橋浜町で抱き合った遺体が発見された。明治座に逃げてなくなった方が多いとも聞いている。
*私は89歳で、そのとき南京に兵隊でいた。もう戦闘はなくのんびりした生活。毛沢東と蒋介石の軍隊が闘うのを傍観していたりした。そこへ内地から手紙が来て空襲でやられたことを知った。麻布三連隊で、内地に転属になり,帰って来たら品川の駅で空襲に遭った。5・25宮城が焼けた日であった。こんな馬鹿な戦争はやめたいと思った。
*昭和21年生まれ、父は中国戦線に2回行って、マラリアで私が小学校6年のときに死んだ。中国人の首をつるした写真や馬を殺した写真などうちにあった。父は同期の桜をうたっていた。
*栃木にいたので戦争はピンと来なかった。日光と京都は決して爆撃されないと先生がいっていた。うちには将校が泊まっていたので物資には不足せず、勉強もしなかった。農家で朝は麦踏み、かえると兵隊さんの手伝い、飛行場の草むしり。矢板でベニヤの飛行機を作っていた。戦後は置いていったモーターで水汲みなどした。
*今のと夫婦ですが、私は長野で食うに食われず、大豆の煎ったのを口に入れるだけで嬉しかった。ほんとうに白米で通したなんて非国民と夫を恨んだりして。でも今回の地震のような支援がなくたって人々は立ち上がった。
*姑のいとこが業平にいたが、警察官だった夫を空襲でなくしてひとりぼっちになり寂しがってよく来ていた。父母兄弟もみな空襲でなくしたといっていた。
*浅草の今戸で生まれたが母の実家の小田原に移転して空襲を逃れ、いま生きているんだからせめて戦争をふたたび起こさない運動に関わりたいと思っている。父は上海近郊で死んだことになっている。それが10月31日で、私は11月28日に生まれたので父の顔も知らない。家内のオヤジは鞜職人で、3月10日の空襲に会い、隣りの老婦不を助けられなかったのを悔やんでいた。人間として悔しく哀しかったのでしょう。
*母の弟は戦地に5、6年いて帰って来たが85歳で死ぬまで一切戦地のことを誰にも語らなかった。言えないことがあったのかなあという気がする。

午後1時半からは和室で、谷中防災コミュニティを考える有志の会『地震発生、そのときあなたはどうしますか』が行われた。
*谷中まちづくり協議会防災対策部会長・篠田さん
真島、初四、三崎などは気密、うちの上、三崎南町会はお寺のあいだにちらほら町家がはさまっている程度。状況が違う。一とき集合場所は谷中14町会に18カ所ある。
谷中小には9町会対象者2523人がもしくれば立錐の余地はない。毛布は2000枚ある。上野中には4町会923人、上野高校には1町会。発災後3日間は何もできないと考えてください、と行政には言われている。医薬品は外傷などのくすり。谷中クリニックの高橋先生などとの連携、町会ではお寺との協定なども模索中。自助、共助、公助のほかに近所(近助)も大切だと思う。
*谷中まちづくり協議会、環境部会会長・松田橿雄さん
安心安全に暮らせる町である必要があるが、耐震化をいってもなかなか進まない。今古いものが残っているので観光の人気スポットになっている面もあり、そういうにぎわいと防災をどう両立させるのか、むずかしいところ。町会にはいっていない人も多くなり、昼間に震災が起ると半数は自宅にいないなど、人手不足。若い方の参加を期待したい。コミュニティでは谷中は絆がつよい先進地区だが加えて結(ゆい)まですすめたい。また自宅に最低3日、できたら5日の食料備蓄がのぞましい。他区では街角水道栓や手押しポンプを配備しているところもあるが、家の前に植木をしている家の10メートルのホースをつけた散水銓も有効だ。

*建築家・薩田英男さん
谷中コミセンの防災建て替えに付いて、1・出入り口は広い方がいい。2・廊下を多目的に使う。3・多目的ホールは窓がない換気が悪いと避難所としては使えない。などのことが専門家としては気になった。陸前高田に再度行って、重ねていくことの大切さを思った。
命を救う鎮守の森、諏訪神社。いま市は1回2時間の説明会だけで、8メートルの高さの盛り土をして町を再生しようとしている。それで住民の意見をくめるのか。いま壊すなら解体費用は市で出すということでどんどんこわしている。瓦礫が片付いて自分の家がどこにあったのか分からない。記憶の町が消えていく。生きていた場所の証しがなくなってしまう、という声もある。お年寄りは女子大生が来て静かに話を聞いてくれたりすると喜ぶ。大手のプレハブ仮設でない木造の仮設住宅を造ったところもある。岩手を回る移動図書館のプロジェクトやみんなの目の底に残る大庄を部材を探して建て直そうとする動きもある。

*上野消防団、庄野さん。
真島町で3代目。昭和63年から消防団に入る。消防団員はどんどん減少している。AEDなど応急救援をしたい。自分たちが習得して地域に伝えることが大事。夫の実家は仙台の荒浜でたくさんの話を聞いた。本当に被災地は見ると聞くのは大違い。そのことから谷中での防災を考えた。マンションや一人暮らしの人が増え、顔も知らない人といざとなったら谷中小学校で避難生活を送るのかなあ、と戸惑いもある。

*台東区議、防災石川さん
浅草の歯科医。東京大学地震研究所は4年以内に震度7が来る確率を70%と言っているが、いま都のデータを集めているところ。谷中のコミュニティには注目している。京都の祇園などでも文化財が多いが、あそこは木密と言っても細い路地の裏は広い道、条件が違う。関東大震災では町の人が神田佐久間町小学校を3日間まもりとおした。そのような初期消火の地域防災を向う三軒両隣でどのようにやるかが大切だ。
*台東区本田係長
台東区に荒川の氾濫や決壊で5メートルの浸水が来た場合には谷中コミセンに本部機能を持たせる。
そのほか
*お寺と防災、
*井戸と防災――出なくなった井戸をもう一度掘り下げる。台地の上では飲用不適でもわかしたりして飲んでいる。井戸水の浄化の研究は?
*震災時の医療――どの医師がどこに張り付くか
*観光客と避難場所
*災害マニュアルは住民に配られるのか? ――現在手入れ中。
*知的障害、精神病、介護の必要なお年寄り、車椅子の方の避難はどうするのか。
などの問題提起や討論がなされた。

その後、場所を移して初音の森防災ひろばで、防災井戸、ベンチをはずせば火を使える、防災トイレのシステムを学習、じっさいにベンチをはずして豚汁をつくり、お湯を沸かしてアルファ米をたいてみた。火鉢カフェ主宰の中村有里さんの説明では炭は間伐材の利用で森にとっても環境保全になり、熱効率高いが煙や焔は余りでず、火事や呼吸困難などになりにくい優れもの。これと珪藻土の七輪、熱効率を挙げるブリキの煙突(お茶缶の底を抜いても代用可)なども有用。橋詰さんたちの豚汁がうまいのはさすが、けっこうアルファ米の山菜ご飯もおいしかった。