11月18日 霞ヶ浦航空隊の若者たち

7時45分、朝ご飯に遅刻、昇助さんにまた戦争の話を聞く。

「僕ら赤紙でなく、護郷隊は青紙で引っ張られて、招集さ。学校を出てすぐ石垣に連れて行かれて、毎日ジューシを二つくらいもらっただけだけど、朝鮮から連れてこられた人たちはものすごく働かされたよ。本土から来た偉いのはすごく僕らをいじめたよ。僕たちは三島兵で星一つ、その上が二等兵。石垣の少尉は親切でとってもかわいがった。その人が最後に手榴弾を二つ渡して、一つは自決するのに使え、もう一つは一番いやなやつにぶつけろといった。あのころいじめた士官を後ろ向いてどさくさに打った兵隊もたくさんいたと思うよ。僕の同級生で一人だけ、霞ヶ浦の予科練に入ったのがいたが、船に乗って行く間に撃沈されて死んじゃった。僕らは石垣の空港をつくったんだけど、まだできないうちに赤とんぼという二枚翅のある飛行機が何機か着いたよ。おりてきたのはその霞ヶ浦の航空隊の若者たちで僕たちより2つ3つ上だろう、どのみち体当たりで死ぬんだから、操縦もなんもないよ。一年も訓練すればすぐ飛んだ、それがトンボの翅の下で昼寝しているのを見たら、僕らと違って色が真っ白で、ほおが日に焼けてすごいきれいなの、それを見た石垣の乙女たちはみんな憧れの熱いまなざしでな、でもその人たちは飛び立ったらきっと返ってこなかったでしょう」