2012年2月 のアーカイブ

震災日録 2月7日 宜野湾のラブホテル

2012年2月20日 月曜日

15時の便で沖縄へ。雨。寒い。朝日新聞支局は沖縄タイムスの中。早速宜野湾へ。
海岸ベリにはリゾートあり。宜野湾市は94000人。真ん中に普天間基地。「よこぎりゃはやいのに、いつも基地が邪魔」。軍用地主は3000人、年間1000万以上もはいる人が1パーセントいるという。復帰後も年金を払っていない人が多く、その地代が年金代わりだというが。そりゃ筋違いだろう。いまさらサトウキビ畑には戻せない。油漏れなどで汚染されている。復帰前は1坪コーラ1本分だったのに、4倍、7倍にした。それは基地漬けにするため。復帰後、急速に宅地化されたという。泊まったホテルははっきり言って復帰以前からあるラブホ。ダブルベッドに枕二つ。ハワイの絵。緑色の冷蔵庫、女の長い髪。

震災日録 2月6日 古いチラシ

2012年2月20日 月曜日

夕方、ヤマサキ、仰木と千石3丁目の港屋に谷根千、小石川の店のチラシを観に行く。どんな店があったかわかり、とても興味深いが、古いチラシが一枚平均1000円なので個人で買える資料ではない。月日だけはいって年が入っていないのも年代特定が難しい。エンタクの広告。北原白秋の弟がやっていたアルスの広告。めずらしい。文京区が買えばいいが。

震災日録 2月5日 コミセンの歴史

2012年2月20日 月曜日

谷中コミュニティセンター委員長の浅尾空人さんにはなしを聞きに行く。
昭和56年頃からのコミセンの歴史を詳しく。台東区長内山さんが安上がりで、住民参加の施設づくりをどうやってきたか、などなど。お父様は桜木、谷中の美術家と深い親交を結んだ方でした。

震災日録 2月4日 官僚だけが肥え太る

2012年2月20日 月曜日

変質性岩の専門家藤本さんも合流。雪深い川原湯温泉近くを見てあるく。お昼は旬さんの野菜ラーメンでみんな体を温める。ここのコーヒーは大きなカップになみなみあって400円。おいしい。地域の人たちはもう政府の何度もの方針転換に翻弄され、疲れきり、動じない。しかし地滑りしやすい切り土と盛り土の代替地へ移るかどうか、悩んでいる。あらためて60年の人生を国にめちゃくちゃにされた人々に申しわけない。下流都県民の税金も注ぎ込まれ、そのために作るという名目なのに。国とは国民の幸せのためにある組織ではないのか? しかしいったん官僚と言う利権集団があいだに入ると、税金を吸い取り、それを公共の福祉の名の下に自分たちのいいように使うだけ。税金で視察をし、税金で天下り団体を作り、不必要な公共工事で国土を荒らすだけ。

震災日録 2月3日 地質から見た八ッ場ダム

2012年2月20日 月曜日

八ッ場ダムを見てくださる地質学者の方々のお供。東川口駅で伊藤さん、中山さんと待ち合わせ。地質屋さんはさすがにアウトドアな恰好でやって来た。私を見て、戦後のかつぎ屋みたいだな、という。藪に入ったらいっぱい草がつくよ、その通りになった。
湖面1号橋も高い橋脚が建ってしまった。地質学者のいうことはスケールが大きく300万年前の新しい地層などというのでビックリ、天明二年の浅間山の噴火灰のあととか、地質を見るだけでいろいろなことがわかる。貫入という下からはいってくる地層、熱変質と言って100度から200度までの熱水でもろくなった地層などあり、そんなものがダムの下や代替地にあれば、かなり危ないことだろうとわたしは思う。しかし科学者たちは、慎重であって断定的なことは言わなかった。

震災日録 2月2日 高台からなぜ戻るのか?

2012年2月20日 月曜日

毎日何となく体調不良、喉が痛い。
寒いところにいすぎたせいか。でもヒートテックは化繊でだめだしなあ。絹の下着を着ています。さいきん「官僚」と言う文字を見ただけで吐き気がするようになってきた。「興す」という字もだめ、興業、興産なんて会社がこの日本をずたずたにしてきたから。「開発」という字も活性化という字にもアレルギーをおこしているわたし。
山口弥一郎『津波と村』(昭和18年の復刻、三弥井書店)を読む。明治28年と昭和8年にも大変な津波に襲われて村がなぜ現地に戻ってしまうのかを研究した在野の民俗学者の本。せっかく高台に移動しても誰かひとり海際に降りて大漁でもうけたり、後から入ってきた漁師がいい目を見たりするとどうしてももとのところに戻りたくなると言う。『1人でも降りたらおわりです』と山口さんは話していたと言う。おすすめ。
午後、妙蓮寺の矢萩多聞さんの家で南インド料理をご馳走になる。

震災日録 2月1日 4年のうちに70%?

