2010年4月 のアーカイブ

3月12日

2010年4月5日 月曜日

結婚式当日。親族中が泊まっている。私は起きても着替えがない。みんなが素敵な衣装をお召し替えするのに自分は紺色の帯で作った絞りのドレス。しまった。パールのネックレスもホテルだ。この3階建ての家は5つのシャワールームがあるが30人くらいのゲストはじょうずに空いたのを見計らっては沐浴し、着替えているらしい。ダッタプラサード夫人ラジュさんに聞いたら、サリーを3枚、パンジャビーを五枚、持ってきたという。この地方の女性はサリーが主でお母さんなどはサリー一本槍だ。結婚式は7時からということだったが雨。ただ雨はインド人が渇望するものでむしろ縁起が良いとされる。止んだり降ったり、会場も二転三転した。こちらはスピーチというものはなく、飾り立てた舞台の上に花嫁花婿と双方の両親兄弟が並び、みんな列をなしておめでとうの挨拶をするのみ。大変なご馳走が出たが、それもバイキング方式で勝手に食べて勝手におしゃべりする。後で聴くと800人の客がきて9割はお父さんの会社の前の同僚とか、お母さんの小学校時代の友だちとか、直接に知らない人だったらしい。この日、セティ家の従兄弟たちが泊まるホテルの部屋がなく、私はバクレ家に連泊。

3月11日

2010年4月5日 月曜日

段々この家の人に慣れてきた。ご飯のサービスも手伝うと、「彼女はお客というより実にエンジョイしてるな」などといってくれる。今日、買物に行き赤いクルタを買ってそれをきると、ますます親近感が増した。プリティさんの両親親族が到着。私はプラちゃんちに民泊。ダッタプラサードさんの隣りに練る。あまいチャイが体にしみる。

3月10日

2010年4月5日 月曜日

一日、プラちゃんの家で過ごす。ここには30人くらいの親戚や友だちが合宿状態。お母さんはサリーを着て悠然と座り、お友達という人たちがかいがいしく台所から、掃除から、おかあさんの着付けまで手伝う。彼女等がサリーで動いて気にならないのだからけっこう広い。家族の名前をみんな覚えたらビックリされ親近感が強まったみたい。家族の木を書く。みんな面白がって書き込んでくれる。お母さんの父母は健在。おばあちゃんは13歳で結婚したという。ガンジーと同じ。お母さんアンジェリにはアナント、アトゥル、アブハイの三人の兄弟がいて、とくに末のアブハイ叔父さんがこの結婚式の会計その他仕切っているらしい。彼はエンターティナーで歌も太鼓もうまい。夜はこの地方のミュージシャンがきておどったり歌ったり。そのあとも家族揃ってしりとり歌合戦が続く。老若男女が同じ歌をよく知っているのに驚く。お父さんには弟ダッタプラサードがいてその娘、アカンシャがまた気のきく、歌と踊りのうまいお嬢さ
ん。お父さんの姉のエフタとその夫アルンは一族の重鎮でアルンさんは私にヨガの呼吸法など教えてくれる。

3月8日

2010年4月5日 月曜日

一日休み。車を雇って芦沢さんとタージマハールへ行く。朝、6時に出て5時間近くかかる。アクバル帝のお墓を見る。タージマハル、既視感はあるけど、やはり一度は見ておくべき完璧な建築である。愛妃のために王様がたてたという。世界遺産のわりには混雑してはいなかった。ただいろんな手で金を取ろうとする人々、つきまとう物売り、案内してあげるという学生、父も母もいないという子供、炎天下、子供をだしに食べる金をくれという女。そのあとアーグラー城、最後に見たファティマ、なんとかいうお城は一番美しい。それにしても外国人からは750ルピーも取るんだからもっと親切にして、地図やガイドもくれればいいのに。この日、ホテルに戻ると、プリティさんから家へ来ないかとの誘いあり。母方の親戚の家を探し当てる。みんなこの近辺に住んでいるようで、親戚が次々現れるがアメリカで医者をして入るような人が多い。 シーク派はビジネスマンも多いと聞く。

3月9日

2010年4月5日 月曜日

デリーのレジェンドホテル。朝、チャイ屋で紅茶を飲む。5ルピー。3時半の便に乗るのに2時近くなってもプラちゃんたちがこない。やっとついたと思ったら「森さんは5のDですが、もちろん僕とプリティちゃんはならびます」なんて言っている。のんびりしているなあ。この前もタイで乗り継ぎがうまく行かずに一便後ので行くよ、とダイエーさんに連絡したら、彼の答え「で、明日何人象に乗るの?」2時間自分が長く空港で待つことなんか、どうでもいいらしい。
デリー名物渋滞のなか、プリティさんが空港に電話をかける。今から行きますからまっててね、といっているのかなあ。私はプラちゃんのおばあちゃんの隣りだった。車椅子を担いで御乗せした。おじいちゃんは85歳だが車椅子に絶対乗らず自分の足であがって行った。プネはボンベイから電車で3時間。ときくと行きたくなるが今回は無理。プネはデカン高原で涼しい。教育県で大学も多く若者が多い。文化水準も高く、劇場や映画館が多い。この前テロ事件が起きたという喫茶店の前を通る。着くと20時間の電車の旅で先に帰ったバクレ家の親族が、家の入り口から紅白の幕を張り、赤い絨毯を敷き、家の床には砂絵を描き、イルミネーションで飾って花嫁花婿を待っていた。家を入る所から儀式があり、二階の祭壇でまた儀式がある。

