2011年8月 のアーカイブ

震災日録 8月3日 谷中防災コミュニティセンター

2011年8月25日 木曜日

コミュニティセンターにて第二回防災センターを考える会。詳細は震災字報にて。計画についてよくわからないし、話し合いの会も誘われない、という人がこんなに多い以上、形式的手続は踏んでいると言っても強行するとあとに禍根を残すのでは。

震災日録 8月1日 海を前に本を読む

2011年8月25日 木曜日

千葉なみはな荘で鈴木淳『関東大震災』、林えり子『東京っ子言葉』、平山盧江『東京おぼえ帳』などを読む。御宿の海岸は例年より少ないと海の家のおじさんが嘆いていた。波大きく、サーファーはまだしもジェットつきの乗り物で我が物顔に走り回る男あり、監視員が注意してもやめない。音だけでも腹が立つし、幼児もぷかぷかやっているのに。逮捕する法律はないのかとおもう。

震災日録 8月1日 千葉のダッシュ村

2011年8月5日 金曜日

朝、一仕事終え、千葉の新倹見川へ。ここに保育園のおや仲間から発祥した「おとなのダッシュ村」。ここをつくったメンバーの1人佐々木夫妻とはモンゴルやタイの奥地を旅した仲で混ぜてもらった。まず冬に仕込んだおみそを返し、畑の雑草を取りながらトマトをいくつも食べた。いよいよ葡萄棚のしたで誰かがお土産に買ってきたジンギス汗鍋。そうか先に野菜をのせ、その上でラムを蒸し焼きすれば焦げないか。ビールを飲み、焼酎に替え、なんだかイタリア映画の農家みたいだ。

ここの方たちはみな機械や道具、建築や配管につよい。口より体の動く人たち。飲んでいない二人が運転して二台でわが大原の家まで行った。築30年の保存のため引き継いだ家だが壁のしみ、換気、タイルのざらざら、伸びすぎた木、そのほかいろいろ直すべきことをアドバイスしてもらい、この次みんなで来てくれるとか。わたしは魚やでヒラメやタコをかってカルパッチョでも作ってワインとチーズを出せばいいらしい。もう50すぎばかりだからいいんだ。海を眺めながらベランダで飲みましょうね。

震災日録 7月30日

2011年8月5日 金曜日

かなり人も増えてきたので昼過ぎの特急で帰る。八ヶ岳と南アルプスを久しぶりに見た。聞いた話、3・11のとき、文京区のある小学校に近隣の会社の人や学生が一時避難したら、「ここは町会の避難所なので、町会に入っていない人はいれない」と追い出されたとか。ひどい話だ。町会単位の避難所という考え方はすでに加入率がこれだけ少ないいま、崩壊している。町会を中心とした、ならまだわかるが。災害の時は町会も何もない。もしかして町会員じゃなければ乾パンは配らない、水も飲ませない、毛布も分けないなんてことにならないか。いまから心配。地域の小権力というものは厄介だ。

合宿先で27日、東大アイソトープセンター長、児玉龍彦さんが厚生労働委員会で参考人として発言したのを聞けなかった。かえって東京新聞ですら7・28日付でのせていないのを知る。彼は医師で内部被曝の専門家で、内閣の抗体医薬品の責任者も務めている人だ。何度もユーチューブで見た。まとめるとこういうことだ。

3・15日に100キロ圏の東海村で5mSvを観測して驚愕した。枝野官房長官が「さしあたり健康に問題はない」と言ったが大変なことになると思った。200キロ圏で0・5mSv、足柄から静岡のお茶まで汚染された。

しかし政府は放射線の総量をまったく報告していない。我々が計算すると広島原爆の29.6個分の熱量、ウラン換算では20個分が出ている。しかもおそるべきことに放射線の残存量は原爆は1年後に1000分の1になるが、原発は10分の1にしかならない。つまり今回のフクシマは原爆数十個分にあたり、ずっと大量の残存物を出した。

稲わらについて農林省が通達を出した3・19日には食糧も水もガソリンもつきかけた時点で、そんな通達一枚出したって情報は農家に届かないし、何もできない。それでも農家は外国から飼料を買って、のませる水も地下水に変えている。

測量が細かくできなくてはいけないのに、南相馬には1台しかなかった。米軍から20台来たけれど市役所の教育委員会では英文の説明書がわからなかった。そんな状態。食品検査を含めてなぜなぜ測定器を全国に行き渡らせるためにお金を使わないのか。まったく行われていないことに、私は満身の怒りを表明します。

