2012年11月 のアーカイブ

11月1日 リブロ・トーク

2012年11月21日 水曜日

永井愛さんの『こんにちは、父さん』を見に行った。平幹二朗さんがやると町工場のおやじもリア王みたいな叙事詩になっちゃうのだな。いい意味で。普通の庶民の暮らしの中にドラマがあるということ。それにしても小泉ネオリベ内閣のツケの大きさに愕然とする。小さなまっとうな仕事をする技術のあるつつましい人々を日本から一掃してしまった。永井さんと会うとすぐハグしちゃう。話さないでもわかっているよ。
夕方、中島岳志さんと池袋リブロで『帝都の事件を歩く』のトーク。本郷を舞台に一高にいて華厳の滝に飛び込んだ藤村操の話から、漱石へ、井上日召へ、朝日平吾へ秋葉原事件へとどこまでも広がって行く話。どうやっておわらそう、と。それにしても中島さんの声は大きい。政治家向きだ。打ち上げは尖閣列島と竹島と都知事選で酔いながらも勉強になった。

10月27日

2012年11月9日 金曜日

東葛の読書の好きなみなさんのまえで東京駅の保存や震災以降の東北の文化財に点いて話す。物すごく知的レベルの高い方たちの会であった。東京駅のパンフレットをすこしだけ増刷したのだが25部も売れてうれしい。持って行った『千駄木の漱石』も7部売れた。

10月23日-24日

2012年11月9日 金曜日

会津板下に広木酒蔵の取材に。帰り東山温泉で温泉とお酒。ポン太こと平凡社の山本明子さんと一緒で、かえりに紅葉の磐梯山を眺め、また栄川を飲みながら帰って来て幸せ。

10月21日

2012年11月9日 金曜日

早稲田大学で阿刀田高さん、吉岡忍さんとシンポジウム。石巻ののんびり村であった吉成麻子さんが沿岸部の仮設住宅で仕事をしたい女性たちのために、着物の古着を集め、座布団カバーや袋物に縫うことを提案。
これに谷根千でも協力出来ないかと思い、安田邸を集める場所にしていただくことになる。ありがたい。

10月20日

2012年11月9日 金曜日

歯の治療。30分は何も食べちゃダメといわれたのに、道灌やまの稲毛屋でウナギを食べてしまいました。ドイツにいるあいだ中、恋しかったのよ~。いったん家に帰って仕事をしようと思ったのに、今はドイツでは深夜だから睡魔襲って昼寝。5時前にまた道灌山の小さなコンサートホールに青木美稚子先生のメゾ・ソプラノを聞きにいった。中学の音楽部に芸大の声楽科の学生であった先生が指導に来てくださったのはどう考えても40ン年前なのだが、先生はまったくおかわりない。計算するとまだ中学生だった私より6つしか年上ではないのに、そのときすでに落ち着き払って発声法には厳しかった。練習しなくてしかられた。先生は19か20だった筈だがなあ。いまは上品で色っぽい。『悲しい酒』『枯葉』ぞくぞくした。昭和のいろんな歌を憶い出す。ドイツの教会でたまたまシューベルトの冬の旅を聞いた。これもテノールがすばらしかった。
亡き父の愛したもうた冬の旅 フライブルグの教会で聞く。

