‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ

9月3日

2012年10月4日 木曜日

石垣へ。9時45分の船で行き、竹富から西表に戦後入植した大谷用次さんの話を聞きに行く。石垣ターミナルに近い、まだまだ赤瓦のある一角。石垣は都会、タクシー、スーパー、市場、ライブハウス、イタリアン、エステなどもある。
用次さんは100歳、台湾の鉄道で働き、テニヤンに移住、息子さんは満州引き上げの5歳の坂本真典さんにそっくり。同じ話ばかり繰り返して、と息子さんはいうが何度も繰り返す話はそれだけご当人にとって印象が強いのだ。

マンゴーやバナナをだしてくれた。西表行きは2時40分なので、八重山そばを食べ、石垣ラー油を手に入れ、「海坊主」でコーヒー。
西表までは快適、左手に黒島、新城が見える。桟橋で竹盛旅館の用一さんが迎えにきてくれる。用次さんの三男で、子どものいない竹盛三洋さんにもらわれた。三洋さんは西表島で戦後、マラリア撲滅の第一線にたった人だった。おばさんが用次さんの妹で女丈夫。

旅館は大富の集落の中にあり、子どもが一人しかいないので、部屋が余っていて竹富や波照間からの人を泊めるうちに旅館となってしまったらしい。食事よし、気分よし、人柄よし、インターネットも使え、朝はデロンギのコーヒーメーカーでおいしいコーヒーを飲ませてくれた。広々とした部屋を専有して食事付きで7000円。また来たい宿。
夕方、高嶺方次さんの話を聞く。やすみや食堂をしていた。次男はサトウキビ栽培。
竹富に復員したが土地がなく、マラリアのある土地に行くか、といわれたがこれしかないと決断。
夜、宿の主人用一さんの話を聞く。笑顔がすてきな私より一つ上。戦後、水も食料も不足しがちな竹富島は復員兵や台湾からの引き上げ組みで人口が急増、生産力を上回ったので移民が奨励され、西表の大原近くを開拓入植した。竹富からきたときはこの辺はジャングル、天の川、のちに大富川という井戸を作った。橋はなくて泳ぐか、がんがん舟にのった。学校を整備した。共同売店を作った。班に分けた。公民館を作った。保健所を拠点にマラリア撲滅、いまでも住民は仲よく、子ども文庫など住民たちであらゆる活動をしている。公民館に入植記念碑あり。これこそほんとうのまちづくりだ。
夜は竹富を舞台にした「ツルカメ助産院」と母のいのちを助けてくれた順天堂・天野先生の「プロフェッショナル」を見て寝た。家にテレビがないので、旅に出るとテレビっこになる。

9月2日 選挙の日

2012年10月4日 木曜日

竹富では選挙カーも回ってこないんですね。というと「選挙カーなんか通らんでもみんな知っとるわ。全部票が読めとる。開票は翌日よ。離島から票を集めるから。
知事選なんかは八重山は1日先にやって石垣にチャーター船で持って行くよ、いちど波照間の便がでなくて、もう祝勝会をやっているようなときに票が届いたということがあった」とのこと。
たるりやの清水敏子さんに話を聞く。これまた壮絶な一生の物語。90というが70歳くらいに見える。
選挙は町並み館で。昨日までアンガマーで大変だったのに、今日は朝から夜7時まで。与那国光子さんは神司で、ドライバーなのにきょうは選挙管理委員。本当にお疲れさま。夕方、コンドイ浜で泳ぐ。篤さんがビールを持ってきてくれる。座るところも重たいコンクリートを持ってくる。私が動かそうとすると「動かないよ」と笑う。夕日を眺める。鷲のような雲、ピューマのような雲。大きかったのに、赤かったのに、だんだん灰色になって、遠くへ飛去ったように小さくなる。たるりやへいくが、ここも大変な込みようで、なかなか料理はでて来ない。篤さんの持ってきた新鮮な刺身でビール、ようやくでたのはチャンプルーが二品、でも90すぎの敏子さんが作ってくれていると思うとありがたくて。泳ぐとつかれて眠たい。調査をご一緒している家中さんは昌盛さんと一杯やりにに行った模様。