私の仕事は抗体医薬品にアイソトープをつけて人体に埋め込みガン治療をする。だから内部被曝については必死に研究している。DNAは二重らせんで安定しているが、細胞分裂する時は一本になり、そこに放射線が当たると切れ、ガンに変異しやすい。胎児や幼児、成長期の増殖のさかんな細胞に対して大変な危険がある。おとなに於いては髪の毛、貧血、腸管上皮など増殖の盛んな細胞に影響する。

プルトニウムを飲んでも大丈夫と言う東大教授がいると聞いてびっくりした。α線はもっとも危険で、トロトラストと言って肝臓に集まり肝臓がんをおこす。セシウムは尿管上皮、膀胱へ集まる。ヨウ素はよく知られているように甲状腺に集まり、がんを引き起こす。しかしウクライナで甲状腺がんが多発した時にも日本やアメリカの研究者は「ネイチャー」誌に1986年以前のデータがないので統計的に有為ではないから因果関係はわからない、と投稿している。20年経ってようやく86年からのピークが消えたためにエビデンスになった。疫学的な証明は難しい。

つまり子どもを守るためには別のやり方が必要だ。すでに福島の母親の母乳から2~13ベクレル検出されていて、これにも愕然とした。20キロ圏とか30キロ圏とかいう区分けは、まったく意味がない。南相馬の海側は比較的線量は低いが、ここから飯館村に近いほうに子どもたちがスクールバスで毎日移動させられている。こんな事態は一刻も早くやめさせてください。海江田経産相と東電の清水前社長は強制避難でないと補償しないといったが、これと子どもの安全の問題はただちにわけて考えてください。

緊急避難的除染は我々も早くからやってきた。それと恒久的除染は分けるべきだ。すべり台の下はすべり台から雨水が落ちて濃縮する。10msvでてしまう。雨樋の下に苔が生えているところなども高圧洗浄機で苔をはらうと2が0・5まで下がる。こうした緊急避難的な除染は効果的で必要だ。しかしカドミウム汚染地区3000ヘクタールの半分を除染刷るのに8000億かかっている。この1000倍の土地の除染となればどのくらいの国費が必要か。

1、最新鋭の機器をつかって食品、土壌、水の汚染を改善すること。

2、子どもの被曝を減少させるために新しい法律をつくること。このままでは研究機関は法律で手足を縛られ何もできない。今われわれのやっていることはみな法律違反。

3、東レ、栗田、千代田テクノ、アトックス、竹中、それぞれの専門とノウハウを持つ民間の力を結集して国策として土壌汚染を勧めること。このままでいくと利権がらみの公共事業になりかねない。

7万人のひとが自宅を離れて彷徨っている時に国会は何をしているのですか?

東大にもまともな研究者がいた、という驚きから「涙」「感動」といった反響が多いが、人に感動している場合ではない。いっている中身をきちんと把握しなければ。

放射線治療で髪の毛が抜ける理由がよくわかった。またきのう母と「どうして原爆が落ちた後の放射線にまみれた町がこんなに復興できたんだろうね」と話し合ったのだが、児玉氏によればゲンパツの方が原爆よりはるかに放射性物質の残存率が高いのだ。

しかし福島を全て除染する費用は天文学的であろうし、除染が先か、避難が先かという問題は残っている。

震災日録 7月29日

2011年8月5日 金曜日

今日は中村さんの運転で、最初、富士見町の百合の里にいったらなんとロープウェイこみ1700円もかかるのでやめる。信州はこういうバカ高い観光施設やわけのわからない美術館が多いとこ。それで白樺湖へはしる。昔通りのちまちました偽スイスみたいな建物の多い景色。湖畔でそばを食べる。これまた信州そばとの幟に引かれたものの、いっぺんに6玉ゆでたのだろう、粉っぽくて歯ごたえもなく、つゆの味もいまいち。温泉は「眼下に白樺湖が見える」はずだったが、女湯はのぞき防止か、窓ガラスにフィルムがはってあり、露天の方も木枠で見えないようにしてあった、がっかり。東北でたちより湯300円に慣れているので信州の700円は高いと思う。しかし霧ヶ峰まであがったら日光キスゲの大群落をタダで見せてくれたのでうれしい。反対側には何もないので、これも人為的に植えているのかと思ったら、そうではなく、ないところのはみんな鹿が食べちゃったのだそうな。道理で妙な線が張ってあると思った。立ち入り禁止ではなく、電気入りの鹿防止冊なのだった。むかしなつかしいコロボックルヒュッテ、さらに八島湿原ちかくのクヌルプもまだやっているようだった。出ていらした御主人はわが20代の頃すでに50くらいだったからかなりのお年になられたであろう。それこそヘッセかシュトルムの小説にでてくるように深く遠くを見るまなざしなのであった。

