昼、福祉協議会の人が来る。陸前高田、大槌町、南三陸などに支援に行き、涙なしでは聞けない話ばかりだったと言う。この春、学校に上がる女の子がランドセルも何も用意してあったのに津波で流された。なかなか見つからず、やっと見つかったのが上がるはずだった小学校の校庭だったとか。おばあさんが一晩中、高校生におぶわれて高台に逃げ命を拾った。だけどヘリコプターで年齢順に救出されるときに離ればなれになり、その後お礼を言いたくても言えないでいる、とか。
‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ
震災日録 10月7日 被災地の話
2011年10月20日 木曜日震災日録 10月6日 居住の自由
2011年10月20日 木曜日谷中コミュニティ・センターのことでいろんな人に会う。なんで町会を通さずに意見を言っていけないのか、民主主義者としてはわからない。
今回の震災でコミュニティの大切さばかりが強調されているが、むしろコミュニティが抑圧的に働いたことの方が大きかったのではないかと、あまのじゃくの私は考える。
フクシマの水素爆発、あれは核爆発だという人もいるが、あのときアメリカ大使館などは80キロ圏からアメリカ人を退避させた。日本という国家もそうしていれば、今のようなこと、そして5年後に起こるであろうことは防げたと思う。牛だって馬だって放置せずに山を越えて山形県や新潟県に非難させればよかったのだ。福島の人々はそれからも逃げていない。家族がばらばらになるのはいやだ。ふるさとからはなれたくない。まわりの人に逃げたと言われたくない。老母を置いて行くわけにはいかない。これだけ手をかけて改良した農地なのに。すべてわかる。よくわかる。しかしそんな愛郷心が子供たちの未来の生活に影を及ぼすとすれば……。ノマドとなったほうがいいのかも知れない。
自分が逃げないことを選んだなら少なくとも逃げた人の悪口は言わないほうがいい。日本国憲法は居住の自由を認めているのだから。
震災日録 9月25日 丸森
2011年10月3日 月曜日きのうのうちに丸森へ来て、なつかしい佐藤岩雄さんや緑山の菊地しのぶさん、ひろしさんと会った。今回は放射線値の話に終始した。やはりいま丸森の方たちが悩んでいるのはその問題で避けて通れない。役場前のコンクリートの上で計ると0.14。これは東京団子坂下で友人杉田望さんがはかっているのと大差ない。しかしある中学校では0.66、ある児童館では0、53、ある地域センターでは1.07といった数字も出ている。最後の数字に24時間x30日(ひと月)x12(ヶ月)かけると、この数値のまま戸外にずっといるとすれば、外部被曝だけで年間8ミリシーベルトくらいになる(政府の許容量は年間1ミリシーベルト)。みんなほとほと困っているらしい。
「牛の糞なども堆肥にしかね、おいてはあるがどう処分していいかわからない」「牧草からセシウムが出たので、外国産の草をわざわざ買って与えているが、自分のところの牧草はまいておいておくしかない」「校庭の除染をしてもその土は集めて青いシートをかけておくしかない」「東京電力本社へ持っていけ、なんて言っているひともいる」
処分に困っているのは使用済み核燃料だけではない。「日本はおわりですよ」そう思いたくないけれど、東北へ行くとサルトルではないが出口なし、という感じがする。
震災日録 9月26日 ロンゲラップ
急に秋です。冷えて夜中に毛布をかけました。そろそろ衣替えもせねば。部屋を整理していたら石川逸子さんからいただいた『ロンゲラップの海』の美しい小冊子が出てきました。
―――――
ビキニから180キロ離れた
ロンゲラップに
さらさら 雪のように降りつづけた
白い粉
死の粉ともしらず その粉を競って集め
無心に あそんでいた 子どもたち
退去命令は58時間後だった
おれたちは人間モルモットにされていたのだ
いや 3年後
「安全宣言」されての帰還も
その一環だったとは!
ようやく故郷の島にもどって
はしゃぎ 踊った ひとびとの姿が
昨日のことのように甦る
「なんといってもおれらのヤシガニは最高さ」
あのとき ようやく
先祖伝来の暮らしにもどれた! と安堵した
まさか 魚も ヤシの実も
死の魚 死の実に変わっていようとは!
