‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ

震災日録 4月17日―――亘理、岩沼、多賀城、石巻、女川

2011年4月20日 水曜日

5時に目がさめるとひろしさんが私たちの朝と昼の二食分のお弁当を作っていた。
きのう、あまり話せなかったのでおしゃべり。
レストラン緑山は壁の小さな亀裂くらいだったが、電気が来なかったので食材はだめになった。塩竈に置いてあった釣り船はあきらめていたら岡に上がったところに見つかり、何度も通ってどうにか海に戻す作業をしている。アメリカ大使館から問い合わせがあったのでびっくりしたら、ニューヨークのおばちゃんが連絡が着かないので心配しているのだった。
「ガソリンがない頃、一人5キロまでしか買えないのを5時間並んで目の前できょうは終わりが二度あった。中で凍死した人もいたらしい」
亘理の自動車学校でも習いに来ていた若い人がずいぶんなくなって経営者が嘆いているとか。山元の幼稚園バスも津波でやられたとか、東京には来ない話ばかりだ。スーパ-は大繁盛、福島産がだめということになったら茨城県産がどっと出回った。卵は飼料が変わって黄身が白くなった。
お店を開けたらみんなステーキを注文する。「よほど肉が食べたかったんだね」
こんな非常時に残念だが、遺体から物を取っていく人、窃盗団、車上荒らしもあるという。お嫁さんがばあちゃんを置いてけないから家へ戻って二人とも流されたり。しのぶさんも聞くと泣くの毎日だという。
ひろしさんは宮城県が放射能量を計測しないので、何度か県や町に実行するように訴えた。町は「県の連絡待ってます」しか言わないし、やっても結局、「健康に影響はない」でしょう。信じられないよ。
「瓦礫のなかにはレジオネラ菌、破傷風菌、アスベストもまじっているから気を付けた方がいいよ」とマスクまで用意してくれた。

朝7時だが宍戸家へいって情報を仕入れる。宍戸さんのところは相馬のご親戚、大きな肉や「鳥久」は無事だった。丸森町立病院もいざという時のために入院患者を一階へおろし、玄関あたりで寝ている人、車椅子のおばあちゃん、大変だった。「大きなガス釜で米を炊いて毎日おにぎり握りっぱなし」と野菜ソムリエ、剣道の達人志津子さん。8時前に出発。

*亘理町吉田中学校
近くで仮設住宅の建設進む。明るい体育館。しきりはなし。ステージの上から職員が「ただいま本とマンガが届きました」とアナウンス。壇上に管理者がいて下に避難者がいると上下関係とか管理する者、される者に別れてしまうのではないかと思う。子どもは集まって腹這いになってゲームに夢中。これからもこの姿ばかり見て心配。入り口に退去者のものなのか、毛布がどっさり積み重ねてある。洗濯機をまわしながら井戸端会議。喫煙コーナーでもおしゃべり、お年寄りは蒲団に寄りかかり目をつぶっている。校庭でサッカーする姿も。

*亘理中学校
最初話した人は趣旨を聞き終わってから「私は練馬からきた支援なのでわからない」という。最初にいってほしい。責任者は「どれくらいの量ですか」という。これからもずっとそれを聞かれることに。「どれくらいいりますか」と聞くと、自分で見て来てください。しかし置きにいくと「皆さん、作家の森まゆみさんが子供たちにマンガと絵本を持ってきてくれました。大人向けの本もあります」とアナウンス。みんなから拍手が上がる。あと自分でも話せというのでほんの短い話をした。

*亘理高校
高台のもと城跡にある。入り口が難しい。どこの避難所も探すのに骨が折れた。
担当の女の人は名刺を渡すと「森さん」と呼びかけてくれたのはいいと思った。「浜の方で家も土地もなくされた方たちです。お年寄りが多いのでなるべく字の大きい本をお願いします」。本はどこにあるのでしょうか、と聞いて指さされたところに行くと小さな台にふるい文庫本がすこしあるだけだった。

*亘理小学校
子供の本のコーナーはあった。そこに少し置いた。ジャンプはぼくも読みたい、と受付の人。そのとなりで柔道整復師がふたり、お年寄りの体をなおしているところ。ほかでもこのようなボランティアは何度も見た。受付の若い男性はかなり疲れている。活力のある人は昼間は自宅に戻って瓦礫撤去などをしているので、残っているのはどうしてもお年寄りが多い。ご飯の時間ですというアナウンス。なんだか病院に似ている。

*逢隈小学校
ここは体育館を1丁目2丁目などと区切って、コミュニティをわけている。明るいが、とにかくこんな天井の高い茫漠とした空間に一ヶ月も暮らすなんて想像を絶する。
「山形から毎週、ジャンプをとどけてくれる青年がいるので、彼の気持ちを無にしないためにもジャンプは一冊でいいです」といわれる。
子どもが4割いるので児童書を多めに。もうすぐ学校が始まり、海側の荒浜小学校とひとつの校舎を使うので大変です。(合併はしないらしい)。畳があるのは珍しいんですよ、と職員は言った。

*亘理は山側はいちご、海側はホッキ飯で有名。いつも松島で釣をして漁果がないと海沿いの真新しい温泉鳥の海で松林を望むお風呂に入り、一階の鮮魚コーナーでミズイカやホウボウ、アンコウなどを買っていた。その回りには寿司や、ホッキ飯を出す民宿など、いっぱいあったのにすべて波にさらわれた。近付くことすらできなかった。とおくに蔵王の雪が白い。なんとも風光明媚なところなのに。曾祖母のふるさと。

