2011年7月 のアーカイブ

震災日録 7月11日 夜のピクニック

2011年7月19日 火曜日

1日仕事。夜、アンノ画伯を囲んで食事。たのしい。丸森の友人から電話。「次はいつくるんですか? 船は直してますが、いまこのへんの魚はちょっとどうでしょうか。もう3年くらいは無理でしょうかね」石巻の友人から電話、「月末に韓国にいこうよ。被災地だけにいちゃいけない。新しい発想がわかないもの。不登校児を集めた学校を観に行くんです。足が痛いならおぶってあげますよ」ちょっとその気になる。恩田陸『夜のピクニック』を読む。名著。なぜこれまで読まなかったのか。

震災日録 7月10日 ヤノマミ

2011年7月19日 火曜日

57歳の誕生日、朝、和歌山のユタカから電話。多宝塔の解体修理も大詰め、震災や原発のことはほとんど意識にない毎日という。ヒロシがプレゼントにチョコレートケーキを買って来てくれる。サトコは手ぬぐいと無化調ラーメンの本くれる。ほんとラーメンずきはこまる。集英社の横山さんは毎年お花を贈ってくれる。昨日に続きほおずき千成市へ、ほうろうのみかさんのチキンライスは1年に1回ここでしか食べられない。相変らずうまし。3時から蔵で「ヤノマミ」を見て、制作者国分拓さんをみんなで質問ぜめにする。

ヤマノミはアマゾンにいる原住民。シャボノといわれる円形の住居に共同で住む。真ん中は広い運動場。そこでお祭りや綱引きをする。原則一夫一婦制。採集経済で少し耕す。

ほとんどハダカ。ことに女は保守的で何も付けない。赤い糸みたいな装飾、においのするくさや花を体に飾り、体に色でお化粧、縄文の石器の模様みたいな波や丸の模様を描く。

食事はサルの頭とか野ぶたのこげたのをかじる。みんなで獲ったものはみんなで分ける。1日500カロリーくらいだそうだ。

圧巻は14歳の少女が妊娠し産む。しかし自分で育てるかどうか決め、育てないと判断した場合は首をしめ、バナナの葉に包んでシロアリの塚にいれ食わせてしまう。女が性の自己決定権を持っているわけだ。もういい悪いとは言えない世界。中絶技術は持っていないらしい。尊敬する佐藤忠吉さんは「生産力を人口が上回ったら戦争や間引きは避けられない。それは人類愛の究極の姿」と言っておられたのを思い出す。勇気ある発言だが。優れたドキュメンタリー作家は原一男にしても池谷薫にしてもどこかワルな匂いがする。国分さんもどこかそんな感じの人。撮るときは撮るんだもんね。どんなに嫌がられても。それにしても自分が近代という視点から何でも考えているのを省みる。

ヤノマミも貨幣経済や近代に侵されているところはきれいにトリミングされていた。台湾や中国、タイ奥地、インドネシア・カリマンタンなどの村は言ったことがあるが、まさかアマゾンでは住めまいなあ。

震災日録 7月6日 節電キャンペーン

2011年7月15日 金曜日

歯の治療。母の作る団扇はほおずき市を待たずして安田邸で売れているとか。自分自身、何をしても無力な感じ。もの言えば唇寒し、というか。それで前回そっけないブログになった。地下鉄のマンション広告は長い間、オール電化をうたっていたが、最近、免震構造になった。同じマンションなのに。節電も東電と政府のオール日本「贅沢は敵だ」キャンペーンであって、電気はあまっているのだという噂も。さんざんウソのデータと隠蔽が続いただけに何も信じられない感じ。だいたい本日の供給に対する使用料は94%という地下鉄の表示も、私なんか「あと6%もあるじゃない」と楽天的になってしまうが、電力会社は危機感を煽っている。

震災日録 7月7日 復興でもうけるコンサルタント

2011年7月15日 金曜日

松本大臣の言動をみたら辞任も当然と思うが、だからといって『一生懸命やっている被災地の知事に失礼』とも思わない。ある人いわく、宮城県の村井知事は復興計画に地元住民をほとんど入れずに野村総合研究所かなんかに丸投げしたと言う。岩手はどうなんだ。元岩手県知事増田さんは野村総研の顧問かなんかやっている。コンサルタントの友達に言わせると、被災地はしごとの取り合い、でもほとんど大手に持っていかれるとのこと。