体内にとりこんだ放射能によって
ひとびとは やがて つぎつぎ 死んでいった
老人の息子 レコジも
ジョージも 妻のミチュワも 死んでいった
1985年 ついに ひとびとは
ロンゲラップを脱出する
先祖伝来の暮らしを捨て
墓を捨て
思い出を捨てて
――――
まるでサーガのような長い詩です。少しだけ引用させていただきました。これと同じことがいま日本でも起こりつつあるのではないでしょうか。
震災日録 9月24日
2011年10月3日 月曜日朝、小金井の武蔵国分寺公園で友人の寄田君が馬車を走らすというので観に行く。物すごい人気で町中をはしるコースは完売、カフェスローの吉岡さんが「森さんは馭者席の横がいいよ、タイヤの上に乗れば、馬への負担も軽いから」というので寄田君の隣り、特等席にのせてもらった。親子つれ本当に楽しそう。途中から、歩きでなくトロットになる所が興奮した。寄田君はシルクハットにえんび服。吉岡さんはチョッキにカウボーイハット、二人とも決めてました。
寄田君は書いています。お母さんと一緒でなくお父さんと一緒に馬車に乗った子どもが悲しそうに泣きはじめた。
「まぁとにかく、僕は歌います。
「お・う・ま・の・おやこ・は・なかよし・こよし」
僕の大好きな歌です。
この歌は、馬のリズムにしっかりあいます。
そして多くの人がこの歌を知っています。
ゆっくりとしたリズムで、僕が歌い始めたとき、馬車に乗っている大人と呼ばれる人々と合唱が始まりました。
「いつでも・いっしょに・ぽっくりぽっくり・あるく」
そのまま2回目のお馬の親子が始まります。
「おうまの・おやこは・なかよしこよし・いつでもいっしょに・ぽっくりぽっくりあるく・・・」
この合唱のあいだ、子どもは泣いていました。
ところが、合唱が終わるとき、子どもは泣き止み、とても静かな深い呼吸をして、まわりの世界の中に落ち着きました。悲しみが消え、喜びが生まれた瞬間でもあります」
馬ってすごいなあ、と私も思いました。ポニー乗馬も小森さんが乗せていましたが、乗る時は不安そうだった子どもが乗るとみんな、明るい、輝かしい笑顔を見せるのです。
ああ、谷根千でも馬車を走らせられないかなあ。
震災日録 9月23日
2011年10月3日 月曜日安野光雅さんの神奈川近代文学館の「アンデルセンと旅して」とみにいく。私が『即興詩人のイタリア』を書くために安野画伯と同行した時にとった写真などもたくさん提供した。私がローマで発見したバルベリーニ広場の石版画も提供した。ということで、帰りは中華街でご飯を食べて楽しかった。東京にもおいしいお店は多いのに、中華街にいるというだけでわくわくする。ピータンとザーサイを買って京浜東北線にゆられて帰った。
震災日録 9月22日 再度・食品の安全性について
2011年10月3日 月曜日「土と健康」2011・8・9月号にチェルノブイリ救援に当たられている川田昌東さんの有用な話が載っていました。
チェルノブイリから学んだことは原発事故による病気はほとんどが内部被曝によるもの。しかも多いのはがんでなく、心臓病、脳血管病、糖尿病、先天異常、免疫力の低下などである。しかしICRPは因果関係を認めていない。
日本の暫定基準は水に付いてセシウムでウクライナ基準の100倍、主食で25倍、野菜で12倍と高すぎる上、品目も細かくない。
米については土壌が5000ベクレル以下ならいいとされている。その10%が米に移るという想定だろうがそんなには移らない。しかし表皮に多くたまるので玄米はだめ。精白して白米にする。玄米を食べたい人は産地を選ぶしかない。
野菜は生産物を測る結果主義。しかしすべてを測れるわけではない。セシウムがたまりにくい野菜はトマト、なす、胡瓜、カボチャ、ねぎ。汚染されやすいのはカラシナ、クレソン、キャベツ、大根、ジャガイモ、豆、きのこ。カリウムなどによる土壌改良を。
酢漬けにするとセシウムはかなり取れる。
肉も500ベクレル以下は出回っていると考えてよい。牛乳はプルシャンブルーに寄る除染が有効。
本郷の「大きなかぶ」の内海洋子さんが教えてくれました。たいへん役に立つので一読を勧めます。
震災日録 9月21日 八ッ場ダム
2011年10月3日 月曜日娘のサトコは原発の他,前から普天間基地と八ッ場ダムに関心をもって通っているが、震災以降、どの集会で八ッ場ダムについてビラを配っても受け取りが悪いという。しかしダムと原発はほとん同じ構造なのである。ダムをつくる主体は国土交通省関東地方整備局。そしていま、八ッ場ダムは原発のどさくさに乗じて強行されようとしている。
1、原発と同じく、大きいことはイイコトだ的高度成長期の巨大土木工事による事業である。
2、原発と同じく、国策により関連企業にたくさんの役人が天下っている。
3、原発とおなじく、公共工事の名の下で利権が発生しているという噂。
4、原発とおなじく、地元住民に金や温泉旅行を含めたアメがばらまかれているという噂。しかも地元はダムで利益誘導され、ダムがないと生きていけないような気持ちにならされている。そうでなければ地元にダムなんか必要なわけがない。
5、原発とおなじく、賛成派、反対派に分かれ地域を分断し、コミュニティがずたずたになった。
