12月6日

一日、ドキュメンタリーを4本見る。ハンセン病を扱った映画で『らい予防法』を出した時の総理大臣は原敬であった。『世界』の11月号に平岡敏夫さんが「原敬の遺書と鷗外の遺書」という文を書いていらして、原敬は『白河以北一山百文』の負け組南部藩の家老の家に生まれ、初めて東北からでた首相で平民宰相と言われたが、士族であって平民ではない。しかし死去の際には位階勲等を拒否する遺書を残した。東京駅頭で暗殺されたのは大正10年。翌年の鷗外の遺書に原の影響があるというのは初めて知った。
墓に本名のみを記せ、といっているところも同じである。鷗外は石見の国津和野の生まれで藩主亀井家は戊辰戦争においては官軍側に付いた。隣りがすぐ長州でそうしなくては領民を守ることもできなかっただろう。鷗外も幕府オランダ留学性だった西周の関係で赤松則義の娘と結婚したりしたが、のちには山県有朋の歌会に参加したりして長州閥ともいい関係を作って行こうとした形跡がある。