9月1日 お盆の三日目

朝ご飯、村田さんに10時ごろから松竹荘のフーヤで与那国家の保存修復について話を聞く。村田さんは滋賀県の文化財係で40年近く設計管理一筋で、前倒しに役所をやめたときに与那国家に行ってくれといわれた。ここで大工を育てる。ここの材料で作ることにこだわった。イヌマキの手配、瓦をどこのをつかうか、壁土も地元の粘土をつかった。隣りに住むまっちゃんばあ(古堅せつさん)にはお茶の世話にはじまり、何から何まで世話になった。
「宮大工と文化財修復大工は違う。若いのにはやめるな、けがするなしかいわないことにしている。森さんの息子と一緒の仕事ができればいいなあ」
まっちゃんばあ、「お昼上がってよ、いっぱい作ったけど捨てるわけにいかないし(これまたおもしろい言い方)」。昔はお盆のときはお粥を食べた。これからまた炊かなくてはいけない。煮物、中身汁、ショウガ入りでおいしい。ジューシー、漬け物など。ハイビスカスのジュースもここの名物。恋の歌を歌う。お盆で仏壇に手を合わせると早く亡くなっただんなさんの兵隊のときの写真あり、かっこいいねえ、というと「そうだったよ、ハンサムだったよ」、という。子どもたちは学校の用務員をやって育てた。孫が世界中にいるから、ニューヨークにも中国にも行った。よく響く声。丹田に力が入っている。

細原千代さんは大正11年生まれ、姉のヨシさんは一人で子どもを育てながら八重山病院の看護婦長になり、竹富の子どももたくさん取り上げた。妹の玉よねさんも看護婦さんで今は石垣。千代さんは台湾に働きに行って洋裁を学び、細原健吉さんと結婚し、石垣で二人の子を洋裁の仕事で育て上げた。
八重山上布など古い着物の織り地で作ったすてきな服をたくさん見せてもらった。これの展覧会をしたいぐらい。

それから軽トラックに乗って星野リゾート見学。
オープン以来かなりの稼働率。予想外に子ども連れと1人客が多い。今日も10人が1人でとまっている。プールは見えないように、集落全体を見渡せる丘を作った。プールを掘るときにでた珊瑚礁で周辺4キロの石垣を積んだとのこと。
狩俣家でまた夕飯をごちそうになる。天ぷら、エビやなすやカボチャやなんでもおいしい。刺身、中身汁。それからお盆のお参りに行って前本家で鳥と野菜の煮物、島仲家でラフテーにしまだこ、大山栄一さんの家でもずくの天ぷら。大根と人参の煮物。どれもおいしいが食べすぎだ。ひらひらと蝶が家の中を舞う。ご先祖さまの霊がチョウチョになっていつまでも去りがたいのらしい。

昼ご飯、ステーキ、カレーごちそうになる。お金をはらおうとすると「お願いだから」と富子さんにいわれる。おもしろいいいかただ、こんど真似してみよう。
野原というか島本一族はみんなで助け合って大成功した実業家。「わたしも湾生(ワンセイ)なのよ」と富子さん。10年島を出て働いた。「父が呼んでいるような気がして島に帰ってきた。母はカジマヤーをしていただいてね」。97歳になったお年寄りを風ぐるまを付けた水牛車に乗せて一巡り。幸せの象徴だ。
一回帰って昼寝。暑いから寝ないと保たない。4時半過ぎ、超人と言うべきおじい、松竹昇助さんの話を聞く。日常生活のものは全部作る話。男はガージナーという入れ物、薄縁、ご飯茶碗、汁碗は竹でつくった。「でも石垣からもう瀬戸物がはいっておったな。畳は縁が好き嫌いもあるし、みんな船で石垣まで畳替えにだした方が早いし安い」
6時過ぎ狩俣さんち、今日もまたごちそう。中身汁、タコの刺身、あげた魚のおつゆ、今日とってきたばかり、ジーマミ豆腐、サラダそして炊き込みごはん。今日も昨日とちがう若者がきてご飯を食べている。いったん帰って休息。きょうはあいのた(東集落)でゆっくり。まきさんところ、高菜旅館、東玉盛さん、雨が降ってきた。

まっちゃんばあが、歌詞の意味や昔は女も伸子棒を踊ったことを話してくれた。「昔はなんげんもなんげんもあったから一番鶏が鳴くころまで踊ったものさ。伸子棒はあれ足を高く広げるとつかれるんだよ。いろんなエピソードがあるよ、上手に踊る女がいたから追いかけて顔を見たら自分のかかあだったとか。お盆で出会ってできた夫婦もおおいでしょ。もうこの年では腰がいたくて踊れないから残念さあ。さてこれからまたなん軒かお参りして来ないと」と小さな袋を持ったまっちゃんは腰をのばした。
フィリピン沖でマグニチュード7.9の地震があり、八重山に津波警報が出たとのニュースが深夜放送でながれる。ここに津波がきたらひとたまりもない。予想は50センチとか。海に近づかないでください、としきりといっている。