2011年6月 のアーカイブ

震災日録 6月12日 睦奥宗光とちりめん本

2011年6月20日 月曜日

日曜日、根岸小学校に明治10年代の洋館、睦奥宗光邸とそこがちりめん本の版元となった興味深い話を聞きにいく。かえりに「そら塾」へ。路地の奥の長屋にある那須の野菜をふんだんに使ったおいしいお店だが、店主の夏澄さんがふるさと那須に帰るので8月いっぱいで閉店とか。子供を通わせていた保育園が、給食の材料の産地などを開示しないのでついに退園届けを出したというツイッターを見る。

震災日録 6月11日 池上本門寺へ

2011年6月20日 月曜日

大森町づくりカフェのお招きで池上会館へ。1時間でつくだろうと思ったが、甘かった。三田、泉岳寺、五反田で乗り換え、一時間半。池上線の沿線には駅ごとに城南信用金庫の支店や看板があり羨ましかった。女川では原発のある場所が高台で安心だと、原発に避難してきている人がいるという。これは週刊金曜日にも載っていた。

夕方、本郷中央教会で「紅葉狩り」ほか草創期の日本映画を弁士つきで見る。

佐藤忠吉さんへ電話したら相変わらず泰然自若。「お米を贈りましょうか。もう食糧を手当てし、必要なひとに贈るような時代に入ってきた」「東北の農家は大変です。われわれ老人は多少、ヨウ素やセシウムが出た野菜でも食べればいいんじゃ」やっぱり、忠吉さんに言ってもらわないと!

震災日録 6月10日 城南信用金庫

2011年6月20日 月曜日

北里病院へ。久しぶりに主治医津田篤太郎先生に会ってなんだかほっとする。信頼し尊敬する方がいるというだけで落ち着く。鳥取大から家中茂さんが見えたので谷中や根津をぶらぶら、はいりたい店多々あれど海上海で紹興酒。

財界のソフトバンク孫社長、楽天の三木谷社長、城南信用金庫の吉原理事長などは脱ゲンパツを言いはじめている。他の財界人はどうしたのか。私も4月に「原発は地域振興に馴染まない」という吉原さんの胸をすく発言に感銘をうけた。しょっちゅう電話をかけてきて保険型貯金や投資信託などを勧めるメガバンクにはうんざりだ。すぐ城南に口座を開こうとして神保町で探したのだが見つけ損なった。専修大の近くだそうだ。城南は五反田が本店。うちの近くには支店はないが、そもそも銀行なんて年に何度も行かないのだから。

それにしてもメインバンクにしているみずほ銀行、動坂支店に子どものとき作った口座を今も使っているが、長年ひどい目にあってばかり。極貧時に「お姉さん,ボーナスちょっとはいれてよ」なんて馴れ馴れしい口をきいた窓口の男もいた。ローンの繰り上げ返済に行ったら「組み直しにまたお金がかかるからやめたほうがとく」と相手にしてもらえなかった。昨年はローンの借り換えをすすめておきながら、忙しい年末に住民票だの課税証明だのそろえて持って行くと、1週間後「あなたの年収では組み直しは無理」ときた。その後、システム障害は起こすし、一番近い白山上のATMを「節電対策」に便乗して閉鎖。ほんと腹が立つ。だんだん城南に乗り換えていくつもり。城南信用金庫はリスクのある預金もすすめないし、変なところに貸さないので不良債権もないそうだ。

吉原毅理事長の話を映像で見た。「信用金庫は18世紀のイギリスで生まれた協同組合に発し、もともと地域を守りよくするためのものである」「企業にも理想や魂がある」「誇りのある職場で働きたいとみな願っている」「今までの国民の無関心が福島の方々に迷惑をかけてしまった」「安全安心という政府や東電のいっていることはことごとくはずれ原発は一歩間違えれば取り返しのつかない危険があるということがよくわかった」「閉鎖しなければならなかった福島の信用金庫の方々の思いは人ごとではない」「新しい省力の空調設備と扇風機を組み合わせたり、LED電気に変えたりと企業努力で3割り節電は可能」「自分のうちでも4けたの消費電力計を見るのが楽しみになってきた」「お金は時に麻薬になる。お金の暴走を止めるのが金融マンの仕事」。自前の言葉を持っている素晴らしい経営者だと思う。