*岩沼渡波小学校
大きな体育館。小さな木の囲いで着替えコーナー、受付コーナーが作られている。受付の人「できるだけ自立してもらうようにしています。炊き出しは自衛隊や地域の方がしてくれています。本はそんなに置くところないんですよ。もっと生野菜がほしいですね、けんちん汁はよく出ますが、おひたしも出したいんですけどね」
後背には被害の少なかった農村部があるのに、なぜおひたしやサラダができないのだろう。東京から米や野菜や野菜ジュースを運ばなくたって、と思うのだがよくわからず。「半壊でも金は出るぞ。家にいないでたまには避難所に来いよ。ここに情報があるんだから」と大声で携帯電話する男性あり。

*荒浜の早川眞理さんの尊敬するもんぺさんこと小幡つや子さん宅。
宮城野区中野。ここら辺の人はまさか津波が来るとは思わなかった。うちのすぐそこまで来て、あらあらと見ていたけど幸い中までは入りませんでした。山登りをするのでいくつものリュックに懐中電灯はいっていたし、ろうそくもあったし、キャンプは慣れているからそう困らなかった。キャンプの経験は子供たちにもさせた方がいいと思う。こうなると近所の人がみんな何でもくれるの。こんなんで被災者では申し訳ないけど行政からも物資をいただくし。
お昼ご飯を使わせてもらい、温かい味噌汁を出していただき、困っている人にあげて、とインスタント味噌汁二箱、手造りのおいしいチョコレートケーキを85個いただいた。http://blogs.yahoo.co.jp/monpebaasan
いっしょに仙台市の避難所を探しにいったが中野小は廃止。キリンビールの工場あたりもひしゃげた車でいっぱい。キリンの缶が流れ出し、拾ってのんだ人の話。瓦礫の処理で粉塵もうもう、「ここにも民家があったはずなのに」と小幡さんがいうが真っ平ら。

*ここで明日会う予定の雄勝天然スレートの木村満社長と連絡とれる。被災され、仙台の娘さんの家へいたが明日は雄勝へ行くと言う。「森さん、覚えていますよ。工場へ来てくれて、スレート切りましたよね。あのときの東京駅を葺いた職人の高橋さんもお元気ですよ。雄勝の千葉さんも支所の方でがんばっていますよ」。びっくり!
2日前のは同姓同名の方がいたための誤報で、旧雄勝町役場の千葉さんはお元気だった。よかった!!それにごめんなさい。

雄勝天然スレートの木村満社長も工場も家も全壊です。右後に写っているのは東京駅のために用意した雄勝産スレート新材。被災しましたがきれいなまま残っていました。

雄勝天然スレートの木村満社長も工場も家も全壊です。右後に写っているのは東京駅のために用意した雄勝産スレート新材。被災しましたがきれいなまま残っていました。

*多賀城の文化センター。国の史跡多賀城址を見学の帰りに寄った展示室も避難所になっていた。ホールは暗いし客席があるのでホワイエに暮らしている。ホールの入り口の取っ手にハンガーがかかっている。テレビでプロ野球に見入る人々。若い女性がおじさんたちにハンドマッサージ。入り口では天下一ラーメンが京都から車を運び、麺は仙台で調達、きょうもボランティアで1000食ふるまったという。本を並べていく。ほとんど本らしい本はないのに、壁際に某大手出版社から送られた書籍の包みがいくつも『返却』と書かれて積み上げられていた。ショック。

*石巻は朝と夕方、自衛隊、職員、ボランティア、見学者の車で渋滞するというので残念だが名取、東松島は通りすぎた。高速からは海のほうがよくみえる。6号線より西と東で色が違う。海側は泥で黒い。
女川町総合運動場へ。丘の上の大きなアリーナに多い時は3000人がいた。
入り口には自衛隊が大きなテントを張り、風呂を運営している。ごった返すという感じ。
岩手のアーク牧場で真理ちゃんが一諸に働いた高野晃さんをやっと見つけた。
食事は一日二回。朝はパンと牛乳とか。すかいらーくが炊きだしに来てる。きょうは讃岐うどんのテント。お姉さん食べてって、といわれ、あの、被災者じゃないんですけど。いいんだよそんな、いくらでもあるんだから。でも食べるわけにはいかない。なかは段ボールで囲って通路を作ってあった。

*女川町議で40年、原発に反対して来た高野博さんにあって話を聞く。
「地震の時は本会議中でした。家に帰ったけど入れる状態じゃなくて、女川第二小学校に孫を迎えに行きました。そのうちゴーッと音がして津波がくるぞ-というのでもっと高台の運動公園に避難した。雪が降り出してビニールシートを子供たちにかぶせた。津波には警戒していたが、あんな大きなのが来るとは思わなかった。家のあたりは海になっていた。100人の集落の那珂で55人が亡くなりました。小学生は無事でしたが、卒業で早く帰っていた中学生が2人なくなりました。
大学を出て、それこそ女川第一小学校の先生を二年やったあと共産党から町議になりました。それは昭和43年ころ、木村力という町長の時ですが、原発が計画され、議会26人中誰も反対しなかったので、お母さんたちの願いで私が出ることになった。議員になっても反対は私1人でした。東北電力はうまいんですよ。浪江町と誘致合戦をやらせて競わせた。反対したのは漁師さんです。女川漁協と雄勝漁協と。でも議会や市民と手を結べず稼働しはじめたのは昭和59年だったかな。今思えば漁師さんたちが正しかった。
私は議会で毎回、三つのうちひとつは原発のことを質問して来た。でも東北電力も誠実な答えをしたことはありません。今回の地震のあと、停電になり、電話もつながらず、ラジオで福島で事故がおきたことはわかったが、女川のことが心配でただ祈るだけでした。
チリ地震の時もマイナス6メートルまで波が引いたので海水から冷却のための水が取れなくなるのではないかとヒヤヒヤしました。私は8期やって1回落ちたんです。共産党から2人出すのに失敗して。それで返り咲いて今反対は2人いますが、事故の後、町民にアンケートを無作為でとったら6割は原発に反対、賛成は2割しかいません。
女川は東芝が作った原発ですが、しょっちゅう事故を起こしています。それに電力会社も町も真摯に対応してこなかった。電力支配下の町でなかなかはっきり物がいえませんがこれを大きな力にしていきたいです。

