10月19日

3週間のドイツ・エネルギー紀行からやっと帰って来た。旅費を出してくれたスポンサーがいるのでそのことはここには書かない。カタログハウス社『通販生活』春の号をご覧ください。とにかく資料でパンパンの重いトランクを持って家までたどり着いた。
三週間分の新聞をよむ。丸谷才一さんがなくなられた。一度だけ、パーティの立ち話で「あ、根津を書いたのはあなたね」と声をかけていただいた。また後藤新平の愛した人とその子たちのことを書いた時に、毎日新聞に後藤新平の三冊を私が書くように推薦してくださったのは丸谷さんだと聞いた。丸谷さんは母と同じ鶴岡ゆかりの人なので親近感があった。
舞踏家の滑川五郎さんの訃報も見つけた。山海塾の創立時からのメンバーで、谷根千のあとに「とてちん」という都電荒川線沿いの文化誌を出そうとされた。創刊記念を王子の渋沢栄一ゆかりの建物でやったと覚えているが、1号しかでなかった。いまあったら珍品であろう。私も書いたし、しりあがり寿さんなども書いたのではなかったか?
滑川さんや緒方さんはこの町にすんでいた。「お坊さんがおおいからこの頭でもまぎれていられる」というのがその理由。東照宮を借りてガムランの演奏会をしようと何度も集まったが、結局そのガムランが芸大から借り出せないことがわかって、おじゃんになった。滑川さんの話でおもしろかったのは、栃木の大谷石の採掘場で舞踏をしたとき、だれか缶をほおり投げた。「そいつが誰だか、こうやって踊りながら探したんだよね」というシグザがおかしかった。それと欧州公演の際、有名なデザイナーにとても気に入られて自宅に招かれたが、いってみてゲイだとわかって身の危険を感じた話など、あれこれは緒方さんの話だったかな、とにかく付き合ったことのないタイプの方々。
山海塾の講演にも招待してもらったが、いってみたら招待席で隣りが石原慎太郎さんだった。石原さんとは飛行機の中でも隣り合わせになったことがある。なんとそのとき右にいたのが石原さんで、左にいたのが筑紫哲也さんだった。秋の講演シーズンの大分便だったと思うが、たまたまアプグレードしてもらうとトンデモナイ目に会うものだと、それいらい、普通席に決めている。筑紫さんは若いころ出版社で担当したこともあり、機内でも「森さん、荷物をあげましょう」と棚に入れては下さったが、おそい夜の番組に出演した次の日の朝とて、すぐアイマスクをして寝入ってしまった。ずっとあとに由布院の映画祭で再開し、なつかしくてハグしてしまったが、それが最後だった。人柄のおだやかな方であった。夜遅い番組のキャスターを長年務められ、都知事選にでるよう、いろんなプレッシャーがあって御病気になられたのではないか。
私が最初にあったのはワシントン特派員からかえられて夕方のテレビ番組に出演された頃、私は22歳で筑紫さんは39歳くらい、よく小娘に付き合ってくれたものだと思う。いちどあとがきを海外から電話口で送ってこられ、私が書き取っていると、「エ、大丈夫?」と聞くので「大丈夫ですよ」といった。あとで間違いがなかったので、筑紫さんは「あなたは書くのが早いんだなあ」とびっくりされていた。サファリジャケットで長髪の筑紫さんが勤めていた会社の女性たちにもあんまり人気なので、あまのじゃくの私は筑紫さんの前でカンボジア特派員だった井川一久さんをほめあげたりして、いまおもえば失礼この上ないことだったのだが、筑紫さんはにこにこして、そのうち紹介しますよ、と言ってくださった。若いというのは生意気なものだ。
切り絵画家の成田一徹さんもなくなられた。わが『谷根千』には石田良介さんと先に知り合って毎号、切り絵を乗せていただいていた。そのため成田さんには仕事の上では接点がなかったが、石田さんのとはまた違うジャンルの切り絵だったので、もっといろいろご一緒できればよかったのである。ちょっとしゃいでダンディな方で、谷根千の三人を切り絵にしてくださったのは、とてもいい感じに出来ていて、うれしかった。
こんなふうにそれからそれへと思い出す。いっぽうヤマサキなんか、最近では郷土史に
まるきり興味がないようで、それもわかる気がする。若いうちは過去のことをやたら知りたがるが、私たちが過去になりつつあるのだ。残り少ない余生を考えると、未来に何が残せるか、ばかり考えてしまう。原発のない世の中、ダムのない世の中、同一労働同一賃金の世の中、そう『帝都の事件を歩く』のあとがきに書いた。もうすぐ古老ですから、話を聞きにきてくださいね。