2011年7月 のアーカイブ

震災日録 6月29日 鳥取大学

2011年7月8日 金曜日

鳥取大学へいく。半分くらいは谷根千の活動について。残りは3・11以降のこと。3月27日の反原発デモの映像を見せると、「これほどのデモが東京で起こっているとは知らなかった」「テレビや新聞で見るより現状についてリアル」だという意見は多かった。しかし東京電力に対する若者たちの「社長はでてこい」「東電あやまれ」といったシュプレヒコールについて、失礼だとか、こんなこと言っていいのか、自分だって電気を使って暮らしているから同罪ではないか、といった意見もあった。いまの若い人は大衆行動の経験がなく、人に対してやさしいけど傷つくのをおそれている、といわれるが、怒りや権利を表明することに慣れていないようである。電気を使うことと原発を推進してもうけることとの区別もつかないのには少しびっくりした。

震災日録 6月28日 冷房なしの夏

2011年7月8日 金曜日

久しぶりに家にいて原稿書き。昔の夏を憶い出す。お風呂に入ったあとに扇風機の前で涼んでシッカロールをつけてもらったこと。そういえば冷蔵庫もなくて、黄色い木の箱の上の段に氷を入れてそれで冷やした。毎朝、のこぎりで氷屋さんが家の前で氷を切っていた。冷蔵庫はなくても蝿帳があって網戸の茶箪笥もあって、朝の残りは昼過ぎまでは大丈夫だった。首に保冷剤を手ぬぐいに包んでまくと涼しい。

震災日録 6月27日 日出生台演習場

2011年7月1日 金曜日

由布院は憧れの温泉地と皆は思っていて、由布院に行くというと「いいわねえ」とため息をつく人が多いが、実は近くに自衛隊の駐屯地があり、その奥に日出生台という自衛隊の4900ヘクタールの広大な演習場がある。すごくきれいな里山だ。ワラビやタケノコの宝庫でもある。話はよく聞くが現地をみたのは初めて、しかもよく理解していなかった。演習場ができたのは戦後ではなく、日清戦争後からある。100戸の農家と田畑を立ちのきさせて作り、小倉の師団などが演習した。

戦後は400戸の開拓農民が入ったが、まもなくGHQが占領、農民はまた追い出され、米軍が駐屯して16000人の米兵、4000人の韓国兵、700人の売春婦が常駐、由布院でも米兵による暴力事件が相次いだ。占領解除となってからは自衛隊の演習場に。そして1996年、米軍はキャンプハンセンで行っていた実弾演習をここの他本土5カ所で行うことに決めた。私はこのとき、由布院のみなさんに呼ばれてなぜか樋口一葉の話をしている。演習場の中には県道104号が通っており、周辺には農家もあり、事故が起こらないのが不思議。自衛隊は1年に300日以上演習をしており、米軍も使っている。演習による山火事もふえているという。

そこから、杵築の女性たちに脱原発の活動についてお話を聞きにいった。「できた原発については運動は盛り上がらない」ということで、主に祝島の上関原発の反対運動に参加している。このことについてはそのうち映像で。

震災日録 6月26日 スミコさんに乾杯!

2011年7月1日 金曜日

朝一番の「死んどる暇はない」の増永スミコさんさん、大正12年生まれにぶっ飛ぶ。

高等小学校を出て看護婦の資格を取り、助産婦として働き、職場に労働組合を作り、退職後はずっと1人で憲法9条を守る闘いを続けている。三菱重工爆破事件の死刑囚と養子縁組する。駅頭での署名が2人しかなくても「バス停で背中で聞いている人がいればいい」という。娘さんは医者となって未婚で二人の子供を生み、母を支えている。母のために就職口がなくなっても。母と娘は同志。

ツカレタのでこれで紹介終わり。あとの4本もよかったですよう。今晩はわらび野にお世話になる。部屋に露天風呂つきという贅沢。ぬるめの湯に1時間つかりいろいろ考える。

震災日録 6月25日 松川賞

2011年7月1日 金曜日

あさから土本典昭「原発切り抜き帖」。切り抜いた記事だけでこれだけの映画ができてしまう。小沢昭一のナレーションもすごい。それに先駆的、今もちっとも変わらない。松川賞受賞作は4本のうち、3本がテレビ番組、一本も文化映画はなかった。