女川原発に40年反対しつづけた高野博町議

女川原発に40年反対しつづけた高野博町議

もう6時20分、追分温泉まで真っ暗な道を走る。到着後、荷物もおろさずすぐに夕食。ここは温泉だが避難所にもなっている。当初60人くらいいたがいまは30人、混ぜてもらって夕食。ここへは前にも来た。そのときは食べきれないほどの海の幸だったが今日は焼き魚、韮の卵とじ、カボチャの味噌汁がほっとする。
食後、お茶ではなしをする。ご主人の横山さんは、
「この辺は岩盤がよく被害はなかった。津波は見ていないし、そのあとも見る気になれない。100人以上のひとがここに逃げてきた。さいわい宴会が中止になったので、すぐ避難民を受け入れ、食材はあったので作って出しているうち、避難所に指定された。寒かったけど食材の保存のためには助かりました。ここから丹前を運んだり、おにぎりも握って届ける毎日でした。食べ物あっての宿ですから、農業や漁業の復興がないうちに観光なんてありえない。それにこのことがあってから、人の情けというか、前にいらしたお客さまが全国からいろんなものを送ってくださいます。もうこのままずっと避難所でもいいやと思うくらいです」
30人の避難の方たちは風呂掃除や配膳など自主管理している。他の体育館の避難所をたくさん見た目には、部屋はちゃんと天井や壁があり、近所の仲間と避難して静かな雰囲気が保たれ、お風呂にも入れるし、いいところだと思った。

 追分温泉旅館を避難所にしてしまったご主人の横山宗一さん。そこに最後の5箱を置かせてもらいました。30人の避難者が暮らし、一日300人にタダでお風呂をふるまっています。

追分温泉旅館を避難所にしてしまったご主人の横山宗一さん。そこに最後の5箱を置かせてもらいました。30人の避難者が暮らし、一日300人にタダでお風呂をふるまっています。

前にあった大内さん夫妻からも、ノアの箱船のように屋根に乗って漂流した人の話。津波が来るとわかってから元気な漁師が海の上のほうが安全だと舟を出して波を乗り切った話。浜ではみんなそれを見て泣いていた。首まで浸かった93歳のおばあさんが助かったけどカイロ何枚張っても温まらなかった話。御産寸前の人を助けた話。流された話はつらくてここに書けない。児童の7割が流された大川小学校の話も。「まあ夢であればと思ったの」「映画見てるみたいだった」。ため息をつくばかりである。お風呂に入って寝る。

*丸森の友人宍戸克己さんは消防署の幹部で、何を聞いてもすぐ答えが返り、適切なアドバイスをしてくれ、必要なところにすぐ電話をかけてくれた。やっぱり火事場で鍛えた人は違う。私が文京区役所に電話してもそうだが、事務職の公務員は、私の部署の管轄ではありませんとたらい回し、責任をとらず、大過なく事なかれで勤め上げるという感じの人が多い。そう言うタイプは避難所などではまったく役に立たない、という話を多く聞いた。

震災日録 4月16日―――相馬、山元、新地、丸森

2011年4月20日 水曜日

きょうから3日間、東北へ絵本とマンガ、大人用の本を届けにいく。
朝6時に編集者の滝川修さんがハイエースを借りて、7時に家へきた。最後の石巻への雨合羽(光源寺さん経由)、『古着でも何でも持ってきて』という北上町(いまは石巻だが広域合併でなにがなにだかわからなくなっている)の熊谷さんの言葉に甘えての古着を一番奥へ。箱の胴体にどこからいただいて何が入っているか書いておいた。
うらうらした土曜。東北道を安全運転で行く。那須インターで妹分の早川真理ちゃんと合流。
彼女は運転はできるし、地図は読めるし、東北中の道路を知っているし、機転はきくし、体はよく動くし。那須町のしごとを始めて間もないのでお願いするのは申し訳なかったが、どうしても来てもらいたかった。彼女のお知り合いも被災地にいるし。

絵本やマンガを積んで出発

絵本やマンガを積んで出発

今回は東京ではほとんど報道されない北福島、南宮城を重点的にくばっていく方針。
といって突然持って行っても断られる場合もあるとか。
相馬は馬の関係で知り合った川嶋舟さん(中村神社)がつないでくれるはずだったが東北道が通行止めになり、来られなくなった。

*はまなす館(避難民450人)に社協の只野さんを訪ねる。
支援物資の段ボールがものすごい量積み上がっている。避難者のいるところはホールで暗い。ボランティアなのか、大勢の若者が出入りする。本を読むような情況ではないなあ、と思いつつ、段ボールで運ぶ。『あ、ジャンプだ』と叫ぶ子あり。

*旧相馬女子高校は南三陸町から避難された方。
二回のキッズルームに置く。しかしここも明日には閉鎖。廃校だからいてもいいのだが設備が古く耐震性に問題あるとか。家に帰る人、飯坂温泉に第二次避難をする人と分かれる。子供たちは小さな教室の中で落ち着いて遊んでいた。絵本を渡す。

*よく遊んだ海のほうも見たいと思う。おいしい魚料理のたこ八や斉春も「中が抜けて」いた。家財は波に流されてがらんどう。土地の人は『死んだ』『なくなった』と言う表現を使わず『流された』といっていた。サイディングの金属がはがれちぎれて風に吹かれている。なんというか、町にはってある「ピースボート」のチラシみたいに。

