12月11日 彰義隊遺聞の遺聞

湯本の福住を湯福、塔ノ沢の福住を塔福とよぶ。湯本から何代か前に塔ノ沢がわかれ、経営も変わった。こういう場合、普通は仲が悪いものだが、この二つは仲が良くて、紹介されて塔福さんも見せていただくことができた。湯福の先代も塔福のいまのご主人も立教のOBでそれも仲のよい理由とか。湯福が木戸孝允、伊藤博文、徳川慶喜ら政治家の宿とすれば、塔福は幸田露伴、島崎藤村、川端康成、林芙美子と文人の宿。阪妻の宿でいまでも田村高広さんがお泊まりになるそうだ。登録文化財・奈良屋旅館が登録抹消して売られ壊されたのは相続税がからんでいるらしい。こうした文化財を残そうと思えば税金上の基盤も作らないと。

彰義隊の須永於菟之助は伝蔵と名を変えて仙石原で牧場をしていた!
『彰義隊遺聞』で渋沢栄一の従兄弟たちの運命を書いた。尾高藍香は富岡製紙工場の初代場長となり、のちに岩手の七十七銀行頭取として養蚕を伝えた。彰義隊頭取だった渋沢成一郎は喜作と名を変えて横浜の生糸検査所所長として絹や糸の輸出に尽力した。もう一人の従兄弟須永は明治13年、渋沢栄一、横浜の渋沢喜作、益田孝らの出資をうけて荒れ地だった仙石原を開墾して牛乳の牧場耕牧舎をつくった。土地は湯治の神奈川県例に渋沢が言って無性に近く払い下げをうけたらしい。総面積737町歩、牛200頭、馬60頭、牛乳やバターを作って売ったり、乗用馬を育成したりした。これは箱根に外国人避暑客が多く、湯本富士屋ホテルなどに泊まっていたからか。恊働したのは松村泰次郎、そして蜂蜜生産のためにはいったのが新原敏三というのだが、この人、芥川龍之介の実父である。耕牧舎は明治15年に北豊島郡金杉村56番地(下谷区中根岸13)に支店を、16年には京橋区入舟町8丁目1番にも支店を開くが、ここが芥川の生まれた所で、いま碑が立っている。聖路加病院の近くだ。須永は区長も務めたが、明治37年、胃がんで逝去、63歳、38年に耕牧舎は整理、東京支店は新原敏三にゆずられた。芥川は母親が精神に異常をきたしたため母の里芥川家の養子になった。