‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ

7月12日

2012年7月23日 月曜日

ほんとうは安曇野の臼井吉見さんのれんげ忌に招かれて来たのであった。もとは安曇平といったのに「安曇野」と呼ばれるようになったのは臼井さんの「安曇野」が原因。中学の時に一部を読んだが、荻原碌山に始まり、相馬黒光、愛蔵、中村彝、中原悌二郎、戸張孤雁などの芸術家群像が出て来る。地元には「安曇野を読む会」などもあってもう2度めを読みはじめていると言う。なんだか私より詳しい人の前で釈迦に説法といった話になった。碌山のお墓、荻原家、相馬家などを訪ね、いろいろ勉強になった。また東京駅の保存のときに高峰三枝子さんが映画のロケをいていたら飯沼飛行士の帰還にあって東京駅は忘れられない、といっていた飯沼飛行士も安曇野の出身で記念館があった。そしていろんなことがわかったのだが、そのことはどこかに書きたい。

7月11日 浅間温泉神宮寺

2012年7月23日 月曜日

松本の神宮寺さんには借りがある。尋常浅間小学校の閉校式のときに金子文子について話す約束をしてあったのに原田病を発病してキャンセルした。先日京都龍谷大であった時高橋和尚に原発関連の映画持って行くから見ましょう、といったのだ。それでお昼のあずさに乗って、温泉に入って、夜はお寺で檀家さんなども含む小さな映画会をやって、カレーライスをご馳走になった。松本辺りは放射線値は低くて、私は避難地として考えているが、聞きにきた土地の人は福岡に避難所を用意した、という方もいてびっくり。高橋和尚は相変らず明日から石巻と相馬、車で行くのだと言う。タフ。

7月8日 ジョン君

2012年7月23日 月曜日

ジョン君が九州ヘ行く前に挨拶に来てくれた。彼はカリフォルニア工科大学を卒業後、ロサンジェルスで設計の仕事をし、九大に一年留学し、秋からはハーバードの建築科の大学院に行く。3月にニューヨークで友人の息子さんと一緒に会って、夏には日本に1ヶ月行くので、東北に行ってお手伝いがしたい、と言っていた。それで7月2日朝に来たジョン君にそのまま仙台まで行って石巻の熊谷さんを訪ねるように言った。彼はそのとおりにして、石巻、女川、追波湾あたりを自転車を借りて回ってきたという。「みんな悲しいことの後なのに明るい顔をしていた」「草刈りの手伝いをしました」「ぼくはまた石巻に行きます!」という。いい経験をさせてもらったので森さんにありがとうと言いたくて、と重いトランクで羽田に行く途中に寄ってくれたのだ。かれはフィリピンの移民の子どもだ。背負うものは重かろう。そのことが彼のやさしさと誠実さを育てたのか?「熊谷さんがタガログ語を話すのにはびっくりした」という。そういえば茅葺きの熊谷秋雄さんが昔、フィリピンに海外青年協力隊で3年も行っていたことを、ジョン君にいわれるまで忘れていた。

7月7日 シジミ

2012年7月23日 月曜日

七夕。石巻の十三浜のシジミを送って貰った。よく泥を落とし、砂を吐かせ、まずはネギを散らしてみそ汁に。夜はシジミのスパゲティに、翌日はもやしとニンニクと唐辛子で韓国風に、それが唐辛子を一粒入れただけで物すごくからくなり、2倍に薄めてラーメンに、3日めはジャガイモ、人参、タマネギ、パセリでシジミチャウダーに。これが一番おいしいような。娘は「やあ、朝起きて来てすぐご飯が食べられていいなあ」と言って勤めに出て行った。おいしいものを作りすぎるとパラサイトを助長するかも。

この日、谷中西川さん宅で原発都民投票グループの主催で『シェーナウの思い』というドイツのドキュメンタリーを見る。や、これはいい。もう原発がどんなに恐ろしいか、の映画は見すぎた。これはチェルノブイリの事故のあと、ドイツの原発からほど近い2000人の町の住民が、住民投票をして電力会社から電線網を買い取り、自分たちでエコ配電会社を作ってしまう話。建物の保存やイベントはやれても、ゴミ、下水、電気などのインフラに手を付けられなかった私たちには痛棒であった。といって巨大都市東京で住民の手で配電は出来るのか?