山元町辺り、海まで何もありません

山元町辺り、海まで何もありません

*宮城県山元中学校
ここは素晴らしかった。渡辺校長が修了式の終わった3月11日から避難民を受け入れ校長室に陣取って一度も家に帰らない。浜の方から全壊・半壊で避難して着た順に教室に入ったが、そこでコミュニティが生まれ、その29の室長会議、そのほかに10人のヘッドクオーターをつくり、すべて自主運営。避難者が掃除も炊事もしていた。なんかなごやかな雰囲気で、それぞれ笛や津軽三味線や民謡や、特技をもちより他の避難者を慰めたり、部屋ごとに夜はこれからの町づくりを話し合ったり、次ぎの避難も部屋ごと引っ越したいといっているという。
あたたかい雰囲気の校舎建築もいい関係を生むのに一役を買っている。これからは災害時の避難所を視野に入れて学校を設計するべきかもしれない。本はさっそく校長先生がきれいに本棚に並べてくれた。学校だから児童書はあるので、大人の人が見にきた。
山元もおいしいピザのパピハウスがあったあたりの松林なぎ倒された模様。

*新地町役場(福島県)
枇杷温灸に丸森から通っていた荒先生に再会。生死を分けたのは第六感だという。本能的な直感と言うべきか。逃げる方向の選択とか、車を棄てるタイミングとか。ここら辺のひとも原発関連で働くひとが前は多く、作業員の体も多く診たという。
荒先生の紹介で新地町役場へいくと、部屋一杯に服、靴、毛布、靴下、洗剤などならべられ、被災者は持って行っていいことになっていた。「これから本も喜ばれるわ」「『ジャンプ』は本屋さんになかなか入らないし」と職員が喜んで受け取ってくれる。
釣師浜へはちかづけず。ここ出身の遠藤新の木綿の家がどうなっているか、確認したかったが時間がない。

丸森境界の鹿狼の湯へ。いつもは6時過ぎると800円が600円になるのだが、いまは一律500円。サウナと露天風呂は壊れていた。でも温かい湯につかれるだけでありがたく、次々客が来る。自衛隊の人も泊まっている模様。車でたちより湯に来た自衛官もチャンと500円払っていた。こういうところは中国と違うな。中国は軍隊や警官など優先的にただ飯だ。「3月中はうちも被災者はただにしていたのですが、主人が議員なもので、売名行為だなんて言われて」と奥さん。

*丸森町筆甫中学校
廃校のあとに南相馬からの避難者100人以上がいる。きた日は250人ほどおり、雪で寒かったとか。3人の職員さんがついて自主運営。「食材の調達が大変でしたがやっと軌道に乗りました」。山奥の小さな集落に避難して心細いだろう。明るいニュースは小学生が7名この春、全校生徒16人の筆甫小学校にはいり、過疎の小学校がにぎやかになったこと。お風呂はあるが、町営国民宿舎あぶくま荘がただで入れ、送迎もある。「本がきたのね」と被災された女性が「手持ちのは読み飽きちゃった。あそこの本棚を持って来てならべましょう」といった。

夜8時すぎ、友人の菊地宅へ着く。玄関まで迎えに来たひろしさんが「上がって上がって! おそいよ。天ぷら冷めちゃったよ」と。菊地家のテーブルにはところ狭しと、焼き鳥、サラダ、牡蛎の串焼き、天ぷらが並び、ビールで再会を喜ぶ。被災地に来てこんなご馳走を食べてよいものか。きょうは泊めてもらう。「いいんだ、支援隊の後方支援ができるなら」としのぶさん。ひろしさんは鄙にはまれなレストラン・緑山のオーナーシェフ。震災以来のいろいろを話し続けるが、ドライバーのタッキーと真理ちゃんはこっくり、バタンキュー。10時半には蒲団にはいる。

*きょう感じたこと。支援物資は大きいところへどっと集まる。私たちもまず子どもがたくさんいるところへ、とむかった。800人いるところに送れば効果的、役に立つと思うのはまちがい。小さくても必要としているところへ、がいい。

*毎日必要なものが変わる、というのも目で見るとよくわかる。下着が足りない、送ってというと、どっと集まって余剰になる。これについてはhttp://fumbaro.org

*岩手県などボランティアを断っていてひどい、と思っていた。しかし受け入れ態勢のない所(地元職員が人を使いなれてない所)へ行くとボランティアはうろうろするばかりで、避難所の落ち着いた雰囲気をこわしかねない。きのう東京から来て、今日は海のほうを見て帰る、というボランティアもいた。そういうごく短気なボランティアをどう使えるかもわからないが。
何かすることはないか、という指示待ちでなく、さっさと瓦礫の中からお位牌やアルバムなど失われてはならない記憶を拾って保管・整理している若いボランティアがいる。あとで効いてくる作業だろう。

震災日録 4月15日

2011年4月20日 水曜日

今日は朝9時JR東日本に要望書を届けにいく。朝、ラッシュアワーに乗る。間引き運転だから混む。遅刻できないので新宿の本社前のスタバでコーヒー。道行く会社員はみんなマスク。終わってからこれからのことを相談。帰って賛同者への報告を書く。多児さんに送ってなおしてもらい、今日行った5人の名で賛同者にまわす。

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みなさま

本日朝9時、JR東日本へ「東京駅赤煉瓦駅舎の屋根のスレートについて」(おまわししたのと同じ文面です)という要望書を渡しに行って参りました。4月10日の呼びかけからほぼ5日間のあいだに3037名の方が賛同してくださり、その名簿をつけてお渡ししました。研究者、建築関係者、また登米や仙台の被災地の方々、広く全国のいろんな仕事をお持ちの方々がいます。24年前、駅舎保存の時に手書きで封書で署名を集めていたころを思うと夢のようです。みなさまの思いをお届けして参りました。