4月に即、言及したかったのだが書きそこねた。でも言葉はあまり紹介されていないと思うので書き留めておく。城南信金は1億円を義捐金として贈り、理事長自ら石巻などへ経済支援におもむき、従業員らも炊き出しなどを続け、縮小を余儀なくされた福島あぶくま信用金庫、宮古信用金庫などの従業員を採用、救済している。これもすばらしい。

震災日録 6月9日 ガイガーカウンター

2011年6月20日 月曜日

原発20キロまで走ったとき、ガイガーカウンターがあれば、と切に思った。自分でもほしくなって探しているが、品薄、それに5万円以上するらしい。東大の院生の話では「あんなの材料費は5000円もしないで自分でつくれますよ」とのことだから、安く作って安く売ってほしいな。そうしてすべての保育園・幼稚園・学校に配布すべきだ。東京では新宿百人町での調査を毎日は発表していたがこれは地上18メートルでのこと。地上1メートルほどの生活圏での数値も知りたいし、幼児を持つ親は砂場や芝生の数値も知りたいのは当たり前。ホットスポットという言葉もうっかりつかえない。

「柏や我孫子もホットスポットなんですってねえ」「僕の家は柏です」絶句。

「小さなお子さんがいらっしゃると大変ねえ」も気を付けないと「自分ちは子どもがもう大きいと思って人ごとみたいに」ととられかねない。「はやく収束するといいですね」とつぶやくしかない。

若いころ、生きている実感が持てなくて、この公害や核がある地球がいつまで保つのかも予想がつかなくて、戦争を体験し、生き延びて以降、高度成長の中で結婚し、子どもも生まれて普通の市民生活をしている両親を羨んだことがあった。そのとき私は20代で、両親は50代。いま子どもたちが同じような目をしてわたしを見る。「お母さんがオレたちの運までみんな食っちゃってるんだよな」「そう、このヒト、運が強いからね」

若者たちの未来への閉塞感、申しわけない。東京駅のドーム、姿を現す。屋根は登米産、北上の熊谷産業が被災前に送ってあったスレートで葺かれている。これからドームのスカートの一部は津波を生き延びたスレートで葺かれることになる。

震災日録 6月8日 節電の方法、逃げてはいけない人

2011年6月20日 月曜日

地下鉄三田線は間引き運転で昼なおラッシュアワーなみの混雑。エスカレーターも止まり、宣伝のパネルの電気は消え、照明も暗いので出勤中本が読めないと遠距離通勤者は嘆いていた。それなのに駅には東京電力の出力の75%しか使っていないと書いてある。25%は夏のクーラーなどに貯めておけるのか、それが知りたい。貯めておけないなら、エスカレーターを動かしてほしい。

節電というなら、すべてのお手洗いの音姫を撤去。電話のうるさくてしつこいお待たせ音楽も撤去。バスや電車の不必要なアナウンスもやめる。レストランのBGMもやめる。すべて原田病の患者(わたし)からいわせれば頭痛とめまいのもと。

いわき市で「まず連絡がつかなくなったのが市議と坊主」と誰かがいっていた。「中央から派遣されていた裁判官と医者もさーっといなくなった」とも聞いた。原発が恐いから逃げるのはいいが、逃げてはいけない人をはっきりさせよう。それは税金から給料をもらい、住民を守るためにいる議員と公務員である。丸森町の小さな子供さんもいる女性公務員は「何が起きても立場上、私が町を出るのは最後になるとおもいます」と書いてきた。エラいと思ったが、これが正しい考えだ。

