知り合いの研究者から「田舎の葬式で留袖を来ている写真が出てきたが、葬式に極彩色の裾模様なんて事があるかしら」という疑問あり、服飾史家の伯母に問い合わせ。
「江戸時代は葬式は白装束、黒を着るようになったのは明治になってからだと思うよ。灰色や水色の着物を着ることもあった。だいたい庶民は礼服などあつらえることはできず縞木綿など普段着でやっていたでしょうね。明治以降も留袖と喪服二つは作れないから、もちろん留袖を葬式でも着たでしょうよ」問題解決。
3・11の慰霊祭に皇后が黒い着物で参列したので、うるさ型はバッシングしているとか。「あれはね、明治20年に礼服の規定ができて、女性も洋装ということになったわけ。ご大喪じゃあるまいし、民間人の死をいたむのに、着物でいけないなんていう方がおかしい。あの方はほかにも宮中の因習を破って、お子さんを自分で育てるとか改革をなさったのだから、それでいいのよ。どんどんやって」
明治20年と言えば欧化ブーム、そのときにできた「追いつき追い越せ」後進国的発想の規定は今も生きているのだろうか。ブータン国王夫妻は独自の文化を着ているもので表現して、しかも美しかった。
体調すぐれない天皇をいざという時支えるにもハイヒールでなく、草履にしたという説も。大切なのは着るものでなくいたむ気持ち。天皇は誕生日にも仮設で冬を越す人々、原発にふるさとを追われた避難者の事に思いを馳せていた。沖縄の人々の気持ちに国民みんなで思いをいたす、というぎりぎりなメッセージまであって、共感。
‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ
1月11日 皇后の黒い着物
2013年2月1日 金曜日1月10日 クマの家にしろくまくん。
2013年2月1日 金曜日ようやくしごとが終わって、年末にするべきだった家の片付け。ブラウン管テレビを二つ捨て、家中のVHSカセットをみんな捨て、切れている電球を取替えた。10年もちますよ、とつけてくれたLED電球、青白く、まぶしすぎる。申し訳ないが、オレンジ色のうんと弱いのに変えてもらう。しかしこのソケットにはもう対応する昔の電球がないそうだ。買う前によく見てワット数も調べた方がいいよ。
ところでモノクロの写真フィルムも売っていないし、ハンディカムの録画用テープももうほとんど売っていない。LEDが嫌な人、気分悪くなる人はいまからそうでない電球を買い占めておかなくては。
地デジ対応のテレビもすすめられたが、テレビはいらないのだ。
そこで15年前に取り付けたクーラーヒーターを取替え。クーラーと言えば強い冷風・温風が一方向に吹き出し、乾燥すると思っていたが、いまのは待機電力ゼロ、部屋内の湿気をすってミストにして出すから乾燥せず、ほこりも集めてくれる、人のいる場所を察知して風向をかえる、音もほとんどせず。なかなか快適。でも「まだ使えるのに廃棄すればゴミの山をふやすだけだ」という娘との論争終わらず。
私は地域の電気屋さんから買って、仲よくして、老後の支えにもなってもらいたい、と思ったのだが。実家には出入りの電気屋さんがよくきて、いろんなことをしてくれた。
たしかにもう家電を次から次へと買う時代ではなくなったのもたしか。
1月9日 大政翼賛的オリンピック誘致
2013年2月1日 金曜日千駄木小学校の脇をとおったら、プールにオリンピック誘致の看板がかかっていた。
