武谷なおみさんが東京駅のスレートの募金に3万円も送ってくださることになった。ややこしくて不思議な話。
大阪芸大教授でシシリア文学の研究者の武谷さんは故・須賀敦子が残してくれたともだちである。ひさしぶりに上京されて先週の土曜日、一緒にお茶の水でランチをしていたら、2時からのオペレッタ『ベニスの一夜』の切符を持っているお友達が急用で行かれなくなったと電話あり。それで一席余りちゃっかり私がご一緒してしまった。そのオペレッタは陣内秀信夫人の美子さんが公演のお世話をされ、須賀さんの友人の大町志津子さんが衣装をデザインされた。人のえにしを思う。
そのチケット代、武谷さんと私の分をお友達にお払いしようとしたら、受け取っていただけなくて、森さんの東北支援に使ってという伝言があった。そのお友達とはパラディオの研究者の渡辺真弓先生なので、武谷さんは震災後に神戸の谷崎旧居の保存もされた方でもあり、雄勝のスレート産業復興募金にいただくことになった。あと一万円は武谷さんのご夫君(歴史遺産学の研究者)のカンパ。あまりにありがたく不思議なお話なのですみません、書いてしまいました。
というかそのオペレッタのすばらしいことがいいたかった。初めて見たのだが、歌も仕草もセリフ回しもとっても上手で、あちこち笑えるし、楽しいことこのうえない。それなのに日本オペレッタ協会は資金難でこの35年公演でひとまず解散するのだそうな。
文化庁も歌舞伎や能や文楽に補助するのもいいけれど、渡来ものとはいえ、こんな楽しい文化を支えないのはこまるなー。どんなに技術があってもフランス人形では伝統工芸士にも人間国宝にもなれない、と聞いたことがあるが、狭間の分野というのがあるのかもしれない。ポップスや演歌は売れればいいし、クラシックはコンクールも多くて顕彰もされるが、ジャズやシャンソンやファドやカンツォーネの歌手はなかなか日が当たらず、経済的にも大変。
‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ
2月23日
2013年3月11日 月曜日2月22日 江木ませ子は千駄木にいた!郷土史関係
2013年3月11日 月曜日これから、というか、前からやっているが、谷根千郷土史関係で新たにわかったことはどんどんブログに載せていきます。そのときは赤字で告知いたします。
3月に『むかしまち地名辞典』が大和書房より出ますが、そこには駒込病院、山の湯、大観音、谷中近藤邸、神明町の吉野作造、明治研究会とおでんの呑喜などについても収録されます。
22日、高校の先輩で戦後初の国際女優となった谷洋子について妹さんにお話を聞きました。そもそも谷洋子の母猪谷妙子も奥むめおの片腕で、働く婦人のために尽力した人。なんと妙子は鏑木清方『築地明石町』のモデル、江木ませ子の娘だそうです。江木ませ子は浅草や新橋で江木写真館を経営する江木家に嫁ぎ、夫の農商務省に勤める江木定男が早く亡くなった後、千駄木にすんでいたそうです。ませ子、妙子、洋子三代に渡り絵を描く人で、進取の気性に飛んでいたこともわかりました。とりあえずご報告まで。
2月21日
2013年3月11日 月曜日朝日新聞広告局よりエッセイの掲載の依頼が来る。よく聞いてみると、灘中の試験問題に私のエッセイが出た、それを見事当てた、というので某塾が広告中で問題を載せたいのだそうだ。ややこしい話だし、受験競争とそれによって傷つく人をふやしたくないので断った。そうすると朝日より、既に版下もできて下版間近なのでどうにか載せさせてほしいと電話あり。忙しいので面会は断ったが担当者の青い顔が見えるようでかわいそうになりしぶしぶ許可。でも手続が逆でないのか? ちなみに出た問題は「おたがいさま」の前書きだが、別に正解例をつけるわけではないらしい。灘中の試験問題に何が出るかは注目の的なのでぜひ報道したい、というのだが、報道ではなく広告だろう。「エッセイが良いのでぜひ載せたいというわけではないんですね」というと、「塾の先生も、灘中の先生も、いい文章だと思ったから問題にしたのだと思います」という。あまり売れずにマイナーだから問題になったのかな。
このまえも朝日新聞社は私に断りもなく、肖像写真を3万円で某出版社に貸し出した。記事の取材で撮った写真を他の用途に貸し出しているらしい。歴史上の人物ならともかく、肖像権は私にあるのだし解せない。すくなくとも気に入らない写真は削除してもらう。若いころのほおのこけた写真などもあった。びっくり。
