震災日録 1月30日 青鞜のあとを訪ねて

朝から喉が痛い。昨日の冷えがきたのだろう。だから2月の蔵は寒いよ、といったのに。3時半にポン太こと弟子の山本明子が「師匠」と来てふたりで青鞜のあとを訪ねて歩いたのであるが、寒いこと寒いこと。5時すぎ、鴬谷の「うぐいす」なる貝焼きの店に飛び込んだ。半年前にできた店だが貝好きの私にはこたえられない。3種類ずつお酒が飲めるのもうれしい。試飲セットだそうだがこれで十分。熱が出てきて家に帰りダウン。12時に息子と娘の話し声で目が覚め参加。エモーショナルに「かわいそう」とかいうのでなく、現実を見よ、放射線値が高い田や畑で米や野菜を造ったり、藁を牛に食べさせるのはあまりに食べ物を作っているという自覚が足りなかった、と若い二人はいう。私は知り合いの農業者の顔がちらつくが、ちゃんとした人ほど、今は責任もってつくれない、売れない、すすめられない、と農業はやすんでいるようだ。事故を起こしたのは東京電力なのだからそこに責任をとらせるしかない。
「1000人に1人、出るかどうかで、当っちゃったら身の不運。リスクを知って東京にいることを選択し、食べるものは食べる」と息子は言う。私は「50過ぎたら儲けもの、若者にはできるだけ安全な食事を食べてもらいたいが、私は友人のつくる宮城や山形の食材は支えたい」という。直下型地震が3年以内に東京で起こる確率は70%、ばらばらにいても家族を信じて心配せず逃げよう。うちの場合、避難場所は東京大学、避難所は誠之小学校、を確認する。