オリンピックに反対な人も多いのに、東京中、全国中、税金使って誘致宣伝するのはいかがなものか。とくに学校ではいかなる宗教活動も宣伝は禁じられている。「オリンピックを催せば日本が元気になる」「ロンドンで勇気と感動をもらいました!」というのも、原発安全神話とおなじく一つの宗教。
かといってオリンピック反対、福祉や医療に税金を、もあまり芸のない話。わたしはオリンピックやってもよいとおもう。でもそれはロンドンとおなじく、弱者のため、福祉や医療を増進し、すみやすい東京に変える為にきちんと政策誘導のTOKYOプランがあってこそ。町づくろいとして、というのが前提。まず、日暮里富士見坂から富士山が見えなくなったら、きてくれる外国人もがっかりする、ワールドカップのとき、海外からのVIPを谷根千に案内し、みんなあそこで富士山が見える事をワンダフル、と声をあげていたからね。東京の歴史的遺産を守り切って、それを外国の方にも胸を張ってみていただく。
金メダル何個って話ではない。
1月8日 機械音のアナウンスはたえられない
2013年2月1日 金曜日前の道に自動車専用道路ができたので喜んでいたが、これがいつも路肩駐車ではしれない上、どこかですうっと消えてしまう。なんの意味もない。
大山商店街からの帰りに東上線に乗ったが、あのコケッティッシュな「あらー」「いやーん」みたいな声のアナウンスに朝夕がまんしている通勤客に同情。よほど働こうと言う戦意をそぐな。それを狙った陰謀だったりして。東京女子医大病院の支払い機の声も団地妻シリーズを思い出した私だが、こういうアナウンス声って誰が開発しているのだろう。地方の博物館。資料館の元気とかわいいが売り物のアニメ的子ども声にもぞっとするけど。みんな気にならないのかなあ。
1月7日 ぼけぶり
2013年2月1日 金曜日高齢者のみ急増。「こんなに人口ピラミッド崩れたら俺たちかなわないよ」と息子。「そうだね、nps細胞なんて発見してる場合じゃないよね」違うってば「tpp細胞だっけ?」それは農業とか…。
家族焼き肉研究会で本郷の房家にいった。「お正月だからぱーっとやろう。これ初めてだからいってみよう!」それ前頼んだよ、と娘。「あ、じゃあこっち。どんな食感かな」もう前に二度頼んだよ、と息子…。正月早々、順天堂の脳神経内科に予約。脳の萎縮ますます認められるかも。ここの予約の待ち受け音は小さい音量でメロディでないので、耳にやさしい。
12月30日~1月6日
2013年1月11日 金曜日1年間の働き過ぎか、まったく元気でず。くたくたとお風呂に入ったりベッドにはいったりしている。お正月は岩波新書『震災日録』の校正でおしまい。
6日、沢田研二さんのコンサートの券が突然手に入り見に行く。私としては11月の国際フォーラムよりこっちの方が好み。すこしやせたような。白いひげを蓄え、ステージを走り回った。山本太郎の応援演説のとき、ヒゲジュリーを見てこの感じでコンサートもすればいいのに、と思っていた矢先。
勝手にしやがれ、カサブランカ・ダンディ、サムライ、TOKIOとかつてのヒットもサービス、でも私は「桜舞う」からの3曲にジーンとしたのだった。
老境に差し掛かった男が、愛する妻を置いて先にゆけない、という歌。これはいまのパートナーへのおもいか。昔の恋人へ、何もしてあげられなくてごめん、という2曲目は前のパートナーへの挽歌か?