3月7日

2010年4月5日 月曜日

朝から結婚式に出かける。葬式に黒と白を着るのでそれ以外ならなんでも、とアビレイク君に聞いたので、そうなると持ってきた服の半分は着られない。真っ赤な絹のブラウスに黒のパンツ、金色のショールで勘弁してもらう。シーク派寺院にプラちゃんは白馬にまたがり、ターバンを巻いたまさに王子様のような格好で乗り込んだ。バクレ家のお父さんは銀行員、 親戚も税理士さんなど経済関係の方が多い。女性たちはサリー、男たちは絹のクルタで楽隊に合わせおどりながらあんまり進まない。一人息子の結婚式は人生最大のイベントなのだと思う。セティ家の人々皆男はターバンを巻き、しかし立派な髭を見せている。その髭をターバンを止めるゴムのなかに巻き込んでいる。今日のプリティさんは真っ赤なドレス。妹さんは濃い緑のドレス。寺院のなかの結婚はあんまり気持ちよすぎて、ピンクのリボンをつけて会場を回る所を居眠りしてしまった。その後、また盛大なパーティがあった。ネルー大学の学生たち、皆日本語をはなし、安部公房や「遠野物語」の話をする。長い長い写真撮影が行われた。ウラジオストックでばったりあった李君に、会う。立命館を卒業してこんどネルー大に留学するもだとか。しかも彼は私の大阪の知人の子息であった。こんな偶然てものすごい稀な確率だ。

3月6日

2010年4月5日 月曜日

一日休み。もう一人の日本人ゲスト芦沢さんはアリタリア航空のフライトアテンダントを20年勤めた後、いま東京外語大のイタリア語学科に入り直し、プリティさんのお友達である。すでにアビレイク君と一日、 旧市街を歩いたとのこと。私は今回、獲得目標が小さいので、どこでもいいよと、タクシーでバハイの寺やいろいろ回った。昼はトリの塩焼き、タンドーリよりさっぱりしてレモンで食べるもの。でもこの店の売りはバターチキンで、あんまり勧めるので注文。確かにおいしかったけど、食べすぎかも。タクシーはテャーターして8時間で500ルピーなり。プリティさんの家より、手足にへナで装飾を描いているのでこないかとの連絡あり、しかし住所だけでは行けず、この日、ネルー大学の高倉さんとベンガル料理で会食。

3月5日

2010年4月5日 月曜日

あさ8時頃出立。11時半のJALでデリーへ。「めがね」「ビサイド・ユー」「アクターズスタジオ」その外見る。飛行機では眠れないタチなのでもっぱら見逃していた映画鑑賞。9時間のフライトで6時すぎ着く。迎えのアビレイク君となかなか出会えず、タクシーを待たしてあって一度デリー南部のホテルに荷物を預け、マユールビハールの婚約式の会場へ向うも、途中何度も通行人に聞かなくてはならない。「インド待ち」なる本があった。いらいらせずに待つ。着くと広い会場でおいしいスナックのようなものを配っている、もう宴は終わったかと思いきや、 6時半開演の予定が9時頃から始まったそうである。黒のかっこいいスーツのプラちゃん、オレンジ色のパンジャビーのプリティさん、かなり濃いめのお化粧で前にあった印象と違うが美しい。スプリティさんの家、セティ家はシーク教で外交官、お父さんは日本やドイツに駐在していた。妹さんはこれまた女優のような美人でネルー大学の日本語学科を卒業して働いている。パンジャビー洲の家なのでお母さんもパンジャビースーツだ。鳥や羊肉のカレーもあったが、お酒はなし。プネ出身のバクレ家の人々は歌ッておどって楽しそう。私もプラちゃんと「島歌」 を歌っておどって賞賛された。

3月4日

2010年4月1日 木曜日

明日インドをひかえているのに、市川さんの誘いでめったに行けない蛇の目寿司へ。お医者様の森岡先生はじめ大教養人ばかりでお寿司をつまみながら森鴎外、木下杢太郎、高木兼寛と話題はどんどんふくらんで行く。原田さんは退職されてからイタリアに夢中になり、イタリア文化会館でイタリア語を勉強され、イタリア留学も何度もされたとか。模範としよう。

3月3日

2010年4月1日 木曜日

ひな祭り。旅行中歯がいたくなりそうなので弟に見てもらい、痛み止めなどもらっておく。帰りに安田邸に行き母の顔を見る。おなかがすいてまえのパルルなる新しいフランス料理の店に行くとこれがとてもおいしかった。フランス人らしい感じよいボーイさんもいた。