2010年12月 のアーカイブ

11月10日

2010年12月30日 木曜日

岩波のブックレットに私は執筆せずシンポジウム部分だけに参加した。だから表紙の著者の所に名前がないのはいいとして、まったく肩書きもプロフィールも載せていないのである。これでは誰だかわからないではないか、といったら編集者は「校正段階でかなりあふれていたので載せられなかった、再版から載せます」と言ってきたがどうも気分が良くない。また別のひとから木内昇『漂砂をうたう』には森さんの調べたこと、根津の遊郭や金魚屋の話とかずいぶん使ってあるようだけど参考文献に『不思議の町根津』も谷根千もあがっていないのはおかしいのでは、と聞いた。そういえば連載中編集者が資料を買いにきたっけ。たしかに事実には違いないけれど、長年忘れられていた地域史を掘り起こして日の目を見せたのは私たちだ。司馬遼太郎さんや吉村昭さんは郷土史家を大事に遇し、小説やエッセイの中でも礼を尽くしておられる。最近の作家はこんなものか。まだ本も送ってこないし、気分が悪いから買ってまで読む気はしない。この作家、『茗荷谷の猫』でかなり好感を持っていたのになあ。

11月8日

2010年12月30日 木曜日

神戸で待ち合わせ、菊正宗の資料館から有馬の花子宿に泊まる。料理よし、温泉よし、値段納得のよい宿である。老舗御所坊が廃業した宿屋を買って建て直した。ただ木造のせいかかなり冷える。「そうなんですよ。だから冬はすいています」と宿のひとは正直だった。翌日、播州平野で酒米山田錦の農家など取材。夕方、神戸の播州おでんの店で打ち上げ、中国船の衝突事故の映像を流出させたのがこの近くのネットカフェだったと、あとからカメラマンの中川さんからメールがきて驚いた。

11月6日

2010年12月30日 木曜日

今月は「住まいと町並みコンクール」の調査のためいそがしい。関西方面に出張、まずは奈良の大和三山に囲まれたニュータウンの管理を見学、京都泊まり。翌日は京都の御所近くの路地の住み継ぎ方を見た。そこから2時間半かけて和歌山県の九度山の多宝塔を解体修理している息子のところへ様子を観に行った。月曜に休みをとって半日くらい案内してよ、と息子にいうと、「ヤだよ。お母さん案内するより仕事の方が面白い。休みたくない」というので日曜日に30分だけ、現場と飯場を見せてもらった。古い民家にベニヤ板を敷いて寝ているようである。とはいっても難波の駅まで迎えにきてくれたので2時間ほど鈍行で話しながら行った。高野山三宝院に宿泊。旧知の元高野山副町長高橋寛治さんと話す。息子も最終の山から下りるケーブルカーの8時までは高橋さんたちの話を聞けて勉強になったろう。

11月5日

2010年12月30日 木曜日

盛岡。午前中、観光協会の高橋明日美さんに町を案内してもらう。盛岡というと啄木の新婚の家や賢治の本を出した光原社など行ったことがあったが、鉈屋町は知らなかった。生活の見える、観光化する前の気持ちよい町並みである。このくらいでとどまってほしいところである。午後、由緒ある公会堂で基調講演。ずっと客席側で聞いていたものにとっては恥ずかしい。指定されていなくてもされていても住民にとって身近な大事なものはみんな文化財。建築の調査だけでなく、原型復元や整備だけでなく生活の痕跡を大事にして、そこにまつわる物語を引っ張りだして大切にしようと訴えた。夕方の新幹線で帰る。

11月4日

2010年12月30日 木曜日

残念だが丸森を切り上げて盛岡へ向う。町並み保存ゼミ盛岡大会の前日に、つなぎ温泉で理事会が開かれる。そこに混ぜてもらった。大きな旅館だったが宴会料理はなかなか内容が充実していて、おいしかった。それに盛岡のお酒「あさ開」が最高。今回のゼミは行政も力を入れ、産婦人科の先生が実行委員長、この日も御産が終わってから駆けつけていらした。事務局長は鉈屋町で修復、活用の中心となっておられる建築家だ。懐かしいお顔にたくさん会ったが、電池切れで早めに部屋に引き揚げた。

11月3日

2010年12月30日 木曜日

森鴎外の全集とどく。一日小屋で読書。

11月1-2日

2010年12月30日 木曜日

夏に姥湯に寄った帰り、のぞいてきた滑川温泉福島屋さんに、丸森の仲間たちと自炊湯治に行く。すごく親切で居心地のよい宿。これで自炊なら一人3000円である。

あいにく天気はよくなかったが、ひさしぶりに花ちゃんとおふろで遊んだ。花ちゃんも小学生、会う度にうつくしく、どんなにきれいなお嬢さんになるか楽しみだ。露天風呂にどんどん落ち葉が入るのでそれをすくっては川に捨てるのを二人でやって面白かった。自炊は牡蛎鍋、うちの白菜もいれた。お酒を一杯飲んだ。

