2012年10月 のアーカイブ

9月6日

2012年10月4日 木曜日

朝、自転車で島内散歩、よい地図もなく、サインもない。ブロックを赤く塗って「集落」と書いてあるだけ。あとは「徐行」、この素っ気なさがたまらないのかもしれない。サトウキビ、牛が主な産業のようだ。農水省の補助事業が多い。その看板はあちこちに立つ。畜産振興助成事業もあった。最南端の碑。お昼は「はなはな食堂」でゴーヤとトマトのパスタとビール。食べ物屋は皆ちょっとナチュラル系の外来者がやっている雰囲気。そのまま泳ぎに行く。ひと多し。足まで透き通って見える。
「あやふぁみみ」できょうはカレーと魚のバター焼きを食べた。隣の2人は同じ宿の模様。こっちに来ませんかといって一緒に飲み、割り勘にする。夜、ゆんたく。どこからきました? これからどこいきます? どこの宿がいいですか? あとはマンガやアイドルの話でおばさんはついていけない。星を見に暗がりにいく。それから相部屋の子がいつまでも帰って来ないので、ナンパされたかな、と心配になったが、翌朝聞くと5人で海まで行ったそうな、月明かりで海がよく光ってみえたとのこと。

9月5日

2012年10月4日 木曜日

朝、井戸のあと、記念碑を見る。大山さんはサトウキビ畑の裏、しゃがんで土を耕していた。
波照間さんのおくさん、今日は皆石垣にゲートボール大会に行っている。昨日の福地さんが資料を持ってきてくれた模様。波照間島の宿を取るのを忘れていた。あちこちかけてやっと一軒とれた。航路快適、客多し。上陸して「レンタカーはありませんか」といっても「もうないよ」とつれない。もう貸し手市場という感じ。クーラーはただだが、朝食だけついて7000円。高いな。
あちこちに波照間飛行場を再開を、と看板が立つ。たくさんの赤瓦の家。町並み保存もできなくなない。でも制度にのらず、このくらいの方が気が抜けていい。

家中さんと勝連さんの話を聞きに行く。じんそつ、というのは尋常高等小学校卒業のことらしい。石垣で兵隊をした事、議員を何期もやった話など。家中さん帰る。
商店で元学芸大の小谷部先生にばったり。どうしてここに、と手を取り合ってしまう。
この店のシャーベットがおいしい。西表を見晴らす要塞で会った女の子がゲストハウス「なみ」をおしえてくれる。戻って予約、7時半に刺身と豆腐が出るそうだ。「あやふぁみみ」でスーチカ定食とビールそして島野菜のピクルスを食べる。本棚によしもとばなな、田口ランディがたくさん並んでいる。夕食後に西の浜へ向かい、きれいな海で泳いで、夕日を見て帰った。

夜、おでんやへいく。店の中はまぶしい。てびちと卵をたのんだら「青菜も入れましょうね」という、この応対がうれしい。旦那さんは役場を辞めてこの商売を開いたばかり。奥さんの実家は石垣でおでんや、前の街灯は塾に行く子どものために付けた、と一人旅の私に親切に話しかけてくれる。でも波照間に塾があるとは。2階のベランダにふく風が気持ちよい。

9月4日

2012年10月4日 木曜日

午前中、竹富出身者のところを回ってみる。小底朝生さんはおくさんと暮らしている。農業だけを続けてきた小底さんはずっとしゃがんだままインタビューに答えてくれた。
体に贅肉がないのもあるけれど、慣れた姿勢なのだろう。とうてい真似できない。一番奥の家、車のある今では高台の方が景色もいいが、その当時、井戸まで水を汲みに行くにはいかに大変だったことだろう。
波照間出身の美底千代さんは白髪のきれいなおばあだが、この髪もマラリアですべて抜けたことがあるという。マラリアの薬、キニーネをだしてもみんなのまないので、目前服用といって目の前でのませたとか。
小山さんは網を直していた。娘さんの美容院が併設されている。
昼過ぎに車を借り、家中さんといけるところまでいってみた。西表もマリンスポーツは高い。由布島は水牛車に乗ってわたるだけで1300円。