JR東日本では広報部、建設工事部、設備部、総務部のかたが丁寧に対応してくださいました。その中でいままでわからなかった工事の進捗情況がわかってきました。

*辰野金吾設計の大正三年の創建当時は雄勝産のスレートで葺かれていた。
*戦後、戦災からの復旧のさいは登米産のスレートで葺かれた。
(ここまでは既知)

*今回の修復ではできるだけ登米産のスレートは再利用する、足りない部分も雄勝産の国産スレートを使いたい、という方針だった。しかし雄勝は職人さんも少なくそれほど新材の量がみこめなかった。また三階やドームの復元などがあり、足りない部分はすでにスペイン産のものを発注してあった(線路側など見えない部分に使う)。
*登米産のスレートは一部、すでに南北ドーム下をそれで葺いてある。
*残りの登米産の使えるスレートが北上の熊谷産業で被災、雄勝天然スレートの新材も被災、どちらも人的被害がない、ということだけわかっ たがまだ現況がつかめていない。

「来週、現地を視察し、現況を確かめ、被災スレートのうち使えるもの は文化財保存の鉄則に従い使いたい」と確約してくださいました。ただし、「重要文化財であり、駅舎として活用する以上、海水に浸かったス レートの安全性などの検証が必要」とのこと。

この5日間にいろいろな専門家や文化庁なども働きかけてくださったと聞いています。JR東日本の方たちと忌憚ない意見を交換しました。わたしたちとしては 被災地を落胆させず、被災地を励ますための活動をJR東日本と協力して行いたい。スレート洗いのボランティア、被災地でスレート洗いの雇用を作り出すことはできないか。寺社で行われる瓦寄進のようなことが東京駅でもできないか。スレート一枚ずつに祈りやメッセージを書いて屋根に載せられないか。東北と東京を結ぶ玄関口である東京駅を東北復興のシンボルにしたい、そんなことを話し合い、なごやかなうちに会合は終わりました。

ともかく、「被災スレートをできるだけ使いたい」と確約いただけたのは、みなさまのお声のおおきな成果と考えます。これからJR東日 本の現況確認と調査の結果を待ちます。

募金したいという声も大きいのでとりあえず「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」のなかに「東京駅スレート屋根基金」をつくります。これは 被災スレートの救出、水洗い、使用へ向けての活動に限定して使います。
また文化財保存に不可欠なスレート産業の復興については可能性を探りつつ、新しいご提案をしたいと考えています。短期間に賛同署名を集めてくださったみなさま、本当にありがとうございました。

呼びかけ人
「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」
事務局長前野まさる 多児貞子、森まゆみ、山本玲子、椎原晶子

会社も家も流された茅葺き屋根工事熊谷産業はプレハブで再起。東京駅の屋根ためのスレートは最優先で拾い集めました。これは戦後の修復の際の登米産、最利用してほしいものです。

会社も家も流された茅葺き屋根工事熊谷産業はプレハブで再起。東京駅の屋根ためのスレートは最優先で拾い集めました。これは戦後の修復の際の登米産、最利用してほしいものです。

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ドロナワで荷物を作る。古着も顔の見える関係ならオーケーか。だいたい自分だって服を買わないのに新品を買ってまで送るということにちょっと抵抗がある。下着は買ったけど。クマちゃんは、いいよいいよ何でも持って来てというので、社員の顔を浮かべつつ、男物にアイロンをあてる。着る人の顔を思い浮かべるということは大切だ。このまえも靴下を持って来てと言ったらずいぶんストッキングが入っていた。避難所でストッキングがいるかいな。どんどん本が段ボールで届く。向うへ行って渡す簡単なメッセージを作る。

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「こどもたちに絵本とマンガを!」プロジェクト

このたびの東日本大震災にあわれたみなさま、心よりおみまい申し上げます。
避難所で電気や水道も不自由ななか、生活は大変なご苦労だと思います。
まずは食べもの、着るもの、ふとん、暖房などが大事だと思いますが、心の糧としての読書の時間も大切です。

お持ちのご本も波に流されてしまったかもしれません。
毎週、買っていたマンガが手に入らないかもしれません。
学校も図書室ごと津波にあったところもあると聞きました。

仙台に「少年ジャンプ」が一冊しか入らなかった日、150人で回し読みをしている
というニュースが東京に届きました。
集英社のある編集者が『ジャンプ』を被災地に届けたい、と思い立ちました。
それに知り合いの編集者たちが協力して絵本やマンガを集めました。
きょうお届けするのは本当に少ない量です。
でもすべて個人的な努力で集めたものです。
どうぞ皆さんで読んでください。楽しんでください。

みんな元気でね!

森まゆみ・早川真理・滝川修

協力者・倉沢紀久子・足立恵美・平田賢一・佐川祥子・熊倉沙希子・山本明子・山﨑旬・岩田一平・河合桃子・稲葉希巳江・横川浩子・川原理子

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現地の情報を集める。消防の先頭に立つ宍戸克己さんよりメール。

「おばんでございます。
ハウスの中で、いろいろな苗作りも始まっています。
神明社の桜もいつもと同じように膨らみ、16~18日には咲いていると思います。
ほっとはしますが、素直によろこべない気持ちです。

相馬市から亘理町までの状況をお知らせします。
相馬市は6号線の東にバイパスをつくったので、そこまでが浸水域。岩の子は広い田んぼに松の木が横たわっています。
ホテル飛天の西側、道路に横たわっている船をよけて松川浦に行くと、たこ八あたりまで被害が大きいです。
新地に行きますと、6号線の西側まで浸水し船があちこちに見えます。釣師浜は、家並みがほとんどないです。
宮城県に入り磯浜。ここも釣師浜同様家並みがないです。新地駅、坂元駅は跡形も無く、列車も大きく脱線しています。
亘理町荒浜の鳥の海荘あたりもさら地状態になっています。すごい惨状です。
丸森町の筆甫中学校も南相馬市の方々の避難所になっています。133人、内19人が小・中学生で丸森の学校に通うことになります。原発の影響は、とても大きいです。
角田・丸森は学校によって14か15日が入学式になります。
原発とモニタリングの状況が気になる毎日ですが、元気を出していきましょう」

