‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ

5月17日

2013年6月24日 月曜日

家のお米がなくなって、息子たちのリクエストで鳴子の米プロジェクトの『雪むすび』を注文の電話をかけた。去年は東北の別の米を買ったのだった。ところが去年秋の雪むすびは12月前に完売。NHKのテレビ放送のあと注文が殺到したという。いい事だけどなんだか割り切れないような。一昨年も昨年も今頃、注文してもあったのに。いっぽう東北のほかの米農家はなかなか米が売れなくて苦しんでいる。

メディアの威力と言うものになんだか、あーあ、である。

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森鴎外43歳が日露戦争従軍時に第二軍軍医部長として妻へ書いた手紙。「今度は何万と言う兵隊がもう15日も居るが悪い病をここで発したものはまだ殆ど無い位だ」(明治36・4・7)、「我が跡をふみもとめても来んといふ遠妻あるを誰とかは寝ん」(4・17)。「奉天には遊びどころがあって女なんどもいるので人がだいぶいくようだ。おれにはなんでそんな馬鹿な事ができるたらはたから見ても分らない」(38・4・20)

5・15

辺見庸さんの毎日新聞のインタビューがすごい。震災後のマスメディアの自己規制について。わたしも『震災日録』についていうと言いたい放題と言うわけにはいかなかった。自己規制は普通の人を傷つけないか、というところに働いた。でもみんなを傷つけない言説なんてありえない気がする。

「今の世に神経衰弱にかからぬやつは金持ちの魯鈍ものか、無教育の無良心の徒さらずば、二十世紀の軽薄に満足するひょうろく玉に候」
「小生千駄木にあって文を草す。左右前後に居るもうろくども一切気にくわず、朝から晩まで喧嘩なり。」
「僕は世の中を一大修羅場と心得ている。そうしてそのうちにたって華々しく討ち死にをするか、敵を降参させるか、どっちかしてみたいと思っている」

漱石には励まされる。

5月16日

2013年6月24日 月曜日

橋下大阪市長の発言は女性議員や女性団体から総攻撃されている。「性的欲求が強い若い男がたくさんいる軍隊の近くに慰安婦のようなものは必要だ」という考えなのだと思う。それで沖縄の司令官にあからさまにも「風俗をもっと利用して」といったのかもしれないが、自分を基準に物事を考えてはいけない。だいたい大阪市長が沖縄の風俗を利用しろとは余計なおせっかいだ。愛人が何人もいたと書かれて、「ぼくはそのころ政治家じゃなかったし、聖人君子じゃない」とさらっと逃げたのものの、今回馬脚を顕わすと言う事か。ほかの政治家の反応が鈍いのはみんなすねにきずを持つ身か。そうでない男性も多いとおもう。例えば

森鴎外43歳が日露戦争従軍時に第二軍軍医部長として妻へ書いた手紙。「今度は何万と言う兵隊がもう15日も居るが悪い病をここで発したものはまだ殆ど無い位だ」(明治36・4・7)、「我が跡をふみもとめても来んといふ遠妻あるを誰とかは寝ん」(4・17)。「奉天には遊びどころがあって女なんどもいるので人がだいぶいくようだ。おれにはなんでそんな馬鹿な事ができるたらはたから見ても分らない」(38・4・20)

5・15

辺見庸さんの毎日新聞のインタビューがすごい。震災後のマスメディアの自己規制について。わたしも『震災日録』についていうと言いたい放題と言うわけにはいかなかった。自己規制は普通の人を傷つけないか、というところに働いた。でもみんなを傷つけない言説なんてありえない気がする。

「今の世に神経衰弱にかからぬやつは金持ちの魯鈍ものか、無教育の無良心の徒さらずば、二十世紀の軽薄に満足するひょうろく玉に候」
「小生千駄木にあって文を草す。左右前後に居るもうろくども一切気にくわず、朝から晩まで喧嘩なり。」
「僕は世の中を一大修羅場と心得ている。そうしてそのうちにたって華々しく討ち死にをするか、敵を降参させるか、どっちかしてみたいと思っている」

