2012年2月 のアーカイブ

震災日録 1月28日 どこに住むかという話

2012年2月2日 木曜日

またよしなしごとをはなし、美由紀さんは私の健康のためのしょうが紅茶にハチミツ胡麻ペーストの朝ご飯を作ってくれた。それからお風呂に入って、物件を観に行く。様々な理由で由布院にアトリエやギャラリー、別荘を持ったひとも、また様々な理由で去っていく。だからいつもたてものの売り買いがあるのは東京と同じ。しかし福一の状況如何によっては私も東京を離れざるをえないかもしれず、先に出た人に学ぶことは多い。由布院へも関東からの避難者はけっこういて、すでにチラシを配り、太極拳やバレーを教えている人もいる。手に職とはよくいったもので、どこに行っても食べて行けるスキルを持つことは重要。由布院もいいけどわたしは……やっぱり南の海沿いがいい。高知か沖縄、竹富、知り合いが1人もいないところはつらいし。いずれにせよ、竹富なら台湾の核燃料のゴミの島が近くにあり、九州でも川内、玄海、伊方が近い。関西だと福井の老朽原発、日本中安全なところはない。昼は中谷健太郎さんと後藤千香子さんたちと会う。すでに動いている原発は3基。

震災日録 1月27日 由布院の再会

2012年2月2日 木曜日

大学入試の会議が急に入った藤原さんと別れ、基山インターから由布院行きの高速バスに乗る。2時駅前につく。お風呂に入るか、ランチを食べるか迷う。結局、タマゴ丼を食べて友人美由紀さんと一年ぶり再会。彼女は電磁波にも敏感なので。福一水素爆発後の関東にいられなくて由布院に引っ越した。そのおうちに泊めてもらう。よしなしごとを語るうち、夕方になり、家の温泉で温まって、和田さんの家で中曽根さん、赤坂さん、平野さんらと鍋を囲む。全員、由布院への移住者だ。リタイアしたあとの人もいるし、いろんな仕事を見つけている人もいるが、由布院は温泉あり、厚生年金病院あり(その存続には私も署名した)、食べ物屋さんも多く、暮らすにはなかなかいいところ。やや朝霧に見られるように湿度が高いのが玉にきず、かな。高原なので冬はかなり寒い。でもいろんな人と出会え、直ぐに友だちになれるいいところ。パソコンを持って行ったので2月3、4に地質学者の方たちが八ッ場ダムを視察に行ってくださるというありがたい話のスケジュール調整。

震災日録 1月26日 星野村で星を見る

2012年2月2日 木曜日

ゆっくり星野村に向う。福田さんという九大の若い音楽の先生と。民俗芸能が専門だが、お母さんの実家が小千谷の星野家だとか。菊池氏も悲劇の離散をしたが、星野氏も南朝方について、戦闘に破れ、星野村には残れなかった。野球の星野仙一氏もこの末裔とか。調(しらべ)と名を替えた人もいる。原発以外にも心ならずも故郷を捨てなくてはならないひとは昔からいたのだなあ。全国の星野氏はいまも懐良親王の法事には全国から集まるという。うちの母方橘樹も嘘かホントか楠木正成の子孫というから、にわかに後醍醐天皇や小島高徳の故事に想いを馳せる。木工の西岡泰心、陶芸の山本源太の両氏を訪ね、山里での精進に打たれる。星野村は玉露の故郷でしずく茶なるおいしい飲み方を教わる。きららというよくできた村営ホテルに泊まる。空は満天の星。日本でもっとも美しい村連合にはいっている星野村。つまり開発にまかせず、美しい風景や昔ながらの暮らし、産業を大事にしているのだけど、飯館村もそのひとつだったのを思い出す。

