2013年2月 のアーカイブ

1月15日 雄勝の木村さん千葉さんと会う。

2013年2月1日 金曜日

朝、早く宿を出て、雄勝に向かう。硯会館のところで雄勝天然スレートの木村満社長が待っていてくれる。ジーンズのジャケットを着て若々しく元気なのでほっとする。
「東京駅にうちのスレートが載ってほっとしました。いろいろお世話になりました。震災前に掘り出しておいたスレートもあります。ただ硯組合の職人も少なくなり、いまはスレートの皿やコースターと言った小さな実用的なものがよく売れて、その生産に追われて硯やスレート屋根まではまだまだ。でも若い職人を指導していますし、そのうち工場も建てたいと思っています」
雄勝支所に木村さんといくと、かつて東京駅保存の署名をたくさん集めてくださった千葉茂さんが次長の重責にあった。「雄勝では中心市街地がすべてやられ、支所、硯会館などの中心施設は使えず、病院で患者さんが40人なくなられ、医師や看護師も20人以上なくなりました。住民も4000人以上いたのが今1300人と4分の一です。この流出をとめることができません。ご覧の通りでここは仮庁舎、そっちの集会室では成人式が終わり、高台移転の説明会をやったりしていて。私は観光、産業も担当なのですが、いまのところ、住民の生活再建、高台移転地形に追われていて、文化財やスレート屋根まではなかなか手が回りません。雄勝の基幹産業は水産業、でも看板産業は硯やスレートなどの石です」スレート屋根の民家が流され、どんどん壊されて固有の景観がなくなっているような。「そうですね。桑浜小学校はNPOの方が買って活用の動きもあるようです。あれくらいしか残っていないのではないか。これからは交流人口が大事だと思うので、震災と津波のことを忘れずに東京からもどんどんきていただきたい」
そこから登米に行き、ウナギを食べ、みんなと別れた。私は運転してくれた豊沢さんと北上に戻り、2時に一度も行ったことのない上品の湯に落としてもらった。みんな仕事で忙しいので邪魔をしたくなく、一人にもなりたかった。
ここは『ふたごの湯』レストラン、直売場、などからなり、温泉に500円でつかる。鉄分と塩分を含む赤錆色の湯で、建物が木づくりで、照明もほの暗くとても落ち着く。
まるで山の中の温泉に来ているみたい。マッサージもしてもらって、休憩所でお茶を飲みながらぼんやりと大相撲を見ていた。6時ころ、携帯が鳴り、熊谷さんたちと『居心地』というその名の通りいごこちのいい居酒屋へ行く。このほのぐらさ、蛍光灯でなく、オレンジ色の光りと、三和土がいい。寒ブリ、ドンコ、ツブ貝のさしみ、柳カレイの焼きもの、おでん、串カツなどで熱燗。この日は復興住宅最上段で一人泊めてもらう。二枚ガラスなのでそう冷えもせず、ぐっすり眠った。

1月14日 尾の崎のスレート屋根

2013年2月1日 金曜日

朝早い新幹線で石巻へ。あいにく雪。今回は東京駅の屋根のスレート使用問題に始まり、石巻のスレート産業復興の為に集まった募金をどこにどう渡すかを検討すること、石巻のNPOの活動情況の把握など。また東京から石巻の被災地を見学、交流するツアーのコースも考えたいということで総勢6人。学芸員、編集者、文化財保存専門家、翻訳家、音楽家など専門もいろいろ。仙台駅からバスで追波川運動公園のバス停まで。
そこから大川小学校の前で手を合わせ、尾の崎の坂下清子さんの家に向かうと、昼食前だったが、剥きたての牡蠣と冷や酒をふるまってくれた。「ここにはまだ電気、水道が来ていないし、民宿や食堂の営業はできないの。行政は昼はきてもいいけど、夜は泊まってはだめという。この前も大きな余震があった。津波は夜でなく昼来るかもしれないのに。ここまで車で来るのだって、途中なくなったひとの家のあった前を通る時、それぞれの顔を憶い出してごめんね、ごめんね、といいながら通る。そのもやもやがあって、なんとも気分が晴れないの」それでも牡蛎の養殖を続け、年内は牡蠣の発送で忙しく、年を越してやっと落ち着いたところと言う。みんなで牡蠣を頼む。その並びの神山家というスレートがわらの家をいま「ジャパンヘリテージ」の田辺さんたちが保存活用しようとしている。
お昼は熊谷産業の事務所で。考えれば被災したこの会社はどんなにたくさんのことをして来たことだろう。プレハブでの再興、東京駅スレート屋根の洗浄、白浜復興住宅の建設、壁面茅葺きの新しい事務所の建設、文化財救援の民間会社ジャパンヘリテージの立ち上げ、茅刈りの復興、ゲストハウスの運営、子どもたちの為の自然教育の場「りあすの森」、これからも流された旧北上町役場の復元、土地の木材とスレート屋根を使ったすみやすい住宅の設計、夢は膨らむばかりらしい。
事務所には熊谷さんがパリで買い付けて来た骨董家具や絨毯がしかれ、まるで『小公女』の屋根裏部屋のようにゴージャスになっていた。「みんな二束三文ですよ。運賃の方がうんと高くつきました」と笑うが、これだけの家具を即決でどんどん買える度胸は普通ない。そこで牡蠣のバタ焼きや蒸しガキをご馳走になった。
午後おそくなって里山の秋丸にむかうも雪深くて入れず。復興住宅の中を見せてもらう。追分温泉の道をバンで登れず困っていたら温泉のバスが来てくれて乗り換え。暖かい湯につかり、食べきれないほどのお魚、食後には渋谷さんという地元のミュージシャンの土地に根ざした歌をギターで。大竹丸という朝廷にたてついた東北の勇者の歌、「土偶」という縄文の歌。3月18日に橋浦小学校では避難民もいる体育館で卒業式が行われ、みんなでこの歌をうたって盛り上がったと言う。校長先生もよくやったなあ。
いま吉浜、相川、橋浦は校舎が助かった橋浦を統合でなく3校で使う。校長先生も3人、教頭も3人、というなかで部屋をわけあって使っていると言う。
それにしても瓦礫がきれいに片付いた分、元そこに集落があったことなど想像ができず、震災後4月にきたときの風景も憶い出され、初めて被災地に来たメンバーに、ここはこうだった、ああだった、と説明するのももどかしい。

