2月18日

軍事評論家の前田哲男さんよりいただいたメール! 郷土史関係。
「私にとっても鷗外は特別な存在で、それは小倉時代に鷗外が住んだ家の二軒隣りに4年ほどいたことがあるからです。父が勤める会社の社宅でした。家主の宇佐美さんは「小倉日記」や「鶏」に出てきますが、両隣におなじ造りの家作を建てたもののようです。もっとも当時、鷗外旧居のほうは「大八木公輔弁護士事務所」になっていて、片側に赤煉瓦の事務所が設けられていたため、わが家とおなじ造作とは知りませんでした。復元された旧居を見てわかった次第です。
昔話をつづけると、当時の鍛冶町(五丁目でした)は今では想像できない静かな住宅街で、教会、お寺、幼稚園、「土筆」という料亭などがあり、昼間の人通りはあまりありませんでした。宇佐美のおばあさん(「日記」にある盲目の少女ではない)が鷗外のことを覚えていて、「毎朝、お馬でお城(師団司令部)に行きなさった」などと話してくれました。私がいたときに「鷗外旧居跡」の小さな碑が置かれて、その除幕(というほどのものでもない小さな集まり)に森於菟さんが立ち会われるのを見ていました。中3の頃です。新幹線が景観を俗陋の巷に変えてしまいましたが、旧居が復元されたのがせめてもの慰めです」

小倉時代の鷗外について貴重な証言なので引用させていただいた。このころ鷗外は独身で30代、女中を雇っても逃げられたりして苦労している。このへんについては松本清張に『鷗外の婢』がある。前田さんは鷗外のイメージについて、軍事評論家としては兵食論争を読みあさったので素直ではない、とも書いておられるが、私こそ兵食論争まで踏み込むゆとりがなかった。