震災日録 1月25日 亀卜神事

2012年2月2日 木曜日

きょうも鍵本さんと役場の方が運転してくださって、対馬の文化財をめぐる。天道法師という人のお母さんをまつった神社、法師の神社、いずこも椎の巨木がはえ、原生林の中を歩いて、気候のよい頃はさぞ気持ち良いことだろう。お日様から光が射してお母さんは法師を受胎したという。対馬は平地が少なく、海まで崖が迫る。一筋の道路からあばら骨のように集落へ至る道があり、その地名がおもしろい。本当に古いものが多い島である。離島振興法でここもまた公共事業が主な仕事になってはいるが、崖を削り浜を壊すような公共工事はなるべくしないで、文化を保護し、それが見学客を呼び込むようなしかけはできないか。すくなくとも見学してまわるには公衆トイレや休憩所は不足しているようだ。観光化すると団体客用の大きな景観を害するトイレなど造りがちであるが、そういうのでなくささやかで清潔なトイレはもうすこしあちこちにほしい。厳寒のなか見学した感想だ。昼過ぎに亀卜神事という古代からのめずらしい行事があるので見学に行く。なかなか始まらずたき火を囲んで男たちが魚の値段など話している。土地の言葉でほとんどわからず。ようやくお宮に魚が供えられ、ろうそくがつき、亀の甲らに金火箸があてられた。農業も漁業も吉、地震もなし、「関東地震多し」の字句にぞっとする。宮本常一が滞在した集落や大関対馬洋(つしまなだ)の墓にお詣り。かれは相撲取りをやめたあと、故郷に帰って区長をつとめたという。夜の便で福岡に帰る。

震災日録 1月24日 対馬へ

2012年2月2日 木曜日

朝の便で対馬に。空港に6年前、いっしょに釜山を旅した鍵本さんが来てくれて、藤原恵洋さんが会議のあいだ、私と馨さんを案内してくれた。対馬の宗家文書をおさめる長崎県立の博物館をつくるのでその委員会が開かれるのである。鍵本さんはいま観光ボランティアガイドを育てるしごともしているので案内はお手の物だった。
対馬は日本と韓国の間にあり、大陸の文化はこの島を通じてもたらされた。仏教もここを通り、遣唐使も朝鮮通信使もここを通った。そのためスエズ運河じゃないが島の一番狭い所を切って舟を通したり、大船越といっていったん地上に上がり、舟ごと、あるいは荷物を運んでまた入江から舟に積み替えたり、その場所の風景がすばらしい。
新羅仏、高麗仏なども多くあるが、あまり注目されていず、ときには盗まれて韓国にわたり文化財指定されたものもあるらしい。東京の寺とちがい、アパートや駐車場経営でもうけるわけにも行かず、寺の住職は仕事を持ち、あるいは清貧の暮らしに甘んじているようだった。誕生仏や仏典の版木などもある。半井桃水の最初の妻元子の墓をふたたびお参りする。結婚してしばらくして明治14年になくなり、一葉が桃水にあったのはその10年ほどのちのこと。二人が結ばれなかったのは桃水が美しかった先妻に心を残していたからだという説もある。また一葉が24歳でなくなったずっとのちに桃水は大浦若枝という人と再婚する。この人は芸事の師匠で、演芸批評を書いていた桃水に近いのかと思って居たが、若枝もまた対馬藩士の娘だと言うことだった。鍵本さんは「桃水は春香伝を最初に訳したひとですし、征韓論の時代に韓国とは平等互恵の関係を結ぶべきだといっています。明治新政府でも対馬藩が日韓外交を担ったら日韓併合以降の悲劇は生まれなかったのではないでしょうか」という。賛成。桃水は「胡砂吹く風」なる韓国の王朝を舞台にした英雄小説を書いており、イ・サンではないがテレビドラマにすればいいのにな。さいごに済州島の4.3事件で漂着した100人を超える遺体を埋葬した墓に詣で胸がつぶれた。朝鮮戦争の頃だから私の生まれる前、しかし鎖につながれた女子ども、なかには細面のきれいな人もいたと、当時を知る人は言っているという。
ともかく流れ着いた犠牲者に対馬の人々は驚いたであろうが、ちゃんと慰霊の墓をつくってくださった。そのことに感謝する。海で流されたひとのことがどうしても東北と重なってしまう。

