2013年6月 のアーカイブ

5月21日

2013年6月24日 月曜日

半藤一利さんにお誘いを受けて大相撲を見に行く。初めて枡席で見る。力士のぶつかるおとも聞こえ、臨場感甚だしいが、とにかくあの狭い升に座ってみることがつらい。そこにビールに空豆も運ばれて来る。お土産はあんみつ、焼き鳥、甘栗にチョコレートで持って帰ったら家族が喜ぶものばかり。帰りは隅田川を船で浅草にでて、しぶやで半藤さんの誕生日祝い。きょうの三人は皆ウマドシでありました。

5月20日

2013年6月24日 月曜日

沖縄からお客さま、案内しているとまたあちこち、町の変貌が見えてがっかり。ことに観音寺の登録文化財の塀の真ん前にヘーベルハウスが新築中。

5月19日

2013年6月24日 月曜日

日曜日、それも三社祭の日に浅草で漱石について語る。いい聴衆で話しやすかった。

今は『青鞜の冒険』出頭がいっぱいな訳だが、そういえば漱石の『三四郎』の美穪子は平塚らいてうがモデルだから、そこから話を始めることにした。弟子の森田草平が平塚はると問題を起こしたとき、漱石先生は平塚家に後始末の挨拶にいって「必ず近い将来、令嬢に結婚を申し込ませる」などと言っている。森田草平は妻子がいたのにだ。さらに「この男は事件のせいで中学教師の職を失ったので、小説を書いていきていくしか無い」と事件をモデル小説にすることの了承を求める。こういうやり方に平塚らいてうは生涯軽蔑感をもっていた。「違う、私の望んでいるのはそんなことじゃない」と言いたかったであろう。

5月18日

2013年6月24日 月曜日

5月18日

午後三時まで集中して『青鞜の冒険』の再校。そして宮永会館でリカーズのだやさん主宰の日本のワインを応援する会。木次乳業の奥出雲ワイナリーについて。飲み過ぎ、食べ過ぎの一日。反省。

5月17日

2013年6月24日 月曜日

家のお米がなくなって、息子たちのリクエストで鳴子の米プロジェクトの『雪むすび』を注文の電話をかけた。去年は東北の別の米を買ったのだった。ところが去年秋の雪むすびは12月前に完売。NHKのテレビ放送のあと注文が殺到したという。いい事だけどなんだか割り切れないような。一昨年も昨年も今頃、注文してもあったのに。いっぽう東北のほかの米農家はなかなか米が売れなくて苦しんでいる。

メディアの威力と言うものになんだか、あーあ、である。

t �e e’����n:left;mso-pagination:widow-orphan; background:white’>

森鴎外43歳が日露戦争従軍時に第二軍軍医部長として妻へ書いた手紙。「今度は何万と言う兵隊がもう15日も居るが悪い病をここで発したものはまだ殆ど無い位だ」(明治36・4・7)、「我が跡をふみもとめても来んといふ遠妻あるを誰とかは寝ん」(4・17)。「奉天には遊びどころがあって女なんどもいるので人がだいぶいくようだ。おれにはなんでそんな馬鹿な事ができるたらはたから見ても分らない」(38・4・20)

5・15

辺見庸さんの毎日新聞のインタビューがすごい。震災後のマスメディアの自己規制について。わたしも『震災日録』についていうと言いたい放題と言うわけにはいかなかった。自己規制は普通の人を傷つけないか、というところに働いた。でもみんなを傷つけない言説なんてありえない気がする。

「今の世に神経衰弱にかからぬやつは金持ちの魯鈍ものか、無教育の無良心の徒さらずば、二十世紀の軽薄に満足するひょうろく玉に候」
「小生千駄木にあって文を草す。左右前後に居るもうろくども一切気にくわず、朝から晩まで喧嘩なり。」
「僕は世の中を一大修羅場と心得ている。そうしてそのうちにたって華々しく討ち死にをするか、敵を降参させるか、どっちかしてみたいと思っている」

漱石には励まされる。

5月16日

2013年6月24日 月曜日

橋下大阪市長の発言は女性議員や女性団体から総攻撃されている。「性的欲求が強い若い男がたくさんいる軍隊の近くに慰安婦のようなものは必要だ」という考えなのだと思う。それで沖縄の司令官にあからさまにも「風俗をもっと利用して」といったのかもしれないが、自分を基準に物事を考えてはいけない。だいたい大阪市長が沖縄の風俗を利用しろとは余計なおせっかいだ。愛人が何人もいたと書かれて、「ぼくはそのころ政治家じゃなかったし、聖人君子じゃない」とさらっと逃げたのものの、今回馬脚を顕わすと言う事か。ほかの政治家の反応が鈍いのはみんなすねにきずを持つ身か。そうでない男性も多いとおもう。例えば