いっぽう今回、老人施設の寝たきりのお年寄りを助けるため若い職員がなくなっている。老人は戦争も生き延び、じゅうぶん長い命を享受したのだから、いのちをつなぐために20代、30代の職員は「老人をおいて避難してもよい」という法律を作ったらどうだろう(とはいっても責任感の強い職員は老人を置いて逃げられないだろうなあ)。

3・11、東京電力の勝俣会長は外遊、清水社長は妻と観光、国会議員や命がかかわる電力、航空、鉄道の役員は任期中、「妻と遊ぶ」なんていう覚悟のない人にはやってほしくない。

原子力安全・保安院は原子力危険管理院と名を変え、この前議会で意見陳述した小出裕幸、後藤政志、孫正義、石橋克彦氏などを起用したらどうか。

今月の自殺者は去年よりずっと増えて1ヶ月で3200人、このままでは4万人を越えるかも。福島が特段増えている。東京でも人身事故がよくある。

いまの国会議員などみんなやめても惜しくはないような。消費税を20%! なんかにする前に国会議員を100人に、地方議会の定員もうんと減らす。神楽坂辺りには建築ナンタラいう天下り団体がたくさんある。各省庁の天下り先のそういう法人もみんな潰す。しかるのちなら消費税増税をかんがえてもよい。しかし消費税とは導入時に論議があったように大衆課税で、金持ちにも貧乏人にも同じように払えというのだから、結局は貧困層いじめなのだ。

震災日録 6月7日

2011年6月8日 水曜日

JR東日本へ行って来た。結論から言うと、石巻市で被災した登米、雄勝のスレートを調査した結果、塩害も心配なく使えるものは使うことに決定した、という。技術者担当者は枚数やどこに何を使うかまで説明してくれた。とにかくここまでこれてよかった。

いっぽうJRはこちらのサイトやブログまで細かくチェックしているらしく、表現が「信頼性を失わせ、そのようなことが続くとこういう場も持てなくなります」との注意を広報担当者から受けた。公式の場で言わなかったことは書かないでほしい、とのこと。「スレート屋根募金はJR側の意向で難しそう」などとは言ったことはないとのこと。お詫びして訂正します。「ならばこの場でお願いすればやってくださるのですか?」と聞いてみたが返事はなかった。

「使わせる」とどこかにうっかり書いたのがよくないともいわれた。「使っていただく」にお詫びして訂正します。しかし国鉄時代は駅はもちろん国民のものだった。私企業になったとしても駅は公共財であり、ニューヨークでもペンシルヴァニア・ステーションが壊されたことにショックを受けた市民が立ち上がってセントラル・ステーションを保存した。公共財の利用者は意見を言う権利がある。まして保存運動によって残った駅だし、鉄道や航空会社は命を預かる事業である。東京電力だって私企業であるが、国民の監視がたりないとあのように暴走する。また広報担当者には「表現の自由」ということをどのように考えているのか、聞きたかった。とにかく「使っていただける」ことが分かったので、私は自分の時間をほかの大事なことに使うことにする。

それにしてもスレート募金は、駅を閉鎖し、お手洗いも水場も使わせず帰宅難民を出して大きな批判を知事たちからも受けているJR東日本にはイメージを上げるいいチャンスだったのになあ。あ、また余計なお世話といわれそう。

震災日録 6月6日

2011年6月8日 水曜日

今日は夕方、北上次郎さん、岡崎武志さんと新潮社「よむよむ」の「小説で旅する日本」の鼎談。震災の話のでない数時間を過ごし、ほっとした。北上さんは「本の雑誌」の発行人目黒孝二さんでもある。小さな直販雑誌の経営と配達の苦労話に花が咲いた。

山本玲子さんから聞いたところでは、桐生の三角屋根の工場にも被害が出ているとのこと。宮城県村田町の蔵の町並みでも10棟以上が解体を決めたとか。そのほか福島市のヴォーリズ設計の教会も解体。