震災日録 7月28日

2011年8月5日 金曜日

信濃境、小淵沢あたりにはくわしくない。きょうはサントリーの白州工場を見学して、ただでウイスキーの試飲をさせてもらい、ソーセージ屋さんでランチを食べ、近くの温泉に行って、道の駅で買物して夜に来る人に備えた。夜遅く、中村さんがおいしいビールを持ってやってきた。この仲間はパンを焼くひと、珈琲を入れるひと、大勢の料理を作るひとがいていい。何もしない人もいていい。八ヶ岳の山が青い。夕闇近くそれが黒くなる。今日は行ったお湯は、「高濃度天然温泉」だそうで、含まれているのはストロンチウム、そのほか。高濃度に反応してしまう自分。「飛び散る」も嫌なイメージになった。明治メルティってチョコレートがあったがメルトはもうごめん。

震災日録 7月27日 はじめての信濃境

2011年8月5日 金曜日

初めての信濃境。そこの広い家を借り切って毎夏、ヤマサキを中心に谷根千夏合宿のようなことをしているのだが10年来、行ったことがなかった。小島政二郎が「眼中の人」に書いているように、下町育ちは気い使いなので、人の多いところに行くと気ばかりつかって疲れるから。この件、四半世紀、ヤマサキをうらやましがってきたこと。

彼女は気を使わず体を使って、結局は人が気を使わなくてすむ空間を作ってしまうのだ。最初の日は十人くらいで静かだった。ゆっくり話せた。

震災日録 7月26日

2011年8月5日 金曜日

「おたがいさま」という本をポプラ社から出しました。宣伝させてください。この10年くらいに書いた提言型のエッセイを集めました。町で楽しく暮らすためのアイテム、銭湯、居酒屋、子育て、介護、折々に感じたこと、時々怒ったこと、千駄木在住の倉沢紀久子さんが編集してくれました。タイトルは「おたがいさま」。これは去年のうちから決まっていた。こどものころから毎日きかされていたのは「おたがいさま」と「もったいない」。でも後者はノーベル平和賞受賞者マータイさんが自分の名前の発音にも似ていると広めてくれたから、私は「おたがいさま」をはやらせたい。そしたら3・11がおこり、今出すにはタイムリーすぎる題だな、とおもいましたが。意外に「きずな」「たすけあい」「がんばれ」「つながる」などは多用されたが「おたがいさま」は聞かれなかった。きのう水道橋のエレベーターでの会話。「押すなよ」と50代くらいの男性。「俺も押されてんだよ。おたがいさまなんだから、そうおこらないでよ」と70代くらいの男性。周りにいた女性陣、にこにこ。この前は人数オーバーで降りた若い女性におじいさんが「ごめんね、ごめんね、次のに乗ってね」と声をかけ、みんなにこにこ。死んだふりして押し合うよりは声をかけるとそこに「おたがいさま」の共同体が生まれる。そう、おもいませんか? 往来堂書店はじめ地域の書店で、絶賛されずに発売中。1400円。

震災日録 7月25日

2011年8月5日 金曜日

若い人の意見。「僕は40歳以上の人は信じない。彼らは既得権益者だから。あなたは国民年金はもらえるでしょう。でも僕の年代はもらえない。だから払っていない。税金を払うほど収入はない。NHKなんか払ったことはない。テレビはあるけど見るにたる番組はないから。けっこうこたえるのはガスと水道、電気。まるで資本主義社会の外に暮らそうというのは無理。でもできるだけそうしたいと思っている」こんな人がふえているような。「うちなんかチャンと就職する気がなくて、フリーターみたいなもんだから」「でも働く気があるだけマシよ。うちなんか引きこもって部屋から出てこない、羨ましいわ」という会話も増えてきたような。

震災日録 7月23日 蔵の映画祭

2011年8月5日 金曜日

「核とわたしと原子力」を蔵で見る。「あしたが消える」―原発で働いていた父が骨ガンで亡くなった。主婦のモノローグで被曝労働や原発事故について明らかにして行く。1989年に「原発を考える映画人の会」というのがあって、こんな映画を撮っていたとは。

夕方の部は土本典昭「原発切り抜き帖」。1982年といえばチェルノブイリ以前である。水俣に心を寄せた土本さんの感受性、小沢昭一さんの語りでスクラップブックだけで一本の映画ができてしまう。同じ年、カナダ政府は医学博士へレン・カルディコットの講演を映像で撮った。クールな語り口で核兵器のこわさを語り尽くす。ほかにも原発がいかに導入されたか、解体はいかに難しいかなどの映像あり。

それにしても荒川俊児さんや吉川繋さんは本当に昔から核や原子力の危険を訴えていたんだなあ。あらためて尊敬。「ドキュメント・チェルノブイリ」高木仁三郎さん解説はDVD発売中。1200円。