森鴎外43歳が日露戦争従軍時に第二軍軍医部長として妻へ書いた手紙。「今度は何万と言う兵隊がもう15日も居るが悪い病をここで発したものはまだ殆ど無い位だ」(明治36・4・7)、「我が跡をふみもとめても来んといふ遠妻あるを誰とかは寝ん」(4・17)。「奉天には遊びどころがあって女なんどもいるので人がだいぶいくようだ。おれにはなんでそんな馬鹿な事ができるたらはたから見ても分らない」(38・4・20)

5・15

辺見庸さんの毎日新聞のインタビューがすごい。震災後のマスメディアの自己規制について。わたしも『震災日録』についていうと言いたい放題と言うわけにはいかなかった。自己規制は普通の人を傷つけないか、というところに働いた。でもみんなを傷つけない言説なんてありえない気がする。

「今の世に神経衰弱にかからぬやつは金持ちの魯鈍ものか、無教育の無良心の徒さらずば、二十世紀の軽薄に満足するひょうろく玉に候」
「小生千駄木にあって文を草す。左右前後に居るもうろくども一切気にくわず、朝から晩まで喧嘩なり。」
「僕は世の中を一大修羅場と心得ている。そうしてそのうちにたって華々しく討ち死にをするか、敵を降参させるか、どっちかしてみたいと思っている」

漱石には励まされる。

5月14日

2013年6月24日 月曜日

マンションも4人暮らしだと狭い。トイレも一つだとたりないね、という。きょうは自転車を2台廃車にし、オートバイも一台廃車、借りているスペースを返す。

シェアハウスのようなものだけに、ルールと役割分担を決めなければならない。

5月13日

2013年6月24日 月曜日

も一泊、ひとりになりたくて松の湯に泊まり、朝11時の特急草津で帰って来る。特急とはいえ、のんびりした速度。赤羽でおり、エキュートでランチ。王子から南北線で帰る。この方が近い。

5月12日

2013年6月24日 月曜日

お昼まで吾妻渓谷を散策。藤の華が美しい。こんな新緑の八ッ場は初めてで、あらためてこんな美しい場所をダムの底にすることへの怒りが湧く。午後はバスで現地見学会。渡辺さんの説明は分りやすい。しかし湖面2号橋もつながり、代替地には家が立ち並び、もう既成事実が積み重ねられている。それでも負け犬の遠吠え、あんな危ないダムはない。負け犬の遠吠えかも、わおーん。

5月11日

2013年6月24日 月曜日

余り天気はよくないが、予定通り信州上田から山に入って40分ほど、真田というところにある「らいてうの家」を見学。タクシーだと一万円くらいかかるところ、コラムを連載中の信濃毎日新聞N記者が「僕も勉強したいから」と車を出して下さった。冬期は休館なので、ようやく初夏とともにあいて、青鞜の実物が陳列してあった。私の持っている不二出版の復刻版では創刊号が真っ黄色。しかし今まで出た本には皆クリーム色と書いてある。実際には古びているから元の色は分りづらいがクリーム色がただしそう。また復刻版はみな同じ大きさに断裁してしまうが、青鞜の創刊号はほかの号よりサイズが大きい。おお、これも谷根千と同じ。創刊号だけ千駄木三丁目の楠山タイプ印刷所で刷ったので、その後三盛社で刷ったものとは一回り大きさが違う。

らいてう遺愛の茶飲みや硯、手箱、孫とお燗をつけた徳利、趣味のいい蒼い紬、ピンクの毛糸のショールなども見ることができた。

その回りは土曜日と言うのに、まだシーズンではないのか、宿も店もお休み。どんどんいって鹿澤温泉紅葉館付設のそばやを見つけた。これが素晴らしいそば。

明治の初めに開業し、大正に大火があって殆ど新鹿沢温泉に越したがこの宿だけは現地に残ったそうな。おそばとお風呂で1100円、これが素晴らしいお風呂。そのまま川原湯温泉へ。よる宿「ゆーあい」のご主人にバーでご馳走になる。