もちろん人命救助、避難所の生活支援、ライフラインの復旧、医療や福祉、精神的ケアが優先されるだろうが、誰かが専門でやらないと、どんどん文化財も壊されてゆく。

国登録文化財谷中花重も瓦が落ちて困っている模様。こうした各地の被害状況でわかっていることがあれば、お知らせください。

震災日録 6月5日 みんなで震災を語り合う

2011年6月8日 水曜日

午後1時半から谷中コミュニティセンターで5時まで3時間半のロングトーク。

テーマは義援金、物資支援、炊き出し、避難所支援、仮設住宅、瓦礫処理、町の再生、わが根津の被災、原発、農業と漁業、そのほかなんでも。被災地を見てきた人たちの感想。いわき、気仙沼、山元、新地、南三陸、登米。意見、アイディア。

大塚モスクのハルーンさんより、なぜモスクはこれほど迅速に長く支援を続けているか、という話も胸にせまった。トルコのムスリムは11日の夜の便でトルコを発ち日本に支援に来たそうだ。その受け入れや同行をしているうちにハルーンさんたちも支援を始めてしまったという。いわき出身の菊地さんは「地域のみんなが自分の故郷のためにこれほどがんばってくれるかと思うと泣けてくる。でも原発がみんなの心を塞ぎ、元気がなくなっているし、安心だと思い込みたい複雑な心境になっている。そう思わないといわきでは暮らせないから。東京から数値などとうてい伝えられない状況」

それはわが丸森へ対しても同じ。なんといっていいかわからない。東京だって都は新宿の高さ18メートルのところで測った数値を公表しているだけ。

谷中防災広場をよく使う若いお母さんたちの発言も新鮮。「小さな子どもがいると被災地にも支援に行けず、光源寺でおにぎりを握るのは少し何か役に立てている気持ちがした」(わたしなんか阪神淡路の時は何もしなかった。えらい)、「子ども連れではお弁当が使える施設がほしい。飲み食いが禁止される施設が多い」(ほんとうだあ)、「防災広場の椅子の下に煮炊できる器具があるというが日頃使ってないのにいざという時に使えるのか? 日常的に使ってみた方がいい。オーストラリアのようにバーベキューサイトがあれば住民の交流にも役立つ」(そのとおり)、「放射能が気になっても自分の子だけマスクをさせると、何気にしてんのといじめの対象になったりする。弁当を持たせると先生が御宅のお子さんだけですよ、とかいう。本当の気持ちを話し合えないで鬱屈が溜まってゆく」

だからみんなでこれからも話し合おう。なにせヤマサキは会場整理とお茶の係だし、私1人で討論をさばいて、まことに不手際、ごめんなさい。なにか話したいことがある人、といっても日本ではなかなか手が上がらない。南三陸町に長いこといっていた建築家の松下朋子さんの姿も見えたのに、いつか見えなくなった。ぜひ今度は話してくださいね。原発のはなしももっとしたい人が多かったはず。守本さんたちと解放感で前後不覚。

震災日録 6月4日 霧島神宮

2011年6月8日 水曜日

あさ、熊襲の穴というのを観に行った。ここは古事記の大和武尊が河上武を女装して撃ったという伝説のあるところだ。いかにヤマトタケルが美男子だとしてもこういう卑怯な手は許せない。しかも殺される間際のカワカミタケルが「この方は天皇の御子なるぞ」といって手下を制し、タケルの一字を献上したというのも古事記史観で眉つばだ。それにしてもヤマトタケルも九州からわが吾妻までよく移動するものよ。最後が杖により白鳥になって死ぬところは悲しくていいけどね。弟橘姫入水のはなしを思い出し、また津波の死者を思う。