2012年2月20日 月曜日

たまった仕事。夜はのんきに行って、友人たちとそのあと東大バーへ。
直下型地震が4年のうちに70パーセント起ると東京大学地震研究所発表。3・11での失敗を取り戻そうと、誇大にいっときゃ間違いないということなのかな。
税金を使って研究しているのになんにも役に立たないどころか、パニックを起こすようなことを今さら言ってどうする。週刊誌には東京で危ない避難所として東大があがっている。あそこには逃げない方がいいと思う。

震災日録 1月31日 神田のイワト

2012年2月2日 木曜日

東京の人口は2060年には8600万台になるとか。ひしめき合う島国が適性規模になるのはイイコトだが、年寄ばかり多くなるのは若い人の負担が大変。
日暮里富士見坂からの眺望をさえぎる住友不動産のビル。これにたいしイコモスが富士山の眺望は文化的な価値が高いとしてこれをさえぎるビル計画に勧告。イコモスはユネスコと連携して世界の文化遺産、自然遺産を守っているNGO。富士山を世界遺産に登録したいと願っている日本政府に取っても無視できない勧告だ。
http://fujimizaka.yanesen.org/
神楽坂イワトを主催しておられた平野公子さん、甲賀さん夫妻と引っ越し先の神田で。再開発にもまけなかった古いビルの一角。ここでなにをしようかという相談。3月4日、古今亭志ん輔師匠がまず3月4日になんと『真景累が淵』をやるという。前段通しに3年かけて。ウームいかずばなるまい。
http://www.studio-iwato.com/studio/
甲賀巨匠に久しぶりにお願いした中公文庫『昭和文芸史』が1月刊。装幀かっこいいです!

震災日録 1月30日 青鞜のあとを訪ねて

2012年2月2日 木曜日

朝から喉が痛い。昨日の冷えがきたのだろう。だから2月の蔵は寒いよ、といったのに。3時半にポン太こと弟子の山本明子が「師匠」と来てふたりで青鞜のあとを訪ねて歩いたのであるが、寒いこと寒いこと。5時すぎ、鴬谷の「うぐいす」なる貝焼きの店に飛び込んだ。半年前にできた店だが貝好きの私にはこたえられない。3種類ずつお酒が飲めるのもうれしい。試飲セットだそうだがこれで十分。熱が出てきて家に帰りダウン。12時に息子と娘の話し声で目が覚め参加。エモーショナルに「かわいそう」とかいうのでなく、現実を見よ、放射線値が高い田や畑で米や野菜を造ったり、藁を牛に食べさせるのはあまりに食べ物を作っているという自覚が足りなかった、と若い二人はいう。私は知り合いの農業者の顔がちらつくが、ちゃんとした人ほど、今は責任もってつくれない、売れない、すすめられない、と農業はやすんでいるようだ。事故を起こしたのは東京電力なのだからそこに責任をとらせるしかない。
「1000人に1人、出るかどうかで、当っちゃったら身の不運。リスクを知って東京にいることを選択し、食べるものは食べる」と息子は言う。私は「50過ぎたら儲けもの、若者にはできるだけ安全な食事を食べてもらいたいが、私は友人のつくる宮城や山形の食材は支えたい」という。直下型地震が3年以内に東京で起こる確率は70%、ばらばらにいても家族を信じて心配せず逃げよう。うちの場合、避難場所は東京大学、避難所は誠之小学校、を確認する。

震災日録 1月29日 暗闇シネマ

2012年2月2日 木曜日

帰って来た。いない間に富士見坂からの眺望を守る会が盛んに動いて午前中しごと。12時に友人と新宿風紋の林聖子さんを乃池ずしにご案内。穴子寿司や卵焼きを押ししいと喜んでくださる。わが父と同じくらいの野池幸三さんが前掛け姿で天ぷらを揚げているのを見て涙。お父さんの替りだと尊敬しているのは野池さんと安野先生と島根の忠吉さん。3時より、蔵でクラヤミシネマ。サリドマイドの若い女性がサンフランシスコへ留学する作品。八王子の絹の道、土本監督の『路上』。『路上』は3回目だがこわくて正視できない。音楽も不安感をかき立てていやだ。とにかく蔵が寒くて凍えた。
終わってから兆徳で新念会。思ったとおり原発の話になる。日本中が分断されている。悪いのは東京電力なのに、普通の市民がおたがいを責め合うなんて。
若いお母さんいわく「わたしはママ友の付き合いや会話の内容もA、B、Cでわけています。A層の原発に付いても知識があり、自分の頭で判断して柔軟に対応できる人とはなんでも話せます。B層はゴミ出しに行くにも服を着替えてお化粧するようなママ。人の顔色見て日和るので本当のことは言えません。一番迷っているのはこの人たちでしょう。C層は放射線なんてたいしたことない。なんでそう気にするの? という調子なので話にもなりません」なるほどね。彼女はセシウムの性質についてもわかりやすく教えてくれた。