2月20日
2013年3月11日 月曜日きょう賛同アピール締め切りの日。文化関係者に限る賛同をメールで集めるという手法はよくなかったと反省。だれでも参加できるものだけにインターネットを使うべきでした。すみません。でも封書なら分厚くなる量の資料もカラー写真も一瞬で送れ、情報が共有できるのは便利だなあ。
天明は江戸でもとても天変地異の多かった年間。飢饉、火事、地震、そして浅間山の大噴火。いままたプレートがおさまりきれない地震列島の上に行きているわれわれに警鐘を鳴らし、天を恐れることをおしえてくれる遺跡だと思うのだが。ダム湖観光などに来る人より、フィールドミュージアムのほうがずっとおおいとも思うのだが。サックス奏者、坂田明さんから賛同、酸性の吾妻川にミジンコはいるかな、と返信したら「どんなところでもいって調べて見ないとわかりません」とのこと。
2月19日
2013年3月11日 月曜日町の食べられる景観を一緒に調べた千葉大の木下勇さんも、八ッ場ダムについて力づよいメールをくれた。
「川原湯温泉も今は4軒とは、何ともやるせない地域の方々の怒りと無念さが推し量られます。遺跡群と温泉等の資源を活用したフィールドミュージアムの構想を支持します。脱原発で水力発電の重要性をといってもダムの適地、不適地もある。火山層で地盤が脆弱等、今日いろいろな科学者の関わりでも様々な疑問が提起されている中で、これだけの文化遺産が存在する地域を、50年近く前の計画に固執することは愚かな行為と思います。地元の長年の反対を権力によって押し切り地域をずたずたに破戒してきた行為が、人々の心理面にどんな影響を与えたかを想像するに難くない。今の政権の公共工事による経済再生といってもその効果は今日かなり疑問だが、そんな政治的判断の道具にさせてはならないと思います。
フィールドミュージアムには川原湯温泉はじめ、地域の生活や文化がいかにこの開発計画によって変化したかという「大規模開発計画と地域の生活史」のような記録も紹介するのも企画として考えられるのでは。そして、これだけの話題で多くの人が関わったからには、その地域の再生に多くの人が関わり、それも記録して現在進行形の参加型のミュージアムの展示資料とするような。それだけの文化人が関われば、今世紀型の地域の再生が可能かと思います」
2月18日
2013年3月11日 月曜日軍事評論家の前田哲男さんよりいただいたメール! 郷土史関係。
「私にとっても鷗外は特別な存在で、それは小倉時代に鷗外が住んだ家の二軒隣りに4年ほどいたことがあるからです。父が勤める会社の社宅でした。家主の宇佐美さんは「小倉日記」や「鶏」に出てきますが、両隣におなじ造りの家作を建てたもののようです。もっとも当時、鷗外旧居のほうは「大八木公輔弁護士事務所」になっていて、片側に赤煉瓦の事務所が設けられていたため、わが家とおなじ造作とは知りませんでした。復元された旧居を見てわかった次第です。
昔話をつづけると、当時の鍛冶町(五丁目でした)は今では想像できない静かな住宅街で、教会、お寺、幼稚園、「土筆」という料亭などがあり、昼間の人通りはあまりありませんでした。宇佐美のおばあさん(「日記」にある盲目の少女ではない)が鷗外のことを覚えていて、「毎朝、お馬でお城(師団司令部)に行きなさった」などと話してくれました。私がいたときに「鷗外旧居跡」の小さな碑が置かれて、その除幕(というほどのものでもない小さな集まり)に森於菟さんが立ち会われるのを見ていました。中3の頃です。新幹線が景観を俗陋の巷に変えてしまいましたが、旧居が復元されたのがせめてもの慰めです」
小倉時代の鷗外について貴重な証言なので引用させていただいた。このころ鷗外は独身で30代、女中を雇っても逃げられたりして苦労している。このへんについては松本清張に『鷗外の婢』がある。前田さんは鷗外のイメージについて、軍事評論家としては兵食論争を読みあさったので素直ではない、とも書いておられるが、私こそ兵食論争まで踏み込むゆとりがなかった。
2月17日