運転手さんに「3・11以降、お客は減りましたか」と聞くと、「その前に新燃岳の噴火ですっかり減ってしまったから、今はむしろ戻っているんじゃないですか」とのこと。新燃岳は近いが霧島や妙見温泉には関係ない向きに煙は行っているのだから風評被害だという。霧島神宮は天孫降臨のニニギノミコトなどが祭神。その故地は高千穂河原といって、ここも1235年の御鉢の噴火によってお宮が焼失、いまのところに移ったというのだから、火山帯にある日本人は地震や噴火と共存しながら古来生き続けて来たことになる。運転手さんは「鹿児島の誇りは桜島です。あれが噴火しつづけてくれているので鹿児島は地震が少ないんですよ」ガス抜きも必要だというわけだ。最後の霧島ツツジがちらほらと咲いていた。6時半家に到着、溜まっているメールを片付け、新聞を読む。

東京新聞は読者投稿欄が面白い。70代80代の老人たちが過激にまっとうなことを言っている。東電は解体しろとか、被災地のために働かない代議士はみんなやめろとか、生きているうちに本音を吐いた方がいいものね。

双葉町が町あての義援金を被災者に配らないで「避難民の中から犯罪者が出てご迷惑をかけた」として避難先の埼玉県騎西町にあげるらしい。人がいいというかバカというか。愛知県東海市では住民から集めた支援物資のうち姉妹都市釜石市から要請のなかった粉ミルク、紙おむつなどを市内の保育園などへ回したが、買って送った市民から「趣旨が違う」と苦情を受けあわてて回収したとか。誰か使えばいいじゃないか。市民も市民、役所も役所だ。こんなだから支援物資は受付けません、になるのだ。みんなを苦しめるこの公平原則。その陰にもっとおおきな不公平がいっぱいあるのに。白鵬ら人気力士岩手県山田町へ、いいぞ。皇太子は山元町山下小学校へ、たしかにあそこは素晴らしい避難所だった。渡邊校長がなつかしい。だけどもっとひどいところを見てもらいたい。

震災日録 6月3日 田平の滝

2011年6月8日 水曜日

昨晩遅くなって土盛海岸のブルーエンジェルに到着、朝になってみると一枚ガラスの向うに素晴らしい海が広がっていた。宿の主人は朗らかで上品な女性。大阪で会社を経営していた夫君が奄美が大好きで、ここに建てた保養所を終の住処にしてしまったという。なくなられたあとも1人でお住まいだ。「空港から3分ですし65歳以上は日本のどこでも1万2千円で行けますのよ。冬はお休みでのんびりやっています。台風の時はさすがに心細いですが、婿がガラスを厚いのに替えてくれたので雨も吹き込みませんし安心です。晴れた日も雨の日も海はいろんな表情でいいものですよ」

8時に中山さんが「奄美で一番きれいな滝を観に行きましょう」と迎えに来た。「だって雨ですよ」「だから水量が多くてきょうはいいはずです」。名瀬からそんなに遠くない。「初心者コースです。沢登りもありますが」という話だったが、台風のあと、道はかなり崩れていた。崖を落ちないようにそろそろと進むと「もう難所は過ぎました」と中山さん。その一言でほっとする。川を渡るとすぐ長靴に水がはいった。「最初に濡れてしまうと気が楽ですよ」となんだか見透かされているみたいだ。

沢をどんどんいくとまるでボルネオの森のようだ、木の根やつるにつかまりつついくとこんどは「ハブが枝やつるに化けてますから気を付けて」にぎょっとする。現れた滝はたしかに堂々たるもので、ものすごい水量、最上部は太い1本なのが途中から岩に当たって「われてくだけてさけてちるかも」なのであった。

1時に空港へ。2時半に鹿児島へ。空港近くで前から泊まってみたかった妙見温泉石原荘へ。もてなし、建築や置いてあるもののセンス、行き届き方、食事、かけ流しの泉質、そしてお値段、どれも申し分なし。これまたキュレーターとして全世界の宿を知っているユカさんと宿の「ベストファイブを書き換えなくちゃね」といいつつ黒麴の焼酎を飲んだ。