2013年12月 のアーカイブ

11月20日 種子取祭

2013年12月25日 水曜日

種子取り祭り当日。一日芸能を見る。二度目なので割と筋がよくわかる。踊りや狂言をこれだけ続けてみるのは初めて。目が離せない。下座の三味線のメロディが頭についてはなれない。泉屋さんは常連客ばかりで、のんびりやっている。ご主人たちは祭りに出演中。狩俣先生のところで学生たちと踊ったり歌ったりして楽しい。おそばや島たこをご馳走になる。

11月19日 石垣島へ

2013年12月25日 水曜日

再び石垣島へいき、海坊主でモーニング。100才の佐加伊ハツさんのお話を聞く。お昼はペンギン食堂で、肉みそそばをたべる。いと、うまし。夜はカナさんのところで赤ワインでいろいろご馳走になる。おしゃべりが楽しい。

11月18日 霞ヶ浦航空隊の若者たち

2013年12月25日 水曜日

7時45分、朝ご飯に遅刻、昇助さんにまた戦争の話を聞く。

「僕ら赤紙でなく、護郷隊は青紙で引っ張られて、招集さ。学校を出てすぐ石垣に連れて行かれて、毎日ジューシを二つくらいもらっただけだけど、朝鮮から連れてこられた人たちはものすごく働かされたよ。本土から来た偉いのはすごく僕らをいじめたよ。僕たちは三島兵で星一つ、その上が二等兵。石垣の少尉は親切でとってもかわいがった。その人が最後に手榴弾を二つ渡して、一つは自決するのに使え、もう一つは一番いやなやつにぶつけろといった。あのころいじめた士官を後ろ向いてどさくさに打った兵隊もたくさんいたと思うよ。僕の同級生で一人だけ、霞ヶ浦の予科練に入ったのがいたが、船に乗って行く間に撃沈されて死んじゃった。僕らは石垣の空港をつくったんだけど、まだできないうちに赤とんぼという二枚翅のある飛行機が何機か着いたよ。おりてきたのはその霞ヶ浦の航空隊の若者たちで僕たちより2つ3つ上だろう、どのみち体当たりで死ぬんだから、操縦もなんもないよ。一年も訓練すればすぐ飛んだ、それがトンボの翅の下で昼寝しているのを見たら、僕らと違って色が真っ白で、ほおが日に焼けてすごいきれいなの、それを見た石垣の乙女たちはみんな憧れの熱いまなざしでな、でもその人たちは飛び立ったらきっと返ってこなかったでしょう」

11月17日 西表は広い

2013年12月25日 水曜日

冬は大原港からの船は出ないのにバスもめったにない。けっきょく金城旅館さんに上原まで送っていただくことになった。

金城旅館の島袋ときわさん。お母さんの金城セツは85歳の今でもいろんなものを仕入れて行商して歩く。「竹富の人もうちの母を知っているはずよ」という。炭坑があったときはたくさんの人がきた。戦後は十条製紙がパルプにする木をきりにきた、などの話を聞く。

石垣昭子さんの紅露工房はまるでインドネシアかタイの奥地のように自然が豊かで熱帯を感じさせるところだった。祖内、星立、上原港、石垣、桟橋でそば、竹富島に2時ころについて、ゆがふかんでメールチェック。鳥取大学の家中先生到着。

11月16日 西表島島人文化祭

2013年12月25日 水曜日

朝速い船で石垣へ、そこから西表。島人文化祭へ。竹富の手仕事などを会場で売るのでついて行った。黒島、小浜、波照間などからも参加。実行委員長の染織家・石垣昭子さんに話を聞く。