別のある人いわく、「菅をおろせと言ったって、ゴミ箱の中からこれしかないか、って拾ったような総理だもの。またゴミ箱からだれか拾うのかなあ」。そんな感じに政治不信も極まれり。ユーチューブなどで政治家をよく見られるので資質や品性はよくわかるようになった。いまのところ見てて好感持ったのは河野太郎かな。

イギリスで最大の新聞が盗聴によって廃刊。

玄海原発について7人しか住民のいない説明会というのも目を疑ったが、やらせメールまでして、企業としての信頼はもうないんだから九電もいったん解体したら。東海村などでも死亡事故が起きているのに、役員を業務上過失致死などで逮捕しないのは法治国家とは思えない。東電だってこれだけの被害と避難を引き起こしたら司法が動いて当然ではないか。北海道の鉄道事故ではすぐ捕まえたじゃないか。もちろん国策としての原発を推進したのは官僚だ、東電ばかり叩いても仕様がない、とみんな言う。といって結局マスコミも長年、官僚の天下りひとつやめさせられないのだから。

震災日録 7月8日 日本は旧ソ連以下

2011年7月15日 金曜日

信頼するH先生と話す。福島の子どもたちを集団疎開させないといけない。しかし行政もなにもしない。日教組も昔は「教え子をふたたび戦場に送るな」と言ったりしたのに今回存在感なし。帝国憲法化の戦時日本だって、次代を担う子どもは集団疎開させたのに。旧ソ連だって何千台もバスを仕立ててこどもたちを避難させたのに。いまの日本政府は旧ソ連以下、旧大日本帝国以下、いくらだって予算を使うべきなのは、子どもたちの疎開ではなかろうか、と先生は言う。育児手当をつけたって、これから子どもを生む人は少なくなるだろう。

丸森の友人にようやく電話。「人によって温度差がある。気にしない人は気にしない。子連れでも出たいけど遠くに親戚もないし、長逗留できるほどの友人もいないし、第一お金もないし、ここで我慢するしかないということになるのよ。牧場では草の放射線値が高いから牧草をほかから買っている。そのお金はいつかは補償されるのかも知れないけど、いますぐ金がいるんだ、とおこってる。うちは福島方面からお客さまが増えた。丸森の方がずっと福島や梁川より値が低いから。福島の果物はおいしいんだけどねえ。いまはちょっとねえ」

夜、谷中コミュニティで3・11を踏まえて建て替えを考える会。住民60人以上集まる。台東区から課長3人、係長ひとり、聞きにきてくれる。文京区では考えられないこと。住民も拍手で迎えた。何かが変わる兆し。南三陸町でユニセフスタッフとしてながく避難所の仕事をなさった建築家松下朋子さんの話。阪神淡路のときの看護師橋詰まり子さんの話。お寺には井戸もあるし、広い本堂もあるし、境内も広いし、そのネットワークを災害時使えないかという話。たしかに関東大震災時には向ヶ丘光源寺にも何百人も2か月避難生活をしていたと住職に聞いた。この回の震災でもかなりの寺が避難所になった。寺は宗教施設で檀家のものであり、人を救う施設だからこそ税金を払わなくていい、ということを思い起こす必要がある。

震災日録 7月9日

2011年7月15日 金曜日

昨日のことをつらつら考える。町会というシステムは戦争協力をしたというのでGHQに解散させられた組織だ。それが戦後、復活して自治団体というより行政の下請け化してきた。町会にも町会長や役員にもよるが、ヤマサキは30年前、町会の会合に出席の返事をしたら役員揃ってでないように説得にきたと言うことだ。谷中のNさんは最近こして来たのに同じようなことがあったと言う。「来ても役員ばかりでつまらないから来ないように」といわれたらしい。幹部だけで決めたい、ということか。それが嵩ずると私物化が始まるのではなかろうか。谷根千を発行する間にも、もちろん個人的にはいい方が多かったが、組織としては形骸化している感は否めない。町会に入っていない人も多いし、町会だけが町の正式な代表というのはどんなものか。