7月4日 福島の子供のキャンプ

2012年7月23日 月曜日

こどもたちを夏休みだけでも放射線値の低い所で保養してもらう、というのは効果があるようで、今年もあちこちで行われる。わたしもその下見に5月イタリアのサルディニア島に行って来た。イタリアではもうひとつ、250人に達したらキャンプがあるらしい。250人集まらなかったら不成立というのはチャーター便かなにか飛ばすのかしら。避難のためのサイトもあるが、親御さんから「中学生ではだめなのか」「福島でなく宮城の線量の高い所ではだめなのか」といった問い合わせを見かける。九州でも「福島の子たちを招いて」という話を何度か聞いたが、会津よりは宮城の白石、角田、丸森などのほうが高く、線量の高い地域は凡て対象にするほうがいいと思う。ここでもネットなどで情報を取れるかどうか、放射線に関する知識の差、旅行費用がただでない場合、それを負担できるか、など経済と情報における親の格差が子どもの参加不参加に影響してくるのは悲しいことである。私も大工の息子に「自衛のため、国産煙草は吸わないほうがいい」と伝えた。

7月2日 どんな寿命の縮まり方?

2012年7月23日 月曜日

よく、我々は50すぎだからもう何食べてもいいや、とか70まで生きたんだから放射能で5年寿命が縮まってもいいや、という言い方をするが、友人に寄れば、健康で生きられて80で死ぬ所が、75でぽっくり逝っちゃうというようなことにはどうもならないらしい。放射能の影響が強い地域では、心臓ががたがた、頭痛や肌にブツブツ、のどが腫れ、足が痛い、と不調をかかえたまま余生を送るようになるらしい。だから汚染された食物はとらないに越したことがない。私も3・11以来、どうも体調はよくない。亘理の魚から75bqが出たというと避けるだろうが、丸森のお米から8bqでたというなら食べようかと思う。知っている人が作ったものなら食べる。それにしても原田病のときのステロイド200ミリがどういう量なのかわからなかったように、75bqと8bqの差もわからないし、暫定基準値の500と100の差もわからない。
そして安全な所へ避難し、安全な物を食べる選択にも残念ながら経済格差というものが働いている。

6月29日 由布院記録文化映画祭

2012年7月23日 月曜日

この映画祭には6回から来ていて、途中2回来られなかったので、8回来ていることになる。今年も力作ぞろいであった。今年は松川賞の審査もなく、のんびりと凡ての作品を見ることができた。今年は山﨑と仰木とスタッフ3人で卒業旅行をかねてきたので、昼休みには町に出て、福助の地鶏塩ラーメンを、ととやの親子丼を食べ、映画祭が終わったあとの月曜日の昼は亀の井別荘湯ノ岳庵で打ち上げのご飯で、昼からワインやお酒を飲んで、やまさきなど、あ~~幸せ、をくり返していた。立派なお店なのに、メニューを見るとリーズナブルで、キュウリとミョウガの酢の物から、へしこ、鮎のうるか、チーズの味噌漬け、鯉の洗い、地鶏の唐揚げ、鮎の塩焼き、ホワイトアスパラ、しいたけの炭火焼、ともう酒飲みには堪えられないものばかり。地の野菜を安心して食べられることの羨ましさ、いろんなことが胸に去来した。今年、松川八洲雄『JAPAN』と巻町の原発住民投票のドキュメンタリーが一番よかった。

6月28日

2012年7月23日 月曜日

北海道のお義父さんからどっさりアスパラが届いて、毎日茹でたり、焼いたりして食べている。さとこはベーコンや肉まきなどのほうがさくさくの食感があっていいと言う。さっと茹でた鮮やかな色を楽しんでアイヨリソースも捨てがたいが。