9月1日 お盆の三日目

2012年10月4日 木曜日

朝ご飯、村田さんに10時ごろから松竹荘のフーヤで与那国家の保存修復について話を聞く。村田さんは滋賀県の文化財係で40年近く設計管理一筋で、前倒しに役所をやめたときに与那国家に行ってくれといわれた。ここで大工を育てる。ここの材料で作ることにこだわった。イヌマキの手配、瓦をどこのをつかうか、壁土も地元の粘土をつかった。隣りに住むまっちゃんばあ(古堅せつさん)にはお茶の世話にはじまり、何から何まで世話になった。
「宮大工と文化財修復大工は違う。若いのにはやめるな、けがするなしかいわないことにしている。森さんの息子と一緒の仕事ができればいいなあ」
まっちゃんばあ、「お昼上がってよ、いっぱい作ったけど捨てるわけにいかないし(これまたおもしろい言い方)」。昔はお盆のときはお粥を食べた。これからまた炊かなくてはいけない。煮物、中身汁、ショウガ入りでおいしい。ジューシー、漬け物など。ハイビスカスのジュースもここの名物。恋の歌を歌う。お盆で仏壇に手を合わせると早く亡くなっただんなさんの兵隊のときの写真あり、かっこいいねえ、というと「そうだったよ、ハンサムだったよ」、という。子どもたちは学校の用務員をやって育てた。孫が世界中にいるから、ニューヨークにも中国にも行った。よく響く声。丹田に力が入っている。

細原千代さんは大正11年生まれ、姉のヨシさんは一人で子どもを育てながら八重山病院の看護婦長になり、竹富の子どももたくさん取り上げた。妹の玉よねさんも看護婦さんで今は石垣。千代さんは台湾に働きに行って洋裁を学び、細原健吉さんと結婚し、石垣で二人の子を洋裁の仕事で育て上げた。
八重山上布など古い着物の織り地で作ったすてきな服をたくさん見せてもらった。これの展覧会をしたいぐらい。

それから軽トラックに乗って星野リゾート見学。
オープン以来かなりの稼働率。予想外に子ども連れと1人客が多い。今日も10人が1人でとまっている。プールは見えないように、集落全体を見渡せる丘を作った。プールを掘るときにでた珊瑚礁で周辺4キロの石垣を積んだとのこと。
狩俣家でまた夕飯をごちそうになる。天ぷら、エビやなすやカボチャやなんでもおいしい。刺身、中身汁。それからお盆のお参りに行って前本家で鳥と野菜の煮物、島仲家でラフテーにしまだこ、大山栄一さんの家でもずくの天ぷら。大根と人参の煮物。どれもおいしいが食べすぎだ。ひらひらと蝶が家の中を舞う。ご先祖さまの霊がチョウチョになっていつまでも去りがたいのらしい。

昼ご飯、ステーキ、カレーごちそうになる。お金をはらおうとすると「お願いだから」と富子さんにいわれる。おもしろいいいかただ、こんど真似してみよう。
野原というか島本一族はみんなで助け合って大成功した実業家。「わたしも湾生(ワンセイ)なのよ」と富子さん。10年島を出て働いた。「父が呼んでいるような気がして島に帰ってきた。母はカジマヤーをしていただいてね」。97歳になったお年寄りを風ぐるまを付けた水牛車に乗せて一巡り。幸せの象徴だ。
一回帰って昼寝。暑いから寝ないと保たない。4時半過ぎ、超人と言うべきおじい、松竹昇助さんの話を聞く。日常生活のものは全部作る話。男はガージナーという入れ物、薄縁、ご飯茶碗、汁碗は竹でつくった。「でも石垣からもう瀬戸物がはいっておったな。畳は縁が好き嫌いもあるし、みんな船で石垣まで畳替えにだした方が早いし安い」
6時過ぎ狩俣さんち、今日もまたごちそう。中身汁、タコの刺身、あげた魚のおつゆ、今日とってきたばかり、ジーマミ豆腐、サラダそして炊き込みごはん。今日も昨日とちがう若者がきてご飯を食べている。いったん帰って休息。きょうはあいのた(東集落)でゆっくり。まきさんところ、高菜旅館、東玉盛さん、雨が降ってきた。

まっちゃんばあが、歌詞の意味や昔は女も伸子棒を踊ったことを話してくれた。「昔はなんげんもなんげんもあったから一番鶏が鳴くころまで踊ったものさ。伸子棒はあれ足を高く広げるとつかれるんだよ。いろんなエピソードがあるよ、上手に踊る女がいたから追いかけて顔を見たら自分のかかあだったとか。お盆で出会ってできた夫婦もおおいでしょ。もうこの年では腰がいたくて踊れないから残念さあ。さてこれからまたなん軒かお参りして来ないと」と小さな袋を持ったまっちゃんは腰をのばした。
フィリピン沖でマグニチュード7.9の地震があり、八重山に津波警報が出たとのニュースが深夜放送でながれる。ここに津波がきたらひとたまりもない。予想は50センチとか。海に近づかないでください、としきりといっている。

8月30日 竹富島の12日

2012年10月4日 木曜日

漱石の仕事もすべて終わり晴れ晴れとした気持ちで羽田に向かう。
10時半のANAは満席。那覇空港でソーキソバを食べる。石垣3時着、竹富への船は3時半。昨年来、島の人々のはなしを聞きに三回目。
松竹荘のお婿さん、迎えにきてくれる。奥の6畳、静かなり。シャワー、トイレ付き。
狩俣恵一さんのところへいく。厳父の名がぴったりな正三郎さんは「ご先祖さまも3日で帰ってもらわんとな、大変だ」と冗談をいう。