震災日録 1月23日 竜門ダム

2012年2月2日 木曜日

竜門ダムを観に行く。このダムは下流の洪水調節と農業用水には役立っているという。また湖面を利用してボートレースなどを行って人がよく来ているとのこと。川辺川ダムは熊本でもかなり南の五木村。ダムを止めたのはいまの蒲島知事より、前の女性の知事の粘り強い活動に寄るところが大きいとか。案内してくれた宝来館のご主人は市議で南相馬に支援に行ったらしいが、支援物資の箱を開ける係で、よくこんなもの送ってくるな、と開けるたびに怒りを感じたという。
去年訪ねた安全な食材を売る久保酒屋さんのお母さんが、もう住まなくなった山里の実家を改装してレストランを始めた。すっきりしたインテリアで野菜料理がたいへんおいしい。藤田洋三さんの『世間遺産』のはなしを聞きながら旅をした。動体視力がものすごく、あそこの蔵のこて絵がすごそうだからちょっと止まって、といっておかげで面白いものがたくさん見られた。藤田さんと福岡の石風社を訪ねる。ペシャワール会の事務局も引き受け、中村哲先生を支えておられることに感謝する。活動には3・11以降も着実に募金が集まっているそうだ。

震災日録 1月22日 菊池の人々

2012年2月2日 木曜日

朝の便で熊本へ。去年、3・11の直後、12日に私は午後の便をどうにかおさえて九州に飛んだのだった。それで友人の藤原さん宅に一泊して、翌日菊池のシンポジウムにむかったのだ。去年あった人々と再会を祝し、この一年に見てきたことを話す。東京の中心部で飲食の店をしていたが、子どものために原発避難をして東京の子供を持つ家庭のために九州の食材を送るしごとを始めた女性も来て熱心に発言していた。立ち上がる人はどんな状況でも立ち上がり新しい生き方ができるものだな、と感心。
菊池はその昔、南朝方についてこの地に都を樹立した菊池氏の古郷。肌がつるつるになる温泉も湧き、食材もたくさんある豊かな土地だ。将軍木という木があってそれにお見せする能楽があるという文化水準も高い土地である。宴会のあとに熊本ラーメンを食べにいった。この土地からも奥さんと二人で運転を代わりながら陸前高田まで支援物資を届けにいった話を聞いてありがたいと思った。

震災日録 1月21日 ふくの湯、新装なる

2012年2月2日 木曜日

あしたから九州。今日中にしなくてはいけないこと多し。動坂の歯医者さんにいって、かえりに動坂食堂でこの間食べたかったヒレカツ定食を食べて、常連の町のおじさんおばさんの楽しそうな様子を見て、帰りに新装になったふくの湯にはいって来た。すごくきれい。昔の体重計があってうれしい。がんばっている銭湯を応援しましょう。営業時間もうんと長くなったことだし。それにしてもみぞれで寒い。

震災日録 1月20日 ダルビッシュ投手

2012年2月2日 木曜日

ゆっくり朝ご飯を食べて、帰ろうとしたら草津は雪で線路内に倒木あり、こない。高崎からは人身事故で普通。前橋から車できた渡辺さんにのせてもらう。けがの功名で雪の一号橋を見て、かえり水沢うどんを食べ、前橋では原沢屋の焼きまんじゅうを食べ、高崎から新幹線で帰った。3時間遅れたが充実した一日だった。でもダム賛成の地元民もおおいなか緊張していたのか、へとへと。11時、帰って来たこどもたちと放射能汚染の情報交換、二人とも東京に住む気はない、という。1人ニューヨーク、1人沖縄、1人滋賀ということになるのかな。私は東京を拠点に半年は旅して暮らす。それもよい。
ダルビッシュ投手が契約したことをNHKは朝、ニュース速報で伝え、その2分後のニュースでもトップだったって。バカにもほどがある。こんなにみんな金も職もなくて苦しんでいるのに。仕事がない人にとって5年で62億もらう男はどううつるのか。いくらなんでも夢はもらえない。私は年金6万円で暮らすことを考えているな。