西表そばを食べる。家族連れの幼児がみそ汁をひっくり返し泣く。どこまでも続く原生林、道は一周していない。イリオモテヤマネコに注意、の看板がたくさんある。
星の砂海岸で水につかった。赤土はかなり流失しているようす。浜のすぐ裏の崖を二つの観光施設が占有して景観上よくない。その喫茶店からはきれいな浜が一望だが。
道の奥までいってみた。白浜小学校。公民館「海人の館」はとまれるようになっていた。NPOで経営していて満室。かつて西表炭坑があって三井物産経営でたくさん炭坑夫がいたのでこの先も航路があるらしい。
「由布島は私有地なんだからいくらとったっていいじゃないですか。西表温泉だって1500円とったって元は取れないといっていましたよ」と会った人は島の観光業者みたいなことをいう。東北のいい湯に300円で入って来た身にはいくら日本最南端の温泉でも1500円出して入る気はしない。
夕方7時前に宿に戻り、大宜味村から入植した団長福地景二さんの息子利供としきよさんに話を聞く。入植時中学二年生、わくわくしてきたという。といっても来る船が時化に会い、持って来たものを海に捨てたりと最初から多難だったそうだが。

9月3日

2012年10月4日 木曜日

石垣へ。9時45分の船で行き、竹富から西表に戦後入植した大谷用次さんの話を聞きに行く。石垣ターミナルに近い、まだまだ赤瓦のある一角。石垣は都会、タクシー、スーパー、市場、ライブハウス、イタリアン、エステなどもある。
用次さんは100歳、台湾の鉄道で働き、テニヤンに移住、息子さんは満州引き上げの5歳の坂本真典さんにそっくり。同じ話ばかり繰り返して、と息子さんはいうが何度も繰り返す話はそれだけご当人にとって印象が強いのだ。

マンゴーやバナナをだしてくれた。西表行きは2時40分なので、八重山そばを食べ、石垣ラー油を手に入れ、「海坊主」でコーヒー。
西表までは快適、左手に黒島、新城が見える。桟橋で竹盛旅館の用一さんが迎えにきてくれる。用次さんの三男で、子どものいない竹盛三洋さんにもらわれた。三洋さんは西表島で戦後、マラリア撲滅の第一線にたった人だった。おばさんが用次さんの妹で女丈夫。

旅館は大富の集落の中にあり、子どもが一人しかいないので、部屋が余っていて竹富や波照間からの人を泊めるうちに旅館となってしまったらしい。食事よし、気分よし、人柄よし、インターネットも使え、朝はデロンギのコーヒーメーカーでおいしいコーヒーを飲ませてくれた。広々とした部屋を専有して食事付きで7000円。また来たい宿。
夕方、高嶺方次さんの話を聞く。やすみや食堂をしていた。次男はサトウキビ栽培。
竹富に復員したが土地がなく、マラリアのある土地に行くか、といわれたがこれしかないと決断。
夜、宿の主人用一さんの話を聞く。笑顔がすてきな私より一つ上。戦後、水も食料も不足しがちな竹富島は復員兵や台湾からの引き上げ組みで人口が急増、生産力を上回ったので移民が奨励され、西表の大原近くを開拓入植した。竹富からきたときはこの辺はジャングル、天の川、のちに大富川という井戸を作った。橋はなくて泳ぐか、がんがん舟にのった。学校を整備した。共同売店を作った。班に分けた。公民館を作った。保健所を拠点にマラリア撲滅、いまでも住民は仲よく、子ども文庫など住民たちであらゆる活動をしている。公民館に入植記念碑あり。これこそほんとうのまちづくりだ。
夜は竹富を舞台にした「ツルカメ助産院」と母のいのちを助けてくれた順天堂・天野先生の「プロフェッショナル」を見て寝た。家にテレビがないので、旅に出るとテレビっこになる。