2013年2月26日 火曜日挟土秀平さんという有名な左官の方から賛同のメール、茅葺き屋根の熊谷秋雄さんや滋賀の文化財修復管理の村田信夫さんからも、由布院の中谷健太郎さん、愛媛の五十崎の亀岡徹さんからも。う、う、う……。誰かが姜尚中さんの賛同をいただいて来た。東大では川本隆史さんや埋蔵文化財の原祐一さんも。
飲み仲間の鴨ちゃんは「いいから、牧野伊佐夫もいれといて」なんて簡単なこといってさ、でも後でちゃんと「牧野さんも遺跡を壊すのには大反対と言ってます」と返事くれた。
町並み建物関係は遺跡にあんまり関心ないのかなあ、とおもっていたら八女の北島さん、大島さんたちが揃って賛同してくれた。遺跡なのに、考古学はぴくりとも動かない。藤村作の旧石器時代の捏造事件のときにかなり勉強したが、あの事件を経ても体質の変わらないこと、あたかもとばくと八百長事件をへても相撲協会の体質が変わらないかのごとし。
2月16日
2013年2月26日 火曜日きのううずまき堂の金井真紀さんが名簿整理でも資料の作成でも、なんでも手伝いますと言ってくれた。彼女とは去年の暮れに京都に瀬戸内寂聴さんのところにお話を聞きにいき、また鶴見俊輔さんのところにちょっとだけお邪魔した。その金井さんに八ッ場の帰り、上野の三橋であんみつを食べに入ったらばったりあった。デート中かと見たら、一緒にいたのは弟さんで、娘が八ッ場の遺跡の資料を渡したのである。人生は本当に不思議のうずまき……。
仕事関係の編集者の方々を巻き込むのは避けたいが、今回も自主的に皆さん、手伝ってくださっている。毎日、パソコンの前に15時間くらいいて、メールを回したり、お礼メールを送ったり、名前を取りまとめておくったり、肩書きを問い合わせたり、too much traficでわけがわかんなくなって来た。
ヤマサキの日暮里富士見坂の運動を私が手伝ってないのに、ヤマサキは私の呼びかけなどを谷根千ホームページの情報トピックスの欄に埋め込んでくれたので、軽く簡単に送れようになった。根岸の清水ますみさんからは「富士見坂の命がけのヤマサキさんに殉じる準・命がけ」という清水さんも、八ッ場のほうもたくさん広めてくれている。30年を越す同志、あんたがいるから私もがんばれるよ。
2月15日
2013年2月26日 火曜日きのう、作家の黒川創さんとメールでおしゃべり。賛同は彼なりの考えがあっていただけなかったが、私が30代で彼が20代で、世田谷区の編集ワークショップのインストラクターをした時のことをまざまざと思いだした。だいいち、「谷根千」を京都で最初に発掘してくださったのは父上の北沢恒彦さんだったし、そこから鶴見俊輔さんにもお目にかかったり、北沢さんはロンドンの森嶋さんともつながったり、と人間の不思議な網の目と考えてパソコンの手が止まった。
私のメールアドレスがさらされないように、守本さんがyamba@yanesen.comというあたらしいメアドを作ってくれた。やまんばになった気分。
「ここまで来てしまったのだから、ちゃんとダムをつくってくれ、という『地元の声』とされているものは、ハラキリを途中でとめられている人が相手に介錯をせまっているような、悲壮なものに感じます」。黒川さんのメールの言葉を何度も読み返し、ちょっと意気消沈してしまった。でも、私は八ッ場ダムは間違っているし、作ったらもっと大きな禍根を残す、という自分の信念に殉じざるを得ない。躯体の強度、地すべりの危険、上流の火山の爆発、浚渫や保守管理、ヒ素と酸性水の中和、なにをとっても……。
2月14日
2013年2月26日 火曜日むかし板橋区の環境問題の委員をいっしょに勤めたきくちゆみさんが賛同してくれて、呼びかけ人にもなってくれた。20年ぶりの連絡。前から交流のある劇作家の永井愛さんも呼びかけ人に。野田知佑さん、加藤登紀子さんと入れて8人。これでいいことに。それにしても肩書きっていやな言葉である。でも名前だけだと、いくらでも仮名を作れるのだし、アピールに賛同するには、その問題に対するある程度の知識と覚悟を持たなければならない。謙遜なのか、無名人です、あくまで一個人で、肩書きはありません、と書いてくる方もいて困る。かと思うと、編集者で「会社のお名前を出していいですか」と聞くと、「出してクビになった例はないですから」なんて答えが帰って来ると、うれしくなる。公務員の方には無理してもらいたくない。ジャーナリストには賛同より報道を。