震災日録 1月24日 対馬へ

朝の便で対馬に。空港に6年前、いっしょに釜山を旅した鍵本さんが来てくれて、藤原恵洋さんが会議のあいだ、私と馨さんを案内してくれた。対馬の宗家文書をおさめる長崎県立の博物館をつくるのでその委員会が開かれるのである。鍵本さんはいま観光ボランティアガイドを育てるしごともしているので案内はお手の物だった。
対馬は日本と韓国の間にあり、大陸の文化はこの島を通じてもたらされた。仏教もここを通り、遣唐使も朝鮮通信使もここを通った。そのためスエズ運河じゃないが島の一番狭い所を切って舟を通したり、大船越といっていったん地上に上がり、舟ごと、あるいは荷物を運んでまた入江から舟に積み替えたり、その場所の風景がすばらしい。
新羅仏、高麗仏なども多くあるが、あまり注目されていず、ときには盗まれて韓国にわたり文化財指定されたものもあるらしい。東京の寺とちがい、アパートや駐車場経営でもうけるわけにも行かず、寺の住職は仕事を持ち、あるいは清貧の暮らしに甘んじているようだった。誕生仏や仏典の版木などもある。半井桃水の最初の妻元子の墓をふたたびお参りする。結婚してしばらくして明治14年になくなり、一葉が桃水にあったのはその10年ほどのちのこと。二人が結ばれなかったのは桃水が美しかった先妻に心を残していたからだという説もある。また一葉が24歳でなくなったずっとのちに桃水は大浦若枝という人と再婚する。この人は芸事の師匠で、演芸批評を書いていた桃水に近いのかと思って居たが、若枝もまた対馬藩士の娘だと言うことだった。鍵本さんは「桃水は春香伝を最初に訳したひとですし、征韓論の時代に韓国とは平等互恵の関係を結ぶべきだといっています。明治新政府でも対馬藩が日韓外交を担ったら日韓併合以降の悲劇は生まれなかったのではないでしょうか」という。賛成。桃水は「胡砂吹く風」なる韓国の王朝を舞台にした英雄小説を書いており、イ・サンではないがテレビドラマにすればいいのにな。さいごに済州島の4.3事件で漂着した100人を超える遺体を埋葬した墓に詣で胸がつぶれた。朝鮮戦争の頃だから私の生まれる前、しかし鎖につながれた女子ども、なかには細面のきれいな人もいたと、当時を知る人は言っているという。
ともかく流れ着いた犠牲者に対馬の人々は驚いたであろうが、ちゃんと慰霊の墓をつくってくださった。そのことに感謝する。海で流されたひとのことがどうしても東北と重なってしまう。