何となく寝付かれずいろいろ気になって何度も起きる。なるようになるさ。

震災日録 4月14日

2011年4月18日 月曜日

きのう、4月2日の光源寺でのおにぎり作りの映像を見ていたら、まだ10日しかたっていないのに、世界は刻々動いてしまっている。あのころ関東圏の野菜が取りざたされたが、それから関心は福島市や飯館村の放射能の高い数値、海洋汚染と魚の安全性へとくるくる動いている。きょうは千葉県産のサンチュが話題だ。しかし出荷自粛と言ったって独自に計って基準以下のものを売るのがどうして悪いのだろう。

原発への不安は消えないが、ニュースでも比重は少なくなり、東京から避難しようという気持ちもなんとなく薄くなってきた。のど元すぎればなんとやら。水もマスクもどうでもよくなってしまった。人間は慣れるのだ。ニュースも「収束の目途たたず」のみで詳しいことを伝えなくなった。

おととい荒川さんに原子炉についてあれこれ教えてもらったが、だんだん吐き気がしてきて頭痛もひどい。なんで上の方に使用済み核燃料がおいてあったのか、危ないじゃないか、テロにでもあったらどうするんだ。全部ばれちゃったじゃない。かといって下に置いてあったら安全というわけでもない。どこかへ持っていくわけにはいかないの、あ、そうか、六ヶ所村は拒否してるんだ。窒素を入れて圧が高まらないのはどこかから漏れているんでしょ。セシウムもそこから漏れているわけ? なんてシロウト考えをぶつけてみるがいっこうにわからない。わからない技術で作った電力を使うのはいやだ。

鳴子・川渡温泉みやまの板垣さんから電話あり。「天罰だなんて言った石原慎太郎を都知事に四選するなんて東京都民はどうなってんの?」いわれると思ったよ。東京消防庁の活躍のおかげでしょうか。「結城登美雄さんはちょうどうちでインタビューを受けていた時に地震でよかったよ。移動中だったらあぶなかったしょ。結城さんは海辺の町も村も全部見て歩いて付き合いがあったから。ああいう人は大事だよ」
そういえば私も結城さんにくっついて唐桑に行ったことがある。あのとき、おじいちゃんに妙に気に入られて大きな石のついたおもちゃの指輪を「これ、おめにやる」ともらったものだ。あのおじいちゃんどうしたかな。みやまさんは「地震以来、客が来なくてね。すいてて何時でも泊まれるから来て」という。「あたしも講演はいくつもキャンセルだし、新聞の連載は紙が足りなくて始まらないの」というと、「そうか。東京も被災地だね」

4月2日(土)の報告

2011年4月15日 金曜日

4月2日に光源寺で作られたおにぎり(1220個)と支援物資(食料・衣料・長靴などトータルでダンボール37箱)は、大塚モスクで集められた支援物資とともに、同日夜(一部は翌日曜日)に出発し気仙沼に向かいました(山﨑範子)。

避難所となっている気仙沼中学校(約500人)では、調理はできないがお湯はあるということなのでおにぎりとカップラーメンなどを、気仙沼公民館(約300人)ではお湯も難しいということで、おにぎりと果物などをお渡ししました。

今回運んだ牛乳と果物は、避難所ではほとんど手に入らないということでとても喜ばれました。避難所の方たちのお話では、果物、野菜、牛乳、衣類、下着、靴などがとても不足しているということでした(大塚モスク)。

3月26日(土)の報告

2011年4月15日 金曜日

3月26日の「おにぎりにぎり隊」(とどなたか命名してくれました)、前日準備から最後の搬送、お掃除までのお手伝い、ありがとうございました。
37名にきていただいて、米60キロで1219個のおにぎりができあがりました。
光源寺さんには場所、道具、電気、水などの提供のほかに、助っ人用のトン汁と温野菜も用意していただきました。
おにぎりのほかにも、たくさんの方からいただいたたくさんの支援物資は、17時にすべて大塚モスクに届けました。
これらはジャパン・イスラミック・トラスト(日本イスラーム文化センター)マジスト(モスク)大塚の緊急支援物資とともに、車2台に積み込まれ、今晩のうちに被災地に向けて出発しました。(山﨑範子)

3月26日夜に出発しました支援物資輸送第7便についてご報告いたします。

今回は、ボランティアの方たちが作ってくださったおにぎり1219個をはじめ、たくさんのものを大型バン2台で運ぶことができました。運んだ物資は以下の通りです。衣類15箱、レインコート(12入)7箱、インスタントスープ10箱、お菓子類11箱、パン2箱、インスタントラーメン55箱、ジュース6箱、納豆8箱、砂糖・塩2箱、紙食器類3箱、衛生用品3箱、トイレットペーパー4箱、水タンク3個、電池・懐中電灯1箱、みかん30箱、りんご20箱、イチゴ10箱、キウイ5箱、バナナ5箱、きゅうり10箱、キャベツ10箱、レタス10箱、お米200kg、その他5箱。

以下は、輸送と配布に同行した方からの報告です。
今回は下記の2箇所で配布致しました。
気仙沼市立松岩公民館
気仙沼市役所唐桑町役場

松岩公民館は被災者約350名が避難する避難所で、唐桑町役場は唐桑地区の避難所11箇所で生活する755名および自宅で物資を必要とする住民に物資を配布する地区の災害本部です。
基本的には各施設に運んできた支援物資を均等に分けて配布しました。ただ松岩ではおにぎりが足りていると言うことで、おにぎりは全て唐桑に持っていきました。
また停電の続く唐桑地区へは、気仙沼市内のお店で懐中電灯や乾電池の在庫があると言うことで、LED懐中電灯20個および12本入り単4乾電池8パックを急遽購入して他の支援物資とともに届けました。(大塚モスクより)