1月13日 粗大ごみ

2013年2月1日 金曜日

休みの日にうらうらとコーヒーを飲んでいると、廃品回収者の車がしょっちゅう来る。
選挙は一時だからがまんするが、これは毎週土日にきてうるさいったらない。ただで引き取ってくれるように思うと、これがなんでも5000円くらいかかる。値段を聞かないで、乗せてからお金がかかるとわかり、それじゃあいい、というと、元のところまで戻すのに3000円とかいうらしい。廃品は区の粗大ごみに出した方が安全だ。
廃品で憶い出したが、文京区は箱根の保養所を閉め、新潟のやまびこ荘もあまり使われていないようだが、あそこで福島の子どもたちの保養プログラムをすればいいのにね。

1月12日 ベストテン

2013年2月1日 金曜日

きのう、伯母の家に電話をかけた時、従姉のヨーコちゃん(王朝継ぎ紙研究家)に「荻窪駅頭でジュリー聞いた?」と聞いてみると「もちろん!かっこよかったよ」という。「タイガース再結成だってね」「一緒に見に行こうか?ケイコちゃん(もう一人の従姉、大学の先生)も誘って」と盛り上がってしまった。
私のファン歴は途中40年ほど抜けているわけで、もちろん学生時代も、社会人になってからも聞いてはいたが、衣装についたハーケンクロイツでどん引きしておしまい。そのころは政治学徒でしたからな。
旧ファン時代のベストテン。危険な二人、勝手にしやがれ、憎みきれないろくでなし、時の過ぎ行くままに、カサブランカ・ダンディ、シーサイドバウンド、君だけに愛を、銀河のロマンス、モナリザの微笑(順不同)
しかしにわか新ファンとしてのベストテンは、灰とダイアモンド、そのキスがほしい、君をのせて、涙色の空、抱きしめたい、許されない愛、あなただけでいい、脱走兵、F.A.P.P、恨まないよ、わが窮状(順不同)、とまるで重ならない。
年ですね。そしてスローなバラードがいいね。

1月11日 皇后の黒い着物

2013年2月1日 金曜日

知り合いの研究者から「田舎の葬式で留袖を来ている写真が出てきたが、葬式に極彩色の裾模様なんて事があるかしら」という疑問あり、服飾史家の伯母に問い合わせ。
「江戸時代は葬式は白装束、黒を着るようになったのは明治になってからだと思うよ。灰色や水色の着物を着ることもあった。だいたい庶民は礼服などあつらえることはできず縞木綿など普段着でやっていたでしょうね。明治以降も留袖と喪服二つは作れないから、もちろん留袖を葬式でも着たでしょうよ」問題解決。
3・11の慰霊祭に皇后が黒い着物で参列したので、うるさ型はバッシングしているとか。「あれはね、明治20年に礼服の規定ができて、女性も洋装ということになったわけ。ご大喪じゃあるまいし、民間人の死をいたむのに、着物でいけないなんていう方がおかしい。あの方はほかにも宮中の因習を破って、お子さんを自分で育てるとか改革をなさったのだから、それでいいのよ。どんどんやって」
明治20年と言えば欧化ブーム、そのときにできた「追いつき追い越せ」後進国的発想の規定は今も生きているのだろうか。ブータン国王夫妻は独自の文化を着ているもので表現して、しかも美しかった。
体調すぐれない天皇をいざという時支えるにもハイヒールでなく、草履にしたという説も。大切なのは着るものでなくいたむ気持ち。天皇は誕生日にも仮設で冬を越す人々、原発にふるさとを追われた避難者の事に思いを馳せていた。沖縄の人々の気持ちに国民みんなで思いをいたす、というぎりぎりなメッセージまであって、共感。

