‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ

12月11日 彰義隊遺聞の遺聞

2012年12月25日 火曜日

湯本の福住を湯福、塔ノ沢の福住を塔福とよぶ。湯本から何代か前に塔ノ沢がわかれ、経営も変わった。こういう場合、普通は仲が悪いものだが、この二つは仲が良くて、紹介されて塔福さんも見せていただくことができた。湯福の先代も塔福のいまのご主人も立教のOBでそれも仲のよい理由とか。湯福が木戸孝允、伊藤博文、徳川慶喜ら政治家の宿とすれば、塔福は幸田露伴、島崎藤村、川端康成、林芙美子と文人の宿。阪妻の宿でいまでも田村高広さんがお泊まりになるそうだ。登録文化財・奈良屋旅館が登録抹消して売られ壊されたのは相続税がからんでいるらしい。こうした文化財を残そうと思えば税金上の基盤も作らないと。

彰義隊の須永於菟之助は伝蔵と名を変えて仙石原で牧場をしていた!
『彰義隊遺聞』で渋沢栄一の従兄弟たちの運命を書いた。尾高藍香は富岡製紙工場の初代場長となり、のちに岩手の七十七銀行頭取として養蚕を伝えた。彰義隊頭取だった渋沢成一郎は喜作と名を変えて横浜の生糸検査所所長として絹や糸の輸出に尽力した。もう一人の従兄弟須永は明治13年、渋沢栄一、横浜の渋沢喜作、益田孝らの出資をうけて荒れ地だった仙石原を開墾して牛乳の牧場耕牧舎をつくった。土地は湯治の神奈川県例に渋沢が言って無性に近く払い下げをうけたらしい。総面積737町歩、牛200頭、馬60頭、牛乳やバターを作って売ったり、乗用馬を育成したりした。これは箱根に外国人避暑客が多く、湯本富士屋ホテルなどに泊まっていたからか。恊働したのは松村泰次郎、そして蜂蜜生産のためにはいったのが新原敏三というのだが、この人、芥川龍之介の実父である。耕牧舎は明治15年に北豊島郡金杉村56番地(下谷区中根岸13)に支店を、16年には京橋区入舟町8丁目1番にも支店を開くが、ここが芥川の生まれた所で、いま碑が立っている。聖路加病院の近くだ。須永は区長も務めたが、明治37年、胃がんで逝去、63歳、38年に耕牧舎は整理、東京支店は新原敏三にゆずられた。芥川は母親が精神に異常をきたしたため母の里芥川家の養子になった。

12月10日 箱根湯本へ

2012年12月25日 火曜日

箱根の萬翠楼福住へ。ご主人は前に歴史的宿泊施設の委託研究をした時のワーキングチームの仲間。登録文化財制度が普及して、いまでは100近い登録の宿があるが、重文で泊まれるのは福住だけ。そうはいっても由緒ある建物を磨き上げ手入れし、お客に古び感やさびれ感を感じさせないようにメンテするのは大変なことだ。文化財のままで、部屋ごとに風呂や洗面所やウォシュレットつきのトイレも設置しなければならない。
東京オリンピックのとき、外国の客が来るからそういう施設を整えるよう、通達があったらしい。壁のクラックもしみも『歴史だなー』と許容する客でなければ、汚い、壊れている、手入れが悪い、と言われてしまう。工事をすれば何十万何百万かかるのに、2万も払わない客にいわれたくないよ、と私が主人なら思う。ため息。

12月9日 鷗外記念館で講演

2012年12月25日 火曜日

男性の寿命が女より短いのは、生物学的なことだけではなく男は社会で仕事をしてストレスをもって過労だからだと思う。私も選挙演説をしてぶっ倒れ、あんなことをしているから町長や議員は早く亡くなる人が多いのだ、とおもった。会議とか議会とかいう所は緊張を強いられて息がつまり、気がめぐらない。健康のためには選挙は高みの見物が一番かも。
きょうは鷗外記念館で『鷗外の坂』について講演。デザインされた建物であることには代わりはないが、狭い敷地に大きなものが建ったため庭なども手狭なかんじになり、まえの谷口吉郎のバルコニーのひろびろした居心地のよさはなくなってしまった。それとカフェの裸電球みたいな目をさす証明はどうにかならないものだろうか。団子坂側は裏口みたいだし。
この前訪れたフランクフルトのゲーテ記念館に似ている。
講演は人前で話して疲れるがいい出会いもある。きょうは森家の方が見えた。鷗外記念館という名前の場所でご遺族を前に話すのは緊張する。既にお孫さんからひ孫さんの代になっているが、寛容なさっぱりした方で緊張がほどけた。中学のときの憧れの英語の正岡先生もきてくださった。ほかのお年を召した先生たちもみなオクスフォードをでたり、論文をたくさん書いたりして大変な先生方だったが、正岡先生が着任されたとき、なんともさわやかで気品があって、フリージアの香りが吹き抜けるようだった。日本に滞在していたケイト・ミレットに英語を教わった話なんか、どきどきして聞いたものだ。

12月8日

2012年12月25日 火曜日

一日家の掃除。なくしたものがいっぱい出て来る。本を二箱、これは新潟粟島に送る。
カレーにニンニクを入れすぎて家族に不評。トマトジュースやバターで味を直しているうちにとんでもないものになったが、意外にわたしは好き。