お盆のご馳走、お刺身、たこ、ジューシー、おつゆなどいただく。
アンガマーの1軒目は内盛荘。2軒目はいんのたの大山家。祐一さんが1日だけ帰ってきている。おばあたちは「踊り、むかしはあんなじゃなかった」「伸子棒は獅子舞からきている。もっと腰を落とし、ぐっと棒を突き出さなくちゃいけない」と目を細めながらも口は厳しい。それからいんのた新田さん。
石垣では家の中で踊るが、竹富は庭で踊るからいいねえ。
夜の集落の話題は町長選。有力候補は西表に役場をうつすといっている。こりゃ一大事だ。石垣にいまはあって便利なのに。石垣在住の職員もいる。離島間のフェリーもない。ムーヤマヤーヤマの神がなんというか、など侃々諤々。

8月31日 お盆の二日目

2012年10月4日 木曜日

朝ご飯、もずく入りの炊き込みご飯、豚もはいっている。「おしょうろのときはいつもこれを食べたものよ。もずくはあとから入れるのよ、じゃないとだーっと跡形もなくなるよ、ピーヤシを刻んでいれると香りがいいよ。最も昔はご飯がないころはアンガマーはおかゆと決まっていたさ」
沖縄ソーセージ、卵焼き、サラダ、鮭缶、わかめのみそ汁。
ゆがくかんにて資料調査。阿佐伊さん、「波照間のじいちゃん、勝連さんもカジマヤーすぎたから話を聞いておいてください。波照間は船がでにくいから先に行った方がいいよ」。愛子さん「神司はお盆はやることないけど、これから忙しいよ。結願祭、敬老会、あたりから種取、お正月までは忙しい」
10時過ぎ、上勢頭芳徳さんに2年間の公民館長としての苦労を聞く。

中筋の野原富子さんのところに行く。健さんのお嫁さんの亜季さんは小樽出身、美大をでて竹富で健さんと出会う。「うちはほんとにいい子がきてくれたの。感謝してる」と富子さん、亜季さんは「このまえも台風がくるというから家で見るDVDもたくさん借りてさあ、と思ったらたいしたことがなかった。台風がくると少し休めていいね」とのこと。

8月25日 「子」問題

2012年9月24日 月曜日

ドイツから清水里美さん、沖津の山梨道夫さん来る。きょうはすわ神社のお祭り。暑いので町歩きというより歩きのみ。まずはそば川村で喜楽長で穴子の天ぷら、鴨、たまごやき、せろり、それから神社、富士見坂、谷中銀座、また暑くて山岸で、うなぎ、鯉のカルパッチョ、肝やきなどでビール、それから須藤公園を抜けてわが工房に案内し、による被災地や福島の記録について、ドイツの脱原発に付いてなど話す。里美さんを千駄木駅に送り、みっちゃんと焼き鳥屋でビール、さすがに飲み過ぎ。

いつも悩むことであるが、『千駄木の漱石』でも女性の名前の不統一が気になる。
例えば夏目鏡子はこの名で本を出している。『漱石の思い出』。一般的には鏡子で通っているが、しかし戸籍名はキヨ、お鏡さんとも呼ばれていたに違いない。『道草』の妻はお住と呼ばれている。子どもも恒、お恒、恒坊などと呼ばれていた。
反対に漱石の母は千枝だけど千枝子なのかもしれない。家系図でも漱石の姉は澤、さわとあって澤子となっていないし、房、ふさ、とあって房子ではない。この曖昧な線引き。漱石の思慕の人も嫂登世、日根野れんは子がついていない。大塚楠緒子と楠緒は両方の表記がある。ややこしい。
森峰はわたしはずっとこの表記を使って来たが、『鴎外・母の日記』は森峰子著となっているそうだ。それはずっとのちに出した人がしたこと。大昔は男性にもかわいいを著す子を付けた。平安時代の宮中では一条天皇の彰子、定子が音読みで読まれた。しかし庶民の女性はみね、さだ、あき、りょう、いく、と二文字が普通で、それは明治になってもつづいた。しかし家族や知識人の女性が「子」を付けることをおしゃれと感じたり、手紙などあらたまった時に付けたりした。樋口一葉もなつ、奈津、夏子などといろいろ署名している。鳳しようが本名の与謝野晶子はしように晶子の名を当てた。
『鴎外の坂』でも峰、しげ、きよを使って喜美子、登志子を使うのはおかしいかったかも。結論、江戸時代生まれの人は峰、明治生まれは鏡子にした。