9月2日 選挙の日

2012年10月4日 木曜日

竹富では選挙カーも回ってこないんですね。というと「選挙カーなんか通らんでもみんな知っとるわ。全部票が読めとる。開票は翌日よ。離島から票を集めるから。
知事選なんかは八重山は1日先にやって石垣にチャーター船で持って行くよ、いちど波照間の便がでなくて、もう祝勝会をやっているようなときに票が届いたということがあった」とのこと。
たるりやの清水敏子さんに話を聞く。これまた壮絶な一生の物語。90というが70歳くらいに見える。
選挙は町並み館で。昨日までアンガマーで大変だったのに、今日は朝から夜7時まで。与那国光子さんは神司で、ドライバーなのにきょうは選挙管理委員。本当にお疲れさま。夕方、コンドイ浜で泳ぐ。篤さんがビールを持ってきてくれる。座るところも重たいコンクリートを持ってくる。私が動かそうとすると「動かないよ」と笑う。夕日を眺める。鷲のような雲、ピューマのような雲。大きかったのに、赤かったのに、だんだん灰色になって、遠くへ飛去ったように小さくなる。たるりやへいくが、ここも大変な込みようで、なかなか料理はでて来ない。篤さんの持ってきた新鮮な刺身でビール、ようやくでたのはチャンプルーが二品、でも90すぎの敏子さんが作ってくれていると思うとありがたくて。泳ぐとつかれて眠たい。調査をご一緒している家中さんは昌盛さんと一杯やりにに行った模様。

9月1日 お盆の三日目

2012年10月4日 木曜日

朝ご飯、村田さんに10時ごろから松竹荘のフーヤで与那国家の保存修復について話を聞く。村田さんは滋賀県の文化財係で40年近く設計管理一筋で、前倒しに役所をやめたときに与那国家に行ってくれといわれた。ここで大工を育てる。ここの材料で作ることにこだわった。イヌマキの手配、瓦をどこのをつかうか、壁土も地元の粘土をつかった。隣りに住むまっちゃんばあ(古堅せつさん)にはお茶の世話にはじまり、何から何まで世話になった。
「宮大工と文化財修復大工は違う。若いのにはやめるな、けがするなしかいわないことにしている。森さんの息子と一緒の仕事ができればいいなあ」
まっちゃんばあ、「お昼上がってよ、いっぱい作ったけど捨てるわけにいかないし(これまたおもしろい言い方)」。昔はお盆のときはお粥を食べた。これからまた炊かなくてはいけない。煮物、中身汁、ショウガ入りでおいしい。ジューシー、漬け物など。ハイビスカスのジュースもここの名物。恋の歌を歌う。お盆で仏壇に手を合わせると早く亡くなっただんなさんの兵隊のときの写真あり、かっこいいねえ、というと「そうだったよ、ハンサムだったよ」、という。子どもたちは学校の用務員をやって育てた。孫が世界中にいるから、ニューヨークにも中国にも行った。よく響く声。丹田に力が入っている。

細原千代さんは大正11年生まれ、姉のヨシさんは一人で子どもを育てながら八重山病院の看護婦長になり、竹富の子どももたくさん取り上げた。妹の玉よねさんも看護婦さんで今は石垣。千代さんは台湾に働きに行って洋裁を学び、細原健吉さんと結婚し、石垣で二人の子を洋裁の仕事で育て上げた。
八重山上布など古い着物の織り地で作ったすてきな服をたくさん見せてもらった。これの展覧会をしたいぐらい。

それから軽トラックに乗って星野リゾート見学。
オープン以来かなりの稼働率。予想外に子ども連れと1人客が多い。今日も10人が1人でとまっている。プールは見えないように、集落全体を見渡せる丘を作った。プールを掘るときにでた珊瑚礁で周辺4キロの石垣を積んだとのこと。
狩俣家でまた夕飯をごちそうになる。天ぷら、エビやなすやカボチャやなんでもおいしい。刺身、中身汁。それからお盆のお参りに行って前本家で鳥と野菜の煮物、島仲家でラフテーにしまだこ、大山栄一さんの家でもずくの天ぷら。大根と人参の煮物。どれもおいしいが食べすぎだ。ひらひらと蝶が家の中を舞う。ご先祖さまの霊がチョウチョになっていつまでも去りがたいのらしい。

昼ご飯、ステーキ、カレーごちそうになる。お金をはらおうとすると「お願いだから」と富子さんにいわれる。おもしろいいいかただ、こんど真似してみよう。
野原というか島本一族はみんなで助け合って大成功した実業家。「わたしも湾生(ワンセイ)なのよ」と富子さん。10年島を出て働いた。「父が呼んでいるような気がして島に帰ってきた。母はカジマヤーをしていただいてね」。97歳になったお年寄りを風ぐるまを付けた水牛車に乗せて一巡り。幸せの象徴だ。
一回帰って昼寝。暑いから寝ないと保たない。4時半過ぎ、超人と言うべきおじい、松竹昇助さんの話を聞く。日常生活のものは全部作る話。男はガージナーという入れ物、薄縁、ご飯茶碗、汁碗は竹でつくった。「でも石垣からもう瀬戸物がはいっておったな。畳は縁が好き嫌いもあるし、みんな船で石垣まで畳替えにだした方が早いし安い」
6時過ぎ狩俣さんち、今日もまたごちそう。中身汁、タコの刺身、あげた魚のおつゆ、今日とってきたばかり、ジーマミ豆腐、サラダそして炊き込みごはん。今日も昨日とちがう若者がきてご飯を食べている。いったん帰って休息。きょうはあいのた(東集落)でゆっくり。まきさんところ、高菜旅館、東玉盛さん、雨が降ってきた。