震災日録 1月19日 湯かけ祭り

2012年2月2日 木曜日

昼の特急草津で川原湯温泉に。上野駅の常磐、信越本線には改札をはいったところに待合室がない。駅には30分前に着いたが喫茶店のコーヒーが450円と高い。中のホームにやっと待合室あり、それはサイン計画が悪いのでわからない。常磐線特急は新しい車両、草津は老朽車両、12時に一緒に走り出す。しかも指定席の方が改札からずっと遠い。事前に指定席を買ったが自由席に乗った。がらがら。ついでにいうとJR の窓口の若い女性はテキパキして接客態度もいいが、おじさんたちは切符を出すのも遅いし、無愛想。
2時半川原湯温泉着。降りたのは3人。第二湖面橋の高い橋脚がにょっきり。景観がどんどん変わって行く。本体にはまだ手を付けていないが付け替え国道の工事はどんどん進んでいる。かたかたかたかたかた、という啄木鳥みたいな音はエコ工事だそうな。それでも一日鳴っている音。川原湯温泉はもう数軒しかない。地元の生活再建といっても残ったのは少数、大事なことだが、彼らのために不必要な巨大工事を続行するというのは単なるいいわけ。ダムができると思って引っ越した人たちのために続行するというのもおかしい。住民がおじさんがダムの仕事もらっているから反対できないというのもおかしい。でもそんなおかしなことばかりが積み重なって自民党の政治家や官僚のいいなりになって計画は60年近くまえからあり、その割に進まなかった。小さく産んで大きく育てる、2400億の予算が1兆円を超える。引き返せない、まるでインパール作戦みたい。
いまの高山町長のお父さんは器用な人で、頭の方も小回りがきいて推進に鞍替えした。山木館の奥さんのお父さんが反対派だったのに、町長になったら県や官僚と話し合わないわけにもいかず、苦渋の末に賛成に転じた。能登半島志賀原発の反対派がいっていたように交渉のテーブルに着いたら負ける。あの手この手で懐柔してくるのだから。犬でもけしかけておくことだ。遊覧船に乗せて沈めてやると官僚を脅すことだ。海洋調査なんて認めたら「まったく影響がない」というお墨付きを御用学者が出すに決まっているのだから。反対しようと思ったら議員や町長になってはいけない。
あちこちに旅館の残骸。高田屋さんをこわしたあと。いまは柏屋さんをこわしている。
さっそく透明な湯に入り、温まる。それから共同浴場王湯のあたりで祭の準備を見て、また露天風呂につかる。うたた寝しながら相撲を見る。白鵬が負けた。びっくり。
6時にご飯、それから住民のはなしを聞く。テレビでダム再開に万歳していたのは地権者たち。うんとお金が入るもんな。崖地は5000円、道に面した一等地は十数万、しかし売って代替地に上がるとすると坪18万で買わなくてはならない。無理して造成した土地だからそれでも赤字だそうだけど。坪18万出せば前橋駅前の一等地が買えるという。そんなにしても川原湯に残りたいのか、ノマドの私にはわからない。でもみんな不安は持っているもよう。宿のご主人と一杯。「昔はよかったなあ、きれいどころが30人もいて、みんな話や座持ちのうまい芸者ばかりだった。嘉納治五郎の別荘をこわしたのは残念だったよ。あのまわりに置屋があって芸者さんが住んでいた。この物置のようなバーだって3人も女性を雇っていたんですよ」
12時にお開き、ちょっと寝るともう湯かけ祭り。雪がふってきれい、でも足は滑る。
「お湯わいた」が「お祝いだ」に通ずる。大寒の日に400年も続く祭り。わが娘も胸にさらしを巻き、女性としてはただ1人、桶にお湯を汲んではみんなにぶっかける。あったかいみかんも飛んでくる。びしょびしょになって、芯から凍えて終わる前に宿に帰り、温泉に浸かって仮眠した。