「ばっちゃん引退」は広島の基町で活動する保護司のおばちゃんの話。導入はNHKらしからぬ斬新さ。でもモザイクや音声変換は説得によって避けられなかったのか。不良とか更生といった言葉への違和感。いかにも人がよさそうなディレクターの存在、やっぱりNHK的だという感じ。

「原爆投下を阻止せよ」は終戦の3ヶ月前に戦後の日米貿易などを見越してビジネスと天皇制を温存しようとしたグルーら東部出身のエリートたちと、あくまで原爆投下にこだわった南部出身のバーンズらの対立を分析。力作だし、いいもん悪いもんに分けないのはいいが、挿入される学者やジャーナリストのコメントがいかにも具合よくちりばめられている上に、その内容にも疑問が多く残った。全体にエヌスペの定型を出ていない。あとできいたら広島局の独自番組で予算もそうなかったとのこと。でもこういう番組は放送文化基金賞に応募すればいいのではないか?

「キューバ・センチメンタル」は人類学者が留学先の国で出会った友人たちの鬱屈を撮る。マイケル・ムーア「シッコ」などではアメリカと違って教育も医療もタダの夢のような国として描かれていた。ここで描かれているのはみんなで貧乏なら恐くない、とでもいうべき国。世界遺産の文化財担当者や医師といった専門職でも1ヶ月15ドル、20ドルといったものすごい低い給料で政治的自由もない。それでつぎつぎ友人たちは国を出てアメリカ、オーストラリア、チリ、バルセロナへ。残された若者の淋しさ、出て行った若者の寄る辺なさ。「やっと夢の部隊がアリゾナになったわ」「稼がなくても、納得のいくしごとをして、たたかうべき時にはたたかう」「僕らの乗ってきた船は焼けてしまった」と印象的な言葉がたくさんあって胸が焼けるような思い。それでも資本主義社会や浅い付き合いに違和感を感じ、かつての本質的な会話ができた仲間たちがなつかしいという。

「むかしむかしこの島で」米軍撮影の沖縄戦の古いフィルム、それに写っていた人々の表情。初めて捕虜になった老夫婦は敵に情報を教えたかどで日本軍に「適当に始末」される。地域の肖像権をとらえたいい番組だが、すでにあちこちの賞に応募しており、5年前の番組というのもちょっと困った。アナウンサー、平良とみ、ディレクターと三種のナレーションが入るのもやや煩わしい。

結局コメンテーターの3人が「キューバ」にいれ、一人が「むかしむかし」に、観客賞は「ばっちゃん」にと票はばらけた。まあ応募する以上、どんな感想や意見にも耐えなくてはならない。しかしそのあとに見た「カンタ・ティモール」が今年のベスト作品だ。これを見ただけできたかいがあったというような。30そこそこのたおやかな女性が撮った骨太の作品。監督のトークも素晴らしかった。チモールで起きていたことへの無知を恥じるしかない。きょうはいよとみ荘にお世話になる。

震災日録 6月24日 由布院記録文化映画祭

2011年7月1日 金曜日

ほんとうに麻は涼しい。そして風呂桶に水を貯めておけば熱い時ざぶんと入れる。

緊急時によいし、洗濯にも使える。今日はこれから由布院の記録・文科映画祭。

昼ころ、大分に着く。由布院までバス。夜まで何をしようか。まずトリ塩ラーメン、そして乙丸温泉。そしたらくぬぎやさんでリコーダーの演奏会があると知り行ってみる。緑の葉が揺れるのを見ながらの透き通る響き。夜は松川八洲雄「みちのおく」何度目だろう。インタビューは使わず、映像とコメント。頭の中で活字がテロップになって流れる名文だ。今のドキュメンタリーでこれだけ緊迫したコメントを書ける監督はいるだろうか。でも私はそれが不満だ。なぜ人々の声をもっと使わないのかと。何度見ても一番頭に残るシーンはハンディのある人たちがパンをこねるシーン。「みちのおく」といっても岩手中心。みちのくは差別用語だと言う人がいるが音感はきれいだと思う。三角屋さんに泊まる。