1月10日 クマの家にしろくまくん。

2013年2月1日 金曜日

ようやくしごとが終わって、年末にするべきだった家の片付け。ブラウン管テレビを二つ捨て、家中のVHSカセットをみんな捨て、切れている電球を取替えた。10年もちますよ、とつけてくれたLED電球、青白く、まぶしすぎる。申し訳ないが、オレンジ色のうんと弱いのに変えてもらう。しかしこのソケットにはもう対応する昔の電球がないそうだ。買う前によく見てワット数も調べた方がいいよ。

ところでモノクロの写真フィルムも売っていないし、ハンディカムの録画用テープももうほとんど売っていない。LEDが嫌な人、気分悪くなる人はいまからそうでない電球を買い占めておかなくては。
地デジ対応のテレビもすすめられたが、テレビはいらないのだ。
そこで15年前に取り付けたクーラーヒーターを取替え。クーラーと言えば強い冷風・温風が一方向に吹き出し、乾燥すると思っていたが、いまのは待機電力ゼロ、部屋内の湿気をすってミストにして出すから乾燥せず、ほこりも集めてくれる、人のいる場所を察知して風向をかえる、音もほとんどせず。なかなか快適。でも「まだ使えるのに廃棄すればゴミの山をふやすだけだ」という娘との論争終わらず。
私は地域の電気屋さんから買って、仲よくして、老後の支えにもなってもらいたい、と思ったのだが。実家には出入りの電気屋さんがよくきて、いろんなことをしてくれた。
たしかにもう家電を次から次へと買う時代ではなくなったのもたしか。

1月9日 大政翼賛的オリンピック誘致

2013年2月1日 金曜日

千駄木小学校の脇をとおったら、プールにオリンピック誘致の看板がかかっていた。
オリンピックに反対な人も多いのに、東京中、全国中、税金使って誘致宣伝するのはいかがなものか。とくに学校ではいかなる宗教活動も宣伝は禁じられている。「オリンピックを催せば日本が元気になる」「ロンドンで勇気と感動をもらいました!」というのも、原発安全神話とおなじく一つの宗教。
かといってオリンピック反対、福祉や医療に税金を、もあまり芸のない話。わたしはオリンピックやってもよいとおもう。でもそれはロンドンとおなじく、弱者のため、福祉や医療を増進し、すみやすい東京に変える為にきちんと政策誘導のTOKYOプランがあってこそ。町づくろいとして、というのが前提。まず、日暮里富士見坂から富士山が見えなくなったら、きてくれる外国人もがっかりする、ワールドカップのとき、海外からのVIPを谷根千に案内し、みんなあそこで富士山が見える事をワンダフル、と声をあげていたからね。東京の歴史的遺産を守り切って、それを外国の方にも胸を張ってみていただく。
金メダル何個って話ではない。

1月8日 機械音のアナウンスはたえられない

2013年2月1日 金曜日

前の道に自動車専用道路ができたので喜んでいたが、これがいつも路肩駐車ではしれない上、どこかですうっと消えてしまう。なんの意味もない。
大山商店街からの帰りに東上線に乗ったが、あのコケッティッシュな「あらー」「いやーん」みたいな声のアナウンスに朝夕がまんしている通勤客に同情。よほど働こうと言う戦意をそぐな。それを狙った陰謀だったりして。東京女子医大病院の支払い機の声も団地妻シリーズを思い出した私だが、こういうアナウンス声って誰が開発しているのだろう。地方の博物館。資料館の元気とかわいいが売り物のアニメ的子ども声にもぞっとするけど。みんな気にならないのかなあ。

1月7日 ぼけぶり

2013年2月1日 金曜日

高齢者のみ急増。「こんなに人口ピラミッド崩れたら俺たちかなわないよ」と息子。「そうだね、nps細胞なんて発見してる場合じゃないよね」違うってば「tpp細胞だっけ?」それは農業とか…。
家族焼き肉研究会で本郷の房家にいった。「お正月だからぱーっとやろう。これ初めてだからいってみよう!」それ前頼んだよ、と娘。「あ、じゃあこっち。どんな食感かな」もう前に二度頼んだよ、と息子…。正月早々、順天堂の脳神経内科に予約。脳の萎縮ますます認められるかも。ここの予約の待ち受け音は小さい音量でメロディでないので、耳にやさしい。