きのうの会で元気な子連れのお母さんが「冒険遊び場を作りたい」と発言し、年配のお母さんが「初音の森は歴史的な場所として保存したのだから荒らしてはいけない」と答え、いろいろ考えた。私たちも25年前に世田谷みたいに木登りも出来る、火も水も使える冒険遊び場をやりたかったのに出来なかったから、若い母親を応援したい気持ち。でも「きのう今日来た人たちが歴史を踏まえず勝手なことを言い出すのは困る」という気持ちも正直言って少しある。

谷中や根津のような古い町は焼けなかっただけに何代も続く住民が我が物顔になりがちで、戦後きた三崎坂の野池さんなんかもいまでこそ連合町会長だが、さんざん新参者と言われて苦労なさったらしい。私のうちも親が二人とも下町と山の手の空襲で焼け出されて動坂に来たわけだが、それは親のせいではない。戦争のせいなのだ。何代も続く住民もきのう来たばかりのひとも同じ権利同じ発言権がある。これは当たり前のこと。ただ昔からいる人の見てきたこと、知っていることは尊重すべきこともある。谷中たねっこなどのお母さんたちも子育てセンパイである我々に何か聞いてくれればなあと思う。

ともかく原発によってふるさとを失った人たちが行った先で「よそもの」「しんざんもの」などといわれないように私たちはがんばらなくては。

一方昔を訪ねれば谷根千は北條時代は同じ人の地行地であり、あとから行政が引いた線で、文京区だ台東区だとおたがい批判しあい、区民じゃないから口を出すな、というような考えにも首を傾げる。台東区民も森鷗外図書館でよく見かけるが、税金はらっていないから使うな、などという人はいない。谷中コミュニティセンターも文京区の人が使っている。そりゃ小日向の施設へ行くよりよりよほど近いのだもの。今回の震災の経験を見ればわかるように、人はより近くて安全なところに向う。私も化学薬品や実験用動物が多く、ビルだらけの東大に逃げる気にはなれない。谷中墓地方面に向うと思う。とはいえ防災センターに付いて意識の低い文京区にも区民として働きかける必要はある。

震災日録 7月3日-5日 軽井沢へ

2011年7月8日 金曜日

昭和4年の建物を入手して修復された方の家を見せていただく。軽井沢は湿気が強く、あまり使われない別荘は旧軽でも傷んでいるのを散見する。帰って来て新刊「おたがいさま」ができたので編集者の倉沢さんとビール。今朝の新聞によれば松本大臣辞任。

震災日録 7月2日 青鞜の冒険 

2011年7月8日 金曜日

車で広島にでて新幹線で帰京。平凡社「こころ」の青鞜に関する原稿を書く。

最近、匿名の非難が震災字報のコメントなどにも来るが、よくブログをチェックしているなあと感心。正確に述べると「保身が目立つ」と来る。建築関係者のようだし、文体や内容からも一人の人の仕業にちがいないが匿名は卑怯だ。読んだ友人はみんなだれだろうといっているが反論のしようがない。田中正造も平塚らいてうも南方熊楠も、どんなにバッシングにあっても自分が正しいと信ずることを行った。その強さに学びたいと思う。

震災日録 7月1日 石見銀山

2011年7月8日 金曜日

夕方、石見銀山群言堂の松場登美さんとツナミカの相談。島根で太陽光発電を屋根に載せたらその上に雪が積もり、それが凍ってかちかちになり、雪下ろしもままならず、その重みでソーラーごと瓦がずれ、雨漏りがして大変だったとのこと。自然エネルギーもまだまだ研究開発中。島根の海岸沿いにはたくさんの風車が見える。

震災日録 6月30日 木次の農園

2011年7月8日 金曜日

智頭の石谷家を見学し、出雲の佐藤忠吉さんに会いにいく。「この世の浄土を島根に作る」「迷った時には歴史に遊べ」いいことばだなあ。