「竹富生まれ、小学校の一、二年は戦争中でまったく勉強した覚えがない。豆うちや麦うちをした。母はハツ、上勢頭亨の妹で、川平の教師だった父と結婚して、私が生まれたが、父は戦死。一人っ子。同子は私がおぶって育てた。亨さんにとても世話になった。母は那覇に出て宮廷料理を習って、その店で働いて、私は那覇高校から東京の女子美にいった。保久利の妻のまりが織物をしていたので、子どものときから芭蕉の糸を引いたりしていた。だから自然と、染色に向かい、竹富に来ておられた岡部伊都子さんの紹介で、京都の志村ふくみさんが竹富に来られ、紹介していただいて京都で二年、修行した」

というものすごい歴史だった。

「ここで女の人たちに染めを教えれば、島からでていかないでもここで仕事ができる。後継者育成事業で経産省の補助金を受けて各島に工芸館をつくったの。だから八重山ミンサー、八重山上布という名前にした。殿村先生のときからやっているのは私ぐらいになってしまったね。1980年に西表に来ました。竹富では人数が少なくて一番知っているのはスミさんと、大春江さん。私が教えた島中由美さんでしょう」

夕方に島の芸能や新良幸人さんのコンサートがあるというので、急遽一泊。

11月15日 まっちゃんおばあの話

2013年12月25日 水曜日

ゆがふ館で一日、まっちゃんおばあの話を聞く。

昼ご飯はうちで食べて行けといわれ、炒め物とご飯とおつゆでご馳走になった。

「わたし一人だとさびしいからいいよ。農大の学生にハイビスカスジュースをあげちゃったからポカリスエットでごめんね。食事はみんな自分でつくっているよ。自分の頭で考えないとね。赤肉と野菜を炒めておいたからそれをあたためるだけだよ。これはおそばにも使えるし、豆腐ともいためられるし便利だよ。かんぴょうを石垣の長男が送ってくれたんだけど、そのまま煮たら固くて食べられないねえ。

お米でも何でも、内盛か大浜で買えるから石垣までは買い物に行かないよ。それに誰か、みんな帰ってくるとなんかしらとどけてくれる。雨が降ればまた話ができるよ。蚊が出てくるのは雨の前兆さ。数えで88はとうに済んだけど、昨日が11月14日が誕生日で遠くの人がはがきをくれた。うれしかったよ。ニンニクとタコの酢漬けが種取りにはつきものだけど、それも家によっていろんな味がするよ。でも絶対にかえないから頑固さ」

11月14日 竹富島へ

2013年12月25日 水曜日

各省庁に出す要望書への意見など来る。なかに「グローバル社会」「市民ホスト」といったぞっとしない表現を提案してくる人あり。オリンピックの反対とはいわないが、オリンピック賛成とはいいたくないし。明治天皇の聖徳記念絵画館も名前からして好みでないが、ご大葬とか聖蹟とかこういう言葉は使いたくないし。重文や風致地区といったお上の決めたことを権威主義的に振り回したくもない。とにかく神宮外苑はみんなに親しまれた都心の緑地であるということを書きたい。朝方仕事をして竹富島へ。今日はトゥルッキ、祭りの結団式。

11月13日 秩父宮記念スポーツ博物館

2013年12月25日 水曜日

「神宮外苑と国立競技場を未来に手わたす会」ホームページが早速でき、賛同人が少しずつ載る。谷井さんがやついさんなのに「た」のところへはいったり、家中さんがやなかなのに「い」のところへ入ったり、ふりがなを振らないといけないことがよくわかった。

やってみるといろんな問題が出てくる。

神宮外苑をみんなで歩く。秩父宮記念スポーツ博物館というのが面白い。東京オリンピックのときにメダルを渡す女性が着ていた振りそでとか、日本の風物詩を織り込んでこんな豪華なきものを作っていたのか? 人見絹枝、南部忠平、そして円谷弘吉、マラソンで銅メダルを取ったのに、その後走れず20代で自死、オリンピックの犠牲になったような青年だった。

槇文彦さんが東京体育館の中に作った小さなレストラン、アリスガーデン、なかなか居心地がよかった。