10月19日

2012年11月9日 金曜日

3週間のドイツ・エネルギー紀行からやっと帰って来た。旅費を出してくれたスポンサーがいるのでそのことはここには書かない。カタログハウス社『通販生活』春の号をご覧ください。とにかく資料でパンパンの重いトランクを持って家までたどり着いた。
三週間分の新聞をよむ。丸谷才一さんがなくなられた。一度だけ、パーティの立ち話で「あ、根津を書いたのはあなたね」と声をかけていただいた。また後藤新平の愛した人とその子たちのことを書いた時に、毎日新聞に後藤新平の三冊を私が書くように推薦してくださったのは丸谷さんだと聞いた。丸谷さんは母と同じ鶴岡ゆかりの人なので親近感があった。
舞踏家の滑川五郎さんの訃報も見つけた。山海塾の創立時からのメンバーで、谷根千のあとに「とてちん」という都電荒川線沿いの文化誌を出そうとされた。創刊記念を王子の渋沢栄一ゆかりの建物でやったと覚えているが、1号しかでなかった。いまあったら珍品であろう。私も書いたし、しりあがり寿さんなども書いたのではなかったか?
滑川さんや緒方さんはこの町にすんでいた。「お坊さんがおおいからこの頭でもまぎれていられる」というのがその理由。東照宮を借りてガムランの演奏会をしようと何度も集まったが、結局そのガムランが芸大から借り出せないことがわかって、おじゃんになった。滑川さんの話でおもしろかったのは、栃木の大谷石の採掘場で舞踏をしたとき、だれか缶をほおり投げた。「そいつが誰だか、こうやって踊りながら探したんだよね」というシグザがおかしかった。それと欧州公演の際、有名なデザイナーにとても気に入られて自宅に招かれたが、いってみてゲイだとわかって身の危険を感じた話など、あれこれは緒方さんの話だったかな、とにかく付き合ったことのないタイプの方々。
山海塾の講演にも招待してもらったが、いってみたら招待席で隣りが石原慎太郎さんだった。石原さんとは飛行機の中でも隣り合わせになったことがある。なんとそのとき右にいたのが石原さんで、左にいたのが筑紫哲也さんだった。秋の講演シーズンの大分便だったと思うが、たまたまアプグレードしてもらうとトンデモナイ目に会うものだと、それいらい、普通席に決めている。筑紫さんは若いころ出版社で担当したこともあり、機内でも「森さん、荷物をあげましょう」と棚に入れては下さったが、おそい夜の番組に出演した次の日の朝とて、すぐアイマスクをして寝入ってしまった。ずっとあとに由布院の映画祭で再開し、なつかしくてハグしてしまったが、それが最後だった。人柄のおだやかな方であった。夜遅い番組のキャスターを長年務められ、都知事選にでるよう、いろんなプレッシャーがあって御病気になられたのではないか。
私が最初にあったのはワシントン特派員からかえられて夕方のテレビ番組に出演された頃、私は22歳で筑紫さんは39歳くらい、よく小娘に付き合ってくれたものだと思う。いちどあとがきを海外から電話口で送ってこられ、私が書き取っていると、「エ、大丈夫?」と聞くので「大丈夫ですよ」といった。あとで間違いがなかったので、筑紫さんは「あなたは書くのが早いんだなあ」とびっくりされていた。サファリジャケットで長髪の筑紫さんが勤めていた会社の女性たちにもあんまり人気なので、あまのじゃくの私は筑紫さんの前でカンボジア特派員だった井川一久さんをほめあげたりして、いまおもえば失礼この上ないことだったのだが、筑紫さんはにこにこして、そのうち紹介しますよ、と言ってくださった。若いというのは生意気なものだ。
切り絵画家の成田一徹さんもなくなられた。わが『谷根千』には石田良介さんと先に知り合って毎号、切り絵を乗せていただいていた。そのため成田さんには仕事の上では接点がなかったが、石田さんのとはまた違うジャンルの切り絵だったので、もっといろいろご一緒できればよかったのである。ちょっとしゃいでダンディな方で、谷根千の三人を切り絵にしてくださったのは、とてもいい感じに出来ていて、うれしかった。
こんなふうにそれからそれへと思い出す。いっぽうヤマサキなんか、最近では郷土史に
まるきり興味がないようで、それもわかる気がする。若いうちは過去のことをやたら知りたがるが、私たちが過去になりつつあるのだ。残り少ない余生を考えると、未来に何が残せるか、ばかり考えてしまう。原発のない世の中、ダムのない世の中、同一労働同一賃金の世の中、そう『帝都の事件を歩く』のあとがきに書いた。もうすぐ古老ですから、話を聞きにきてくださいね。