おにぎりにぎり隊

2011年4月15日 金曜日

4月2日、大観音光源寺でのおにぎり造りの様子です。大塚モスク(ジャパン・イスラミック・トラスト)はアフガニスタンなど支援の経験から初動が早く、3月13日にはトルコNGOのメンバーと支援物資を仙台の被災者に届けました。それからもおにぎり造り、支援物資の要望を聞いて送るなど連日活動をしてきました。富士見坂など地域活動をご一緒した池本英子さんから要請があり、山﨑範子が呼びかけて3月26日、4月2日と向ヶ丘光源寺境内をお借りして谷根千地域の方々が集まり、二度の「おにぎりにぎり隊」と支援物資仕分け隊の活動が行われました。4月2日時点では関東の一部の県の野菜も品目によっては出荷停止になっていましたが、現在は解除されています。この活動にはイスラム教徒、仏教徒そのほかも協力参加していますが、宗教活動ではなくあくまで被災地支援活動です。

震災日誌 4月13日

2011年4月15日 金曜日

がんばる、という言葉は嫌いではない。頑張る、よりもっと好きなのは頬張る、かな。おいしいサンドイッチとかさ。でも「がんばれ東北」や「がんばろう、いわき」とあちこちで見かけると食傷気味。「もうこれ以上がんばれないよ」という人には「がんばらなくていいよ」といったほうがいいという。でも「がんばれ」も自粛したくはない。最近、がんばれそうな人には電話を切るとき「いっしょにがんばりましょう」といったり、それ以外の人には「お体お大事にね」といったりする。「踏ん張れ」とか「けっぱれ」もいいかな。

実は東京駅のスレート屋根の反響で忙殺されているのだが、それより以前、16日から18日まで東北に行くことにしていた。それは東京でほとんど報道されていない、福島北部から宮城南部の海沿いの町町へ絵本とマンガを届けにいくプロジェクトだ。

これは集英社の私の文庫を作ってくれている瀧川さんが「仙台にジャンプが一冊しか入らなくて150人ならんでる」というニュースに心を痛め、ジャンプを東北に持って行って届けたい、というきわめてシンプルな希望から始まった。

そこで親しい編集者たちに呼びかけたところ、ポプラ社の倉沢紀久子さんは「児童書ではないけど、避難所で読める気軽な小説とかエッセイ」を、平凡社の山本明子さんは「ちょうど別冊太陽で資料本で集めた絵本があるので」、佐川祥子さんは「福音館の勝尾さんと相談して子どもの本など」,朝日新聞出版の岩田一平さんは「科学読み物を送ります」、JTBの河合桃子さんは「旅行関係の楽しい本を一箱」,ヤマサキの息子メディアファクトリーの山﨑旬くんからも、亜紀書房の足立恵美さんからも、協力のメール。岩波の平田賢一さん経由で児童図書部の熊倉沙希子さんからも仲間で集めます、といってくれた。みな個人的な努力である。ありがたい。

社として、業界としてはそのうち大きな取り組みをされると思うが、できるだけ早く届けたい。同じ児童書でもマンガと学参と絵本と科学読み物では編集もまるでちがう仕事だと思うが、子どもに早く落ち着いた読書環境をという思いは同じだ。「ジャンプが届いたら、さぞうれしいでしょうね。毎週ジャンプを読んでいた子にとっては、ジャンプは平和な日常を象徴する、心安らぐものだと思います」という熊倉さんのメールはみんなの思いである。すでに避難所に読み聞かせなどにはいっている方々もいる。マレーシアから来た方は「どこへいってもお年寄りが話しかけてくる。みんなつらい話、経験したこと、これからのことを聞いて欲しがっている」という。そのうちお年寄りの話し相手になりにいきたい。今回は16日から18日の3日間の予定で、石巻の東京駅の屋根の現況も見てこなければならない。できれば女川原発周辺の方のはなしも聞きたい、いやいや欲張りすぎて虻蜂取らずにならないように。

地震以来、やけに白髪が増えた。むかし旧満州にいて、ソ連の兵士が家に入ってきたとたん髪の毛が逆立って、翌日全部白髪になった、と望月百合子さんに聞いたが、そんな感じかな。

震災日録 4月12日

2011年4月13日 水曜日

今年は花見をする暇も、気分でもない。自転車を走らせる間、お林稲荷のさくら、千駄木の郷のさくら、そして安田邸の見事なしだれ桜に見ほれ、心慰められる。

たれこめて 原発のゆくえもわかぬまに 待ちしさくらはうつろいにけり

先週サトコが夜中に帰ってきたので「おそいわね」といったら「仰木家で私の誕生日やってくれたの」という。「あら、まだ早いじゃない?」「何いってんの? もうとっくにおわっているよ」と娘の誕生日すら忘れていた。

きょう、原発はレベル7になった。チェルノブイリとおなじ。出ている放射能は10分の1とか、この期におよんでまだいっているが、1ヶ月で10分の1なら、これから1年出続ければ、同じ以上出るだろう。ニュースも基準値の10倍100倍でても「基準値以上」としかいわなくなった。

中国整体の先生は「原発どうしてる?」が挨拶。100万人いた中国人の7割は帰国したって。ぼくもこわいなーという。「日本はいいけど、中国で地震あっても義援金送っちゃだめ。みんな政府の人のものになっちゃうから」「日本の地震は唐山地震の360倍の大きさで3万人? 唐山は20万人。唐山で同じ地震が起きたら300万人くらい死んじゃうのかな」。予想がつかない。国連機関で働いていた人に聞いたら「現地に千円とどけようと思ったら1万円寄付しないと」。日本も同じではないかしら。