漱石には励まされる。

5月14日

2013年6月24日 月曜日

マンションも4人暮らしだと狭い。トイレも一つだとたりないね、という。きょうは自転車を2台廃車にし、オートバイも一台廃車、借りているスペースを返す。

シェアハウスのようなものだけに、ルールと役割分担を決めなければならない。

5月13日

2013年6月24日 月曜日

も一泊、ひとりになりたくて松の湯に泊まり、朝11時の特急草津で帰って来る。特急とはいえ、のんびりした速度。赤羽でおり、エキュートでランチ。王子から南北線で帰る。この方が近い。

5月12日

2013年6月24日 月曜日

お昼まで吾妻渓谷を散策。藤の華が美しい。こんな新緑の八ッ場は初めてで、あらためてこんな美しい場所をダムの底にすることへの怒りが湧く。午後はバスで現地見学会。渡辺さんの説明は分りやすい。しかし湖面2号橋もつながり、代替地には家が立ち並び、もう既成事実が積み重ねられている。それでも負け犬の遠吠え、あんな危ないダムはない。負け犬の遠吠えかも、わおーん。

5月11日

2013年6月24日 月曜日

余り天気はよくないが、予定通り信州上田から山に入って40分ほど、真田というところにある「らいてうの家」を見学。タクシーだと一万円くらいかかるところ、コラムを連載中の信濃毎日新聞N記者が「僕も勉強したいから」と車を出して下さった。冬期は休館なので、ようやく初夏とともにあいて、青鞜の実物が陳列してあった。私の持っている不二出版の復刻版では創刊号が真っ黄色。しかし今まで出た本には皆クリーム色と書いてある。実際には古びているから元の色は分りづらいがクリーム色がただしそう。また復刻版はみな同じ大きさに断裁してしまうが、青鞜の創刊号はほかの号よりサイズが大きい。おお、これも谷根千と同じ。創刊号だけ千駄木三丁目の楠山タイプ印刷所で刷ったので、その後三盛社で刷ったものとは一回り大きさが違う。

らいてう遺愛の茶飲みや硯、手箱、孫とお燗をつけた徳利、趣味のいい蒼い紬、ピンクの毛糸のショールなども見ることができた。

その回りは土曜日と言うのに、まだシーズンではないのか、宿も店もお休み。どんどんいって鹿澤温泉紅葉館付設のそばやを見つけた。これが素晴らしいそば。

明治の初めに開業し、大正に大火があって殆ど新鹿沢温泉に越したがこの宿だけは現地に残ったそうな。おそばとお風呂で1100円、これが素晴らしいお風呂。そのまま川原湯温泉へ。よる宿「ゆーあい」のご主人にバーでご馳走になる。

5月9日

2013年6月24日 月曜日

シアターコクーンで長塚圭史の芝居がかかるので見に行く。山田風太郎の『魔群の通過』を原作としたものだが、舞台美術、衣装、そして白石加代子の演技には感心した。白石さんてあんなにほっそりしていたっけ。ただ歴史的にそう著名でもない人物がたくさん登場してしかも口跡がはっきりしないものだから、やや筋も分りにくかった。また二階袖のML-1と言う席だったが照明でほとんど舞台が隠れ、こんな席を7000円で売るとは信じられない。風太郎さんに私の持っている初版の『魔群の通過』にサインしてもらった幸せな日を思い出す。山川菊栄『幕末の水戸藩』をなぜかよみたくなる。