9月28日-10月19日

2012年11月9日 金曜日

ドイツ環境問題の研修。
このことは『通販生活』でお読みください。

9月27日

2012年11月9日 金曜日

ざぶん賞という子どもたちの水に関する作文コンクールの作品を300近く読む。去年は津波がおおかったが、今年は九州の豪雨など多い。あしたからドイツなのだが、支度をする閑なし。

9月23日~26日 丸森行き

2012年11月9日 金曜日

3ヶ月ぶりに第2の故郷、丸森へ行き、かつてお世話になった方々に挨拶かたがた、この1年半の身辺のこと、今思うことを聞いたりして来た。たとえば米は集落単位で放射線値をはかるが、野菜については町全体ではかる。ものすごく広大な丸森のどこかでしいたけが基準値を超えると、丸森町全体のしいたけが出荷停止になる。タケノコもそうだ。去年は不作でまだよかったが、今年は大豊作、しかし売ることができず放置も出来ないので、「かぐや姫探し隊」などボランティアを組織して、タケノコを掘っては捨てた。悲しかった、もったいなかった、という。でもそれをしなければ竹になってしまい、ますます竹林が荒れるばかりだ。「4週間、3ヶ所でとったものが続けて基準値以下だと出荷停止解除になるんですが、そのころにはタケノコだって終わっちゃうし、山菜だって終わっちゃうよ」と計測のおかしさを語っていた。また山菜やタケノコ、キノコはどうしても高く出るが、葉ものなどは基準値以下、それでも一品でも出荷停止のものがあると、あそこは高いといった風評被害が起きていると言う。また東電の補償は農業者だけで、しかも去年の売上げがはっきりしている人だけである。レシートや売った証明をできない農家がおおいため補償はメンドクサイから出さない、という農家もおおい。ようやく風評被害による飲食店の補償もはじまったが、これも昨年の売上げをきちんと補足している店に限る。「うちだけだって100万以上は売上げ減、だけどうちが少ないということは、うちが仕入れている肉屋さん、魚屋さんもそれだけ減った筈だけど彼等は補償を求めるのかな」とレストランのシェフがいっていた。

今の丸森の生活を映像に収める。高齢者は年金もらい、大したことないべ、何がやがや騒ぐんだ、と大わらい。子育て世代や若者はここで暮らして大丈夫か、と悩む。悩んだ末、ぎりぎりの計算をしてすむことに決めている。葉ものや大根にはほとんどセシウムは出ていない。小さな里山の中にも不協和音のあるような。とにかくここを見つめて行かなければならない。

9月22日 高崎

2012年11月9日 金曜日

高崎で八ッ場ダムの中止を求める集会に出席。
八ッ場ダムのために県が緊急調査をすると、下から江戸時代の遺構がでて来たと言う。
しかも天明の浅間山の噴火の時によって泥流が流れ、埋もれた村だという。どうにかダムをやめて川原湯温泉付近を日本のポンペイとして整備できないか?
集会では、いままで文化財という格調高い側面に気付かなかった、と何人もの人はいったが、文化財=格調高い、というのは何かの間違いだ。文化財は身近にあるもので、みんなで守るべきものだ。シンポにでるためにすこし調べて、浅間山の火砕流でなくなった人がけっこういるのに気付いた。また浅間山のせいなのか、アイスランドの火山の噴火のせいか、この年は世界的な不作で、日本でも大変な数の人が餓死したが、この不作はフランス革命の遠因になったとも言われているそうで、天変地異と経済、政治の関係が興味深い。天明のころは地震に津波、火山の噴火、飢餓、大火事、流行病と息つく間もなく、戦後、私など58年を事故もなく、おだやかに過ごして来たことが奇跡のように思われる。これからあるのかな?