11月

2010年12月7日 火曜日

11月です。頭痛と耳鳴りは相変わらずです。

ある男のひとが猛暑なので喫茶店でおしぼりで顔をぐるぐるふき、「これは男だけの特権ですなあ」というので、私もかまわずぐるぐる顔を拭いたら、びっくりしていた。「わたしは化粧してないのではげないんですよ」といったけど、はしたなかったかしら。ホントは耳の後や首筋もふきたかったわねえ。

このところ、秋なのか講演をよく頼まれるのだが、本当に腹の立つ事が多い。

半年前に引受けると、それからしょっちゅうメールヤ手紙が来る。それもながたらしい、どうでもよい挨拶ばかり。

こうすべきだ。
最初のメールに書いてほしいのは、組織名、名前、連絡先
講演会の趣旨、テーマ、タイトル、日時、人数、どんな人が多くくるか。
そしてギャラ。失礼かと思いまして、などとはっきり言わない事が多い。
遠方なら交通費と宿泊費が出るかどうか。その手配はどちらがするか。泊まる場所など。挨拶はいいからシンプルにはっきりと。

気のきく人は会場までの所要時間や経路を書いてくるものだ。宿や食事の希望を聞いてくれる。どこかついでにご案内しましょうかと言ってくれる人もいる。

ひきうけると次のような依頼をぽろぽろしてくるが一度にまとめてしてほしい。
プロフィール、写真、内容の梗概、レジュメを送れ、パワーポイントや書画カメラは使うかどうかなど。本の販売はするかどうかなど。車で来るのか、随行者はいるのかなど些細なことまでいちいち聞いてくる。他に仕事はないのか、よっぽど閑なんですね、と言いたくなるくらい。メール往復20回とか。

そのうちポスターやチラシをどっさり送ってきたりする。これ、講演者に人集めしろということか?配れというのか?

そのくせ一回も電話をかけて来なかったり。前の日にリマインドもしないのは担当者として失格。

遅刻するのが心配なのか、シンポジウムの2、3時間前に集めて昼食会だの打ち合わせをする。面白いことはみんな打ち合わせでしゃべってしまう。だから本番はつまらない。だいたい本番の頃はもうへとへとだ。
楽屋にいるとつぎつぎなんとか部長とかなんとか委員長とかいう背広のひとが名刺を交換しにくる。どうせ、あとで覚えちゃいないのに。
講演の前に出される弁当が超豪華、喉に詰まるような刺身にトンカツ焼き肉はんばーぐ。これたべてしゃべれというのか?そして女の人がぱたぱた出入りしては何度もお茶を買えてくれる。コーヒーはいかがですか。一人にしてよ、話す前には精神統一が必要なんだから。

壇上に上がると急にライトで照らされたりする。わたし目の病気でライトは困ります。
フラッシュを勝手に焚いてバチバチ写真を取る。テレビ収録も事前に相談なく撮りにきていたりする。著作権、肖像権はどうなっているのか?びっくりです。

おわってから急に懇親会にさそわれたりする。そんなの聞いてないよ。そうならそうと先に言ってくれ。
おみやげに「お荷物になりますが」と主宰者が重い大きいお菓子や銘酒をくれる。大きなこけしや花瓶の時もある。ひゃあ、これもって帰れというのか。だいたい好き嫌いだってあるのになあ。

1年もたってから、報告書を出すのでテープ起こししたものに目を通せと言ってくる。

そんなの契約になかったよ。もうわすれてしまいましたよ。しかもそのテープ起こしときたら、うーだの、アーだのまでおこしてあるような、誤字だらけの中学生仕事。2時間の講演を直すのに3日かかったり。明治村と松山子規博物館は校正と機関紙に掲載することに対して新たにギャラをくださいました。見習ってほしいものです。

以上、ただしい講演の頼み方、でした。ご参考までに。

10月31日

2010年12月7日 火曜日

仙台文学館で『即興詩人のイタリア』の講座始まる。だんだん常連のような受講者増え、たのしい。しかし鷗外が9年かけて訳したものを4回でやろうというのだからしょせん無理か。帰りに高橋広子さんのお宅で鮭といくらの入ったはらこめしで一杯。

10月30日

2010年12月7日 火曜日

東大の木下直之さん主催の文化資源学の学会で谷根千の地域文化資源とそのアーカイブ化に関して試論を話し、みなさんからの意見をいただく。旧知の佐藤健二さんも「区の図書館、資料館なんかに預けちゃ駄目だよ」という。愛情のない人の手に渡る可能性があるから。ロナルド・ドーア先生が『都市の日本人』で調査されたときの上野花園町の資料もあるそうだ。かえり、大勢で本郷で飲む。