8月23日 芝居を観に埼玉へ

2012年9月24日 月曜日

映像蜷川演出によるオールメール、すべて男が演ずるシェクスピア『トロイラスとクレシダ』を見に行く。松岡和子による翻訳は例によってすばらしい。舞台装置と衣装はなんだか既視感がある。トロイラスの山本裕典はがんばっているのはわかるが、あいかわらずセリフが聞き取れない。クレシダの月川悠貴は声が低いのはともかく、ちっとも恋の情熱が伝わってこない。あとの俳優もシャウトしすぎ、たかお鷹と小野武彦のベテラン二人が印象に残った。まあ美しい青年たちを見に行ったようなものだけど。

8月21日 小諸藤村文学賞

2012年9月10日 月曜日

きのう、追分の油や旅館が改装して泊まれるというので行って見た。夜はまえのささくらなるおいしいそば屋で信じられなくおいしくてお値打ちなつまみでお酒を飲む。
油屋はこれまた奇しくも『羊の歌』で加藤周一が中学の頃、妹と1ヶ月滞在していた所で、ここで「ぼく、立原です」と自己紹介する詩人に好感を抱いている。油屋はいま経営を手がけている斎藤ゆうこさんの話しによると昭和13年に一回焼けて、そのときは立原は2階にいて危うく焼け死ぬ所だった。その後、前っかわに建て直す。そのへんのことも加藤周一は書いている。軽井沢を『金持ちと外国人と金持ちぶりたい人』のいる所、と書いている。いまもそうだ。以前の軽井沢は林間に軽やかな木の別荘が見えてそれでもよかったが、いまはみんな成金趣味のコンクリートとガラスのざまざましい建物がおおくなってまったくいや。
小諸のほうがずっといい、と言って新幹線開発から取り残されてしまった。そのため昭和の面影の残る店が多く、気持ちがゆったりする。今年は応募作の水準が高く、表彰式もたくさんの方が見えた。受賞者のおとうさんが川上村のレタスを持って来てくださった。レタスをもらって東京へ帰る。

8月20日 ソーラーシステム

2012年9月10日 月曜日

世田谷の北沢タウンホールでソーラーシステムをめぐる勉強会あり。保坂展人さんは八ッ場ダムの反対でもご一緒したが参議院議員より世田谷区町のほうが似合うみたい。
首長は権限を持って新しいことをどんどんやれるのだし。きょうわかったこと。
*東京では風力や地熱は無理なのでソーラーが一番実際的。
*初期の高くて壊れやすいソーラーを付けた意識の高い人は日本に30万人いた!
*2004年まではドイツより日本のほうがソーラーの設置は多く世界一だった!
*ドイツの原発は止まっているわけではなく、2022年の廃止に向けて留めている途中。それも政府は法律を変えて原発を再度やろうとしたが福島の事故であきらめた。
*世田谷では補助金も活用して一台72万円ほどのソーラーを1000付けることを発表、問い合わせもおおい。
*世田谷区では区の施設の電気を東京電力からでなくPPS(新規事業者)から買うことにした。問題は大口でないと他から買えない。PPSが少ないので、世田谷が買うことにしたら他の区はPPSから買えない現状。
*問題は、都市住民は集合住宅がおおいので、どうやってマンションでソーラーをやるか?屋上に付けるなどできるか?
*(ここが重要)行政でソーラーを付けても風車を建てても次の担当者に熱意がないとやめたり壊れたりする。個人宅でもつけたけれど故障していたり使ってないものが1ー2割ある。(私も新し物好きで付けても、すぐ飽きちゃいそうです。物理化学2だし)
*そのためソーラーの持ち主のネットワーク化、故障の相談が必要。
*ソーラーの難点は蓄電が難しいこと。
*売電法以来、大きな業者がどんどん発電に参加しはじめている。
*日本は風力、地熱、水、森林と資源に恵まれた国。(資源のない日本という言い方に載らないようにしなくては)その上技術もある、という希望の持てる話だった(以上文責森)。
大事なことはコミュニティで個々が協力して発電や売電出来るという所で、設けるためのメガソーラーなんて話に乗ってはいけないということ。

8月19日 りんご野

2012年9月10日 月曜日

岩城さんという女性が見えた。青森出身でもと映像関係の仕事、パリ在住の藤本さんというマンガの翻訳家の同郷人と友だちのりんご園と協力して福島の子どもたちに汚染されていないりんごを送る活動をしている。ペクチンがセシウムの排出にいいという論文はチェルノブイリのあと、けっこうあるというが、それは別として汚染されないおいしいりんごを食べることはいいことだと思う。興味ある方は
りんご野 http://ringono.com/
その一方、『真実はどこに』という映画の日本語版を作り広めている。これまた興味深いものである。