6月26日 津波と自動車

2012年7月23日 月曜日

三陸河北の記者たちが聞き取った津波体験の集成を読む。津波に巻き込まれると洗濯機のうずに巻き込まれたよう、スーパー銭湯のジェットバスという表現もあった。この一年、震災の体験談を読むことが多い。

岩手の犠牲者の数が宮城に比較して少ないのは、三陸で何度も津波を経験しているからだと言う。私の聞いた範囲でも、仙台以南の海岸べりではまさか津波が来るとは思いもしなかった、と言っていた。そしてこのあたりは海のそばに高台はなく、逃げ場所もなかったということだ。国道六号線が津波到達の境で、国道にのぼって助かったという人は多い。

石巻とその周辺では5000人を越す方が犠牲になった。チリ地震でもたいした津波は来なかったといって高台に避難しなかった人は、多く自宅でなくなった。第一波がそれほどの高さでなかったので、いったん引いたあと、家に貴重品を取りに戻った人々もいのちを失った。

一番怖いのは車で逃げた人の話である。渋滞の道に津波がかぶさり、車ごとふわっと浮いて海にさらわれた。外からどんなに「車を捨てて逃げろ」といっても聞こえないようだった、という話もある。また乱暴に対向車線をはしって車を追い抜いた車もある。それを「ずるい」と思ったが、いのちには替えられず自分も追い抜いたと言う人もいる。

またパワーウィンドウが下がらずに車から脱出できなかった人もいる。義妹が北海道で旅行中、パワーウィンドウーが壊れ、とにかく暑くて困ったわ、と言っていたのを覚えているが、手回しであく時代は決してなかったことである。電気の力に頼るのはこわいものだ。この教訓を自動車メーカーはどう活かすのか?

そして車は時に人を守ってくれるシェルターにもなるが、津波で運ばれた車やトラックは家にぶつかり、家を破壊して行った。人にぶつかりそのいのちを奪って行った。地方へ行けばいくほど、車依存はつよい。それも反省すべきではないか?

一番忘れられないのは、『世界』の読者手記で若い兄と妹がさながらアドヴェンチャー・ファミリーみたいにけろっと逃げて行くヤツ、もう一つの手記は流された家の屋根に立つ男性が、にっこり笑って手を振ったと言うシーンである。すごいなあ。

6月26日 我々のゴミの焼却

2012年7月3日 火曜日

北九州で瓦礫の広域処理が始まった。地域エゴではなく、綺麗な九州を日本人全体のために残しておく必要がある。放射能を恐れて沖縄に移住する人がいるが、沖縄の米軍基地の中にどんな化学物質があるかわからず、最近2度も墜落したオスプレイの普天間配備もすすめられている。原子力空母なども海峡を通っていて、海に何か排出していないともわからない。八重山は本島のような地上戦はなかったが、おおくの兵士を戦場に送り、マラリアで島民が亡くなったことは同じ。ここも台湾の使用済み核燃料の島が近いらしい。地球上どこも安全な場所はない。

ところでゴミ焼却所のあるあたりがどうも放射線値が高いような気がしてならない。

文京区や台東区は自区内に焼却所を持っておらず、他の区にお金をはらってお願いしているわけだが、なんとも申し訳ない気持ちがしてしまう。昨年10月には江戸川の処理場の飛灰で12390bqという高い数値がでており、他でも2000くらいはでている。また焼却灰の埋め立て規制値も100bqを今ではキロあたり8000bqまでゆるめてしまい、これを埋め立てたところは30年経つと住宅建設などもしていいことになっている。ほかにも以前は埋め立てていた汚泥なども高温焼却炉になってからそこで一部焼却しているというから、ずいぶん危険なことではないかと思う。

東京電力福島第一原子力発電所の事故によって、広島の168倍のセシウムが空中に飛散したと言うことをもっと心にとめておくべきである。以上、環境ジャーナリストの青木泰さんの講演を聞きに行って、それから気になっている。