いまの人を大事にしながら、前の人を疎略に扱わないというのはおとこ気だとおもう。なんとなく森鴎外が前妻赤松登志子がなくなったとき書いたものを思い出す。「物を書いて弔うてやることもできぬ。かわいそうなことと存じ候」日記にのみ「嗚呼、これわが旧妻なり」と鷗外は書いた。
沢田研二は前夫人の死に一切コメントしなかった。これも樋口一葉の死後、余分なことを言わずに沈黙を守った半井桃水を思わせる見事さである。でもどこかに、今の妻へ配慮しつつ、いったんは暮しを共にした人への悼みをしのばせたように思えたのだ。
そして三曲目は、海辺の被災地で、原発から逃れた避難地で、苦しい越年を下であろう人たちへ「無事でいてほしい」、という応援歌であったように思う。
12月29日
2013年1月11日 金曜日千葉の家を11時に出る。海際の漁師集落沿いに走ることに。勝浦の手前で官軍塚というのがある。これはここで戊辰の戦闘があったわけではなく、官軍の船がここで遭難して百三十五人がなくなったと言う。それは熊本の細川家は藩主の弟、津軽藩が五稜郭を攻めなやんでいるのを知って送った援軍だが、そんな藩主同士の思惑でここでなくなった藩士があわれ。それにしても房総の外海は波があらいのだなあ。その手前にはフィリピン総督ロドリゴが乗った船が帰任途中に遭難し、たくさんの乗組員がなくなっている。
12月28日
2013年1月11日 金曜日朝、9時の出発で妹たちと浪花の家を久しぶりに見に行く。途中道を間違え、市原へはいったので養老温泉でくろ湯につかり、とてもおいしい自然薯定食を食べた。喜代元という旅館で、ごく良心的な値段だった。といっても東北の立ち寄り湯が300円から500円なのに、千葉では800円から1200円もする。ここは900円。いすみ市役所の税務課に行って固定資産税について聞く。「土地は安くても建物がコンクリートなので評価額が高い。建物については全国一律の評価。使わないからとあわてて売らなくてもいすみ市の空き家対策で、貸家バンク制度もある」などとても親切に的確に教えてくれた。なんだかいすみ市に定住したい気持ちになってくる。さらに「いすみ市で楽しく過ごす情報を差し上げます」といって飲食店のガイドや文化財マップなどいろいろパンフレットをくれた。こういうたらい回しにしないで、税務課だけでようが足りるということは文京区役所ではありえない。立派なものだと感心。御宿まで買い物に行く元気なく、大原の魚屋さんで、ヒラメの刺身、タコを買う。ちょうど茹でたてのがあった。店を守る同年輩の女主人、「この一年で大原の魚屋は3軒やめた。跡継ぎがいないもの。一日中吹きさらしのところで水を使って冷えるし、肩が動かない。うちの祖母も母も40そこそこでなくなった。来年来たら、ないかもねえ」小さなイワシのこを向いて酢漬けしたのがおいしいがこれも手で向く大変な仕事。
12月25日
2013年1月11日 金曜日中国人の友だちがパスポートの後に中国の領域が印刷されているのに変わった、と言って恥ずかしがっていた。「日本はいる時にこれ見せるの? エーっつ」その地図では尖閣も台湾も中国領土の中にはいっているらしい。
12月24日 これから起りそうなこと
2013年1月11日 金曜日④沖縄宜野湾市長選挙では「基地反対は挨拶代わり」と言っていた。衆院選は『脱原発』が挨拶代わりになって争点は見えづらくなった。⑤友人の弟の配偶者の兄は原発関連で仕事がなくなった。原発なくなって困っている人も相当出ることまで思いをいたして、それでもこりごりと言わなくては。⑥わが亡き後に洪水は来れ、未来のいのちに今の生活を優先させるのか? それにしても被曝労働や使用済み核燃料の始末についてなにも論議されなかった。問題はすべてそう簡単ではない。からまりあって、底には日米安保が通奏低音としてある。でも日米安保とまでなると論議しようとする主体の数はぐっと減る。⑦国土強靭化のかけごえのもと、八ッ場ダムも大手を振って再開され、トンネルや橋や道路の改修、そして沿岸には海も見えない20メートルの防波堤防潮堤が建てられていくのだろう。大赤字財政のくせに公共事業ばらまきがはじまりそう。所詮近代技術、鉄筋やコンクリで国土を改変し、守れるものか? 沖縄のユタに聞いたら「オレの肩や足をよくも切ってくれたな」と神様はおいかりだそうだ。
天皇は誕生日に「放射能で避難し、仮設で冬を越す人々を忘れない」「沖縄の人の苦しみをみんなで分かち合おう」といった。政治家よりよほど信頼できる。普天間、辺野古、高江の『お言葉ツアー』を企画しようかとサトコ。