9日の鎌倉の大江健三郎さんの講演は桜井さんたちが行って撮った。10日の日比谷でもは荒川さんがとって来た。2500人に増えた。高円寺にはサトコ。2万人くらいきたって。映像ドキュメント「宇沢弘文と語る」いいですよ。必見。

「東電の供給する電気を使っていた私たちも同罪だ」という女性に映画会であった。違うと思う。毒入り餃子を買って食べた人が、それを作って売った人と同罪だなんてことはありえない。東電は営利会社で、できるだけコストを下げ、できるだけ株主にもうけさせるため住民や議員や心ある学者の疑問にこたえず、老朽原発を点検もせず使ってきた。電力という商品を多く売るため、オール電化住宅を奨励し、風呂でもトイレでも何でも電気なしでは使えないような仕組みを作り、消費者にこたえるといって夏のピーク時にあわせて原発をふやして電力を製造した。「電力供給」という言葉はまやかしだ。これでは「お客さまの要望に応えて」になってしまう。「電力濫造」とでもいったらいい。
きのうの株、出来高1位は東電、2位システムトラブルのみずほ、3位三菱UFJ 、4位原発製造の日立、5位おなじく東芝、むべなるかな。

震災日録 4月11日

2011年4月13日 水曜日

寄田さん曰く、「みんな理性で判断するから逃げられなくなる。感性で反応してヤバいと思ったら逃げるしかない」。さすが馬とおなじ動物的な本能を持つ寄田君。
でも北海道のサトコも一週間で、ニューヨークのヒロシも新学期なので、またみんなで東京へもどってきた。やっぱり二人をおいては逃げられないな。
今日本列島はねじれをなおすために身悶えしているのだろうか。余震が続く。
太平洋側が陥没した半面、粟島では海面が隆起して、岩が露出し、そこに白い塩が付いている。潮焼けというそうだ。

1時の船で岩船へ。本当は瀬波温泉あたりでもう一泊したかったが、東京駅のスレート瓦について呼びかけたところ、たいへんな反響になってしまった。かいつまんで申せば、

東京駅の復元工事に当たり、石巻の熊谷産業がスレート瓦は終戦後の修復の際の宮城県登米・雄勝産のものをていねいに外して使えるものを選んできれいにして60,000枚、いましも東京へ運ぶばかりになっていたところ、被災、津波で流され、それでも4万5,000枚は拾った。塩抜きをすれば使えるという。しかしこのまま行けば工事主体としては進捗上、津波に流された瓦を使わずにスペイン産の瓦を発注する計画とか。被災した企業を応援し、建築文化保存のためにも瓦募金をして、瓦一枚ずつに募金者のメッセージを書いてもらい、東京駅を東北復興のためのシンボルにできないか、という提案をした。これに対して大勢から返信がきた。そのいくつかを紹介したい。

東京駅にかぎらず、「復元」とは決して竣工時の姿に戻すことではなく(それはあり得ず)、竣工から今日に至るまでの歴史を見失ってはいけないと考えています。したがって、戦後のスレートを少しでも多く残すことはとても意義あることです。
(木下直之・東京大学文化資源学)

あの地域では天然スレート(粘板岩、地元では玄昌石といっていました)葺きの屋根の民家がよく見られましたし、屋根材に使った廃材でしょうか、釘の穴が開けられたスレートが北上川の河口部に流れ着いたものをたくさん見ました。今でも机の前にその時拾った玄昌石をおいてあり、それを見ながらこのメールを書いています。もし雄勝町のスレートが東京駅舎の屋根を葺くことになれば、その社会的な効果は被災した地元はもちろん、JRにとっても計り知れないと思います。(赤坂信・千葉大園芸学)

熊谷産業は、私の現場でもたびたびお世話になっています。強面風で優しすぎるお兄さんとか、素敵な人ばかりです。私の教え子も一時お世話になっていました。
署名人にはぜひ入れてください。(波多野純・日本工業大学建築史)

 いぜん雑誌で歴史建築の素材を訪ねて登米のスレートを取材したことがあり、「雄勝天然スレート」木村社長邸などを撮影しました。あの美しい建物や気仙沼大工の名作、登米尋常小学校や警察署が消えてしましまった事実も知らされおどろき、いま掲載誌の写真見ながら呆然としています。今回の趣旨に賛同します。(中川道夫・写真家)

歴史的建造物の修理修復では使えるものは徹底して使うのが鉄則です。
面倒だからそれをやめるというのは賛成できません。(西 和夫・神奈川大学名誉教授)

「赤れんがの東京駅を愛する市民の会」では要望書をつくり、有志と賛同者の名義で
JR東日本に持っていく予定。同時に塩抜きの方法に付いても専門家から意見が寄せられている。

瓦は、多孔質なので、表面を流しただけでは塩分が中に残ります。
ビニールプールのようなものに水を張り、どぶづけする必要があります。
泥をとり、できれば水は3回くらいは替えたあと、また流水で洗ってほしいです。
塩分量も全数でなくていいので、測りたいところです。(権上かおる・アグネ技術センター)

このことも検討する必要がある。
そんなこんなで1日も早く東京へ戻ることに。熊谷を過ぎたあたりで新幹線フリーズ。
余震で停電、そろそろ日も暮れる。あーあ。幸田露伴ではないが、「待つということは待つということだ」。前の席の人が握手を求めてきた。「森まゆみさんでしょう。よく読んでいますよ。しみじみと」こんなときは嬉しいものである。運のいいことに新幹線は20分遅れで走り出す。車内アナウンスも落ち着いて的確だった。これもJR東日本。3号車を喫煙車にしてなおかつ車内を無線LANにしているJR東海よりも全席禁煙のJR東日本はずっと好きだ。