5月8日

2013年6月24日 月曜日

東京新聞の『漱石と美術』に関する打ち合せ。

らいてうに戻って、あれほど、結婚するしないの自由、子どもを生むうまないの自由を掲げ、連れ合いの籍にもはいらず、子どもを産んだら里子に出そうか迷ったほどの人が、どうしてあんなにたわいなく母性主義になり、優生思想に傾き、戦争を礼賛して御民われに陶酔したのか。わからない。自伝でも戦中は自分の思想が飛躍した時期と書いているが、そこは空白、実は右傾化した時期なのであって、その反省も自己総括も無いまま、戦後は平和運動。女性運動のリーダーに担がれる。青鞜を野枝にゆずって、というか、奪われたらいてうみたいになりたくないと思って来たが、戦時にらいてうみたいにぶれたくない。そのてん野上弥生子はおなじくエリート主義ではあるが賢かったし、先が見えていた。

宮本百合子の思想はらいてうよりよほど体系的だ。さとこと「死んどいてよかったひと」をあげる。与謝野晶子も1940年に死んどいてよかった。生きてたら、もっとすごい戦争協力をしていて今みたいに「君死にたまふことなかれ」の反戦詩人として教科書には載らなかったかも。宮沢賢治も死ななかったら国柱会――石原莞爾の方へ引っ張られていた可能性が大。鉄幹なんて『肉弾三勇士のうた』を書いたくらいだから推して知るべし。

5月7日

2013年6月24日 月曜日

『青鞜の冒険』今更あれこれ書き足したくなるが、編集者ぽん太さんの顔が浮かび、なかなか。でもゲラはすでにまっか。らいてうの自伝でなく、野枝のリアルタイムの『雑音』をもうちょっと使うべきであったとか。自伝も後からでた4巻本より、1955年の「わたくしの歩いた道」のほうが正直でずっといい。それを小林登美枝さんに聞かれるまま詳細にしたが4巻本なのだが、書き足した部分に惑わされたり、大本教との関わり、先祖崇拝、そのほか戦後民主主義、科学的社会主義の立場からはどうかなと思うようなところが上手に削られているかんじ。

時代によるものだとはいえ、らいてうには学歴、権威、都会からみた差別が拭えない。「なまりが気になる」「田舎の村夫子然」といった表現、自分のことを語っても「なのでした」「のようでした」とまるで他人事のようなひややかさ。

だいたい声も小さくはにかみ屋だと自任しているのに、どうしてこんなにたくさんの役職、要職を引受けたのか。家父長制や旧来の家族関係を否定してながらく結婚せず子どもを非嫡出子で届けた勇気あるひとが、食事や来客の世話まで息子の嫁にさせて「ありがたいことでした」ですましているなんて。山川菊栄との関係も戦後、菊栄が労働省婦人局長をしてから娘婿を転勤先からお膝元に呼び寄せてくれた事に「配慮」を感じたりしている。それってただのコネじゃないか? と読めば読むほど反発やあきれたりもするのだけど、私には一ミリも似ていないこの人が気になるのはたしか、ぽん太は「らいてうさんへの愛を感じますよ」と言う。

4月28日-5月6日

2013年5月8日 水曜日

ゴールデンウィーク中は『青鞜の冒険』の校正。平塚らいてうはわが小学校4年以来のヒロインであるが、反発し、あきれ、いやになり、やっぱりすごいと思う、その繰り返し。らいてうは事業を思いつく、何がなんでもしなければと思う、仲間を募ってやる、体力が続かない、頭痛がする、都会がいやになる、海や山に逃げ出す、これを生涯くり返している。まあ、飽きるのも才能のうち、しかし富や名声のためにしたのではない。茨城に17年に疎開してしまうのは空襲を予見し、食料を手に入れ、戦時体制に巻き込まれないためとはいえ実に見事。そのことがいま東京から九州や沖縄などに疎開している原発避難者の問題と重なって見える。野上弥生子も山川菊栄も白洲正子も実に見事だったしなあ。でも私のシンパシーは日米戦争に勝つと信じてモンペで防火訓練をし、家の下に防空壕を作って、浅草で焼け出されたわが母のほうにある。でも編集の山本さんに「悪口ばかりいってる割には森さん、らいてうに愛情感じますよ」「何だ、好きなんじゃないですか」と言われる。尾竹紅吉は文句なしに好きだなあ。