12月7日

2012年12月25日 火曜日

毎日映画コンクール、ドキュメンタリー部門の審査会。
6時半ごろ地震あったらしいが表参道駅地下にいて気がつかず。地下鉄は案外、安全と言う話あり。そのあと東大まちづくり大学院で講義。その前には森反さんが被災地の高台再建について講義しておられた。津波がさらった町はくっきりとコンクリの土台が見えていたのが、既に草が生い茂り、曠野となっていた。ここに町並みがあったとは考えられないくらい。でも残った家で直して住んでいるひともけっこういた。
福岡で出している『ariya』という雑誌がきれいでおもしろい。福祉施設の活動や製品を紹介している雑誌だが、椿油、プリン、自然塩などほしくなるものばかり。こういうのを見ると福岡で暮らしたくなるな。
アリア

12月6日

2012年12月25日 火曜日

一日、ドキュメンタリーを4本見る。ハンセン病を扱った映画で『らい予防法』を出した時の総理大臣は原敬であった。『世界』の11月号に平岡敏夫さんが「原敬の遺書と鷗外の遺書」という文を書いていらして、原敬は『白河以北一山百文』の負け組南部藩の家老の家に生まれ、初めて東北からでた首相で平民宰相と言われたが、士族であって平民ではない。しかし死去の際には位階勲等を拒否する遺書を残した。東京駅頭で暗殺されたのは大正10年。翌年の鷗外の遺書に原の影響があるというのは初めて知った。
墓に本名のみを記せ、といっているところも同じである。鷗外は石見の国津和野の生まれで藩主亀井家は戊辰戦争においては官軍側に付いた。隣りがすぐ長州でそうしなくては領民を守ることもできなかっただろう。鷗外も幕府オランダ留学性だった西周の関係で赤松則義の娘と結婚したりしたが、のちには山県有朋の歌会に参加したりして長州閥ともいい関係を作って行こうとした形跡がある。

12月4日

2012年12月25日 火曜日

巣鴨地蔵通りで選挙の応援演説。生まれて二度目。しかし3分ばかりの話をすると頭ガンガン、耳はじんじん、めまいする。みつ豆を食べて帰り家で休む。選挙はやっぱり高みの見物に限る。脱原発のためにしかたないことだが、宇都宮健児さんは私の話をうなづきながら聞いてくれた。謙虚な人柄とおもう。愛媛県だからやわらかいかんじで、断定的な物言いをしないが。彼の選挙ポスターは自然な笑みがこぼれているが、有力対抗馬の写真はなんだか厚化粧みたいだ。
谷中の酒井さんの家で日本料理を作る。油揚の湯がき、あく掬いなど家では手を抜くこともちゃんとやり、家ではまず使わない、砂糖、みりんも入れると味にまろやかさと照りが出て、たいへんおいしかった。生ガキ、揚げ出し豆腐、那須の田楽、ふろふき大根、豆乳の肉じゃが、お吸い物、トリと牛房の炊き込みご飯、そして鶴寿や桃林堂のお菓子でたくさんお茶をいただいた。料理名人はまた来週は海外出張とか。
「脱原発だけでいいのに。あれもやります、これもやります、といっても財源はあるのかしら」。フランス人建築家は「東京オリンピックをやってもいいのに。ロンドンとおなじく、福祉とエコを売りにして、東京の街を修復(町づくろい)するように誘導すればいいチャンスなのに」という意見ももっとも。ナショナリズムや国威発揚でないオリンピックならやってもいいかもな。

12月3日

2012年12月25日 火曜日

高知から帰る。馬路村にまた行ったが、本当にすごい。いくと「まっとったよ」という看板。そして木でできた気持ちのよい工場、パンや、物産館。工場見学も親切にしてくれて、ごっくん一本くれた。ガードレールも木。帰る時には「また来てね」の看板。これではファンになるわいね。今度は宿泊して温泉にもはいりたい。おりてきて安田町、直売場はくらくて何も売っていないし、「花を折らないでください」「無断で駐車すると一万円もうしうけます」こういう否定的な書き方だともう二度と来るかという気になる。隣りの自治体にすこしは学ばないのかな。

12月2日

2012年12月25日 火曜日

大洲の松井邸を見学。南洋フィリピンで財を成した松井国五郎が故郷に錦を飾ろうと、背伸びして建てた家。まるでお城のようだ。南洋材もたくさん使われている。継承者も遠くに住んでいるし、どうにか地元で管理公開してくれるといいのだけど。
それから高知畑山の圭子ちゃんのいる温泉に。30年ぶりに集落で生まれた尚太郎君がもうつかまり立ちしていた。人の子は成長が早い。ここでよにもおいしい土佐ジローのフルコースを食べ、お土産に持ってきた亀岡さんの氷結酒「銀河鉄道」を飲んだら、このところの疲れもでて、酔いが回ってしまいました。

12月1日

2012年12月25日 火曜日

松山の湯の山団地を見る。前に見たときより住民の活動はずいぶん盛んになっている。あいたスペースで農園をやり、野菜の地産地消をしている。これを防災面でも役立てるつもりとのこと。いずれにせよ、山を削った造成地には違いない。でも生みの親の無理を育ての親である住民たちが補って住みやすい住宅地を作っていることはたしか。
解散後、松山から特急で内子へ。なつかしい岡田文淑さんが待っていてくれた。きょうは「こころ」というがんばっている宿があたらしく蔵を改造した宿へ。広いスペースを一人で占有、もったいなし。