6、文化財をしずめ、景観をこわし、フェイクばかり作ることになる。
7、あまりに長い間の計画で住民の人生をめちゃくちゃにした。
8、自然をねじ伏せ、改変しようと言うニンゲンの傲慢な計画
9、原発とおなじく、推進側は「公開によってさまざまな憶測を招く」と情報を出さず、説明会もしゃんしゃん大会。
10、国土庁の水量予測もまったくいいかげん。
11、今まで相当使ったからあとは作ってしまったほうが安くつくという環境や暮らしを無視した経済重視の考え方。
12、原発とおなじくダムにも絶対安全はない。台風12号ではダムが溢れたではないか。
13、原発とおなじくコンクリ構造物、老朽化、劣化や沈殿、堆積でそのうち使えなくなったらたいへんな瓦礫処理が必要。つくるのも大変、壊すのも大変。
14、福島第一が東京の人が使う電気をつくるためなら、八ッ場ダムは東京、埼玉の水の確保と洪水調節のため、つくられる。しかしこれは口実で電力が余っているのとおなじく、首都圏の水は余っている。洪水調節はまったくならないとは言えないが限定的でごくわずか。
民主党政権になり前原国土交通相は「八ッ場ダム中止」といった。なのに一年後、馬淵国土交通相は「予断なき検証」つまり、やらないともやるとも決めずに検証するよ、といった。しかし検証したのは「原子力ムラ」ならぬ国土交通省の「河川・電力ムラ」や立地自治体、下流県知事など推進側の人たちだった。こんなアンファなのあるか? 反対派の意見は聞かなかった。
現在、巨大より分散、天下り批判、情報隠しがいわれ、自然に逆らわない謙虚な暮らしを目指そうと社会を転換しているときに前世紀の遺物、いや自然にとっては異物であるダムを今さらつくるのはバッカじゃなかろうか。
震災日録 9月20日 生活する店
2011年9月26日 月曜日上野の美術館に用があっていって、雨の中自転車で帰ってきた。どんどん飲食店とギャラリーが増えている。つまり観光客のための店が増えている。ボタンや、おもちゃや、毛糸や、自転車や、炭や、米や、銭湯、住むための暮らすための店はどんどんなくなっていく。もう町が自分の町ではなくなりつつあるのに気づく。そう考えながら靴下の穴をつくろった。アーサー・ビナードさんのラジオでの発言が面白い。
鉢呂大臣辞任について。「死の灰がふった町を死の町というのは気持ちいい表現ではないが間違ってはいない」「使用済み核燃料というのは不正確でこれから核兵器をつくる原料、これからだぞ、死の灰、である」「放射能うつしてやるというというの誰が見たんだ! そんなマゴ引きのひ孫引きのヤシャゴ引きで大臣が辞任する何てあり得る?」
http://www.youtube.com/watch?v=gkEzjq3×2og&feature=related
さすが詩人。前に商店街について対談した時にアーサーさんに八っ場ダムについて話したら、私が司会する東京大学でのシンポジウムに来てくれた。それからもずっとこのダムについて発言してくれている。
「なぜこのタイミングなのか。狙っていたに違いない。震災と原発事故のどさくさまぎれでつくっちゃおう。グッドタイミング。原発がだめなら水力とか。マエハラはなにも言う資格がないが、言っていることは間違ってない。こんな大昔の、利権をめぐって計画した不必要な有害で時代遅れなダムなのに。検証とは永田町では『アリバイつくりの茶番劇』のことを言うらしい。建設ありきの評価報告案を間違った想定に基づいてやっている」
まっとうな意見だと思う。みなさん、東電だけでなく国土交通省も監視してください。ほとんど同じ体質、おなじやりかただから。
震災日録 9月17−19日 海を眺めて
2011年9月26日 月曜日編集者の友人たちと千葉の家へ。太平洋を見下ろす崖の上で風に吹かれて宴会。なんだか話さなくても満足な感じ。草むしりをしにきたみたいであったが。仕事ははかどる。竹富島で聞いた話を起こしていると、矢も盾もなくいますぐ竹富に行きたくなる。
夕方になったら海にいって、泳いだり、魚を捕まえたりして、台風が来たら家でヤギをつぶしてみんなで泡盛を飲んで、歌ったり踊ったりして。想像を絶する苦難の暮らしはあったはずだが、いまは適度にスローないいしまだ。
震災日録 9月16日 丸森の農作物を売る。
2011年9月26日 月曜日宮城県応援フェアを上野駅でするといったのですが行ってみると半分は丸森産品。蜂蜜やタケノコの水煮。桃、なし、イチジクがよく売れる。広い改札から出てくる出て来る、その人たちを受け止めて「宮城の復興にお力をお貸しくださーい」「宮城の野菜を買って被災地を応援しましょう」と言ってみたり、「らっしゃいらしゃい!」「今朝取り立てのネギ一本60円!」と言ってみたり。後者の方が気分がいいし、売れるみたいだった。「大変だったわねえ」「応援してるわよ」という人もあり。放射性物質に触れた人一人。そのときはNDの話しをする。ところでNDとはなにか?だれかno data だなんて言ってたがこれはまちがい。non delivery(不着)。お米も検査済、ND.
夕方、谷中コミュニティセンターでこれを建てる時にかかわった建築家永橋さんに話を聞く。使う人の思いを形にするのが設計者。本当だと思う。