まっちゃんばあが、歌詞の意味や昔は女も伸子棒を踊ったことを話してくれた。「昔はなんげんもなんげんもあったから一番鶏が鳴くころまで踊ったものさ。伸子棒はあれ足を高く広げるとつかれるんだよ。いろんなエピソードがあるよ、上手に踊る女がいたから追いかけて顔を見たら自分のかかあだったとか。お盆で出会ってできた夫婦もおおいでしょ。もうこの年では腰がいたくて踊れないから残念さあ。さてこれからまたなん軒かお参りして来ないと」と小さな袋を持ったまっちゃんは腰をのばした。
フィリピン沖でマグニチュード7.9の地震があり、八重山に津波警報が出たとのニュースが深夜放送でながれる。ここに津波がきたらひとたまりもない。予想は50センチとか。海に近づかないでください、としきりといっている。

8月30日 竹富島の12日

2012年10月4日 木曜日

漱石の仕事もすべて終わり晴れ晴れとした気持ちで羽田に向かう。
10時半のANAは満席。那覇空港でソーキソバを食べる。石垣3時着、竹富への船は3時半。昨年来、島の人々のはなしを聞きに三回目。
松竹荘のお婿さん、迎えにきてくれる。奥の6畳、静かなり。シャワー、トイレ付き。
狩俣恵一さんのところへいく。厳父の名がぴったりな正三郎さんは「ご先祖さまも3日で帰ってもらわんとな、大変だ」と冗談をいう。

お盆のご馳走、お刺身、たこ、ジューシー、おつゆなどいただく。
アンガマーの1軒目は内盛荘。2軒目はいんのたの大山家。祐一さんが1日だけ帰ってきている。おばあたちは「踊り、むかしはあんなじゃなかった」「伸子棒は獅子舞からきている。もっと腰を落とし、ぐっと棒を突き出さなくちゃいけない」と目を細めながらも口は厳しい。それからいんのた新田さん。
石垣では家の中で踊るが、竹富は庭で踊るからいいねえ。
夜の集落の話題は町長選。有力候補は西表に役場をうつすといっている。こりゃ一大事だ。石垣にいまはあって便利なのに。石垣在住の職員もいる。離島間のフェリーもない。ムーヤマヤーヤマの神がなんというか、など侃々諤々。

8月31日 お盆の二日目

2012年10月4日 木曜日

朝ご飯、もずく入りの炊き込みご飯、豚もはいっている。「おしょうろのときはいつもこれを食べたものよ。もずくはあとから入れるのよ、じゃないとだーっと跡形もなくなるよ、ピーヤシを刻んでいれると香りがいいよ。最も昔はご飯がないころはアンガマーはおかゆと決まっていたさ」
沖縄ソーセージ、卵焼き、サラダ、鮭缶、わかめのみそ汁。
ゆがくかんにて資料調査。阿佐伊さん、「波照間のじいちゃん、勝連さんもカジマヤーすぎたから話を聞いておいてください。波照間は船がでにくいから先に行った方がいいよ」。愛子さん「神司はお盆はやることないけど、これから忙しいよ。結願祭、敬老会、あたりから種取、お正月までは忙しい」
10時過ぎ、上勢頭芳徳さんに2年間の公民館長としての苦労を聞く。

中筋の野原富子さんのところに行く。健さんのお嫁さんの亜季さんは小樽出身、美大をでて竹富で健さんと出会う。「うちはほんとにいい子がきてくれたの。感謝してる」と富子さん、亜季さんは「このまえも台風がくるというから家で見るDVDもたくさん借りてさあ、と思ったらたいしたことがなかった。台風がくると少し休めていいね」とのこと。