2011年6月 のアーカイブ

震災日録 6月2日 名瀬で再会

2011年6月8日 水曜日

夜中じゅう豪雨。トタン板によくまあと思うほどの雨が当たる。ふれば土砂降り、林芙美子「浮雲」を思い出す。することがないのでみんな花札をやる。私が混じると5連勝。「こういうのビギナーズラックというのよね」とユカさん。私は船で先に古仁屋にわたる。バスをまつ間、首相不信任案の投票を待合所のみんなと見る。そんなことやってる場合か。小沢一郎、岩手出身のくせになにも被災地のためにがんばらないで、菅首相が浜岡とめると財界を代弁して菅つぶしにかかるんだからな。友だちの裕美ちゃんが三田佳子のコンサートに行ったら小泉元首相が来ていて「自分も来ているくせにいまごろこんなとこに来てと思っちゃった」といってた。正しい、一般人と元首相はちがう。裕美ちゃんは女社長だが「東電幹部は避難民にみないえを明け渡せ」と言っている。

それにしても菅の辞任表明と不信任案が同じ日に出るなんて、まるで大政奉還と倒幕の密勅が同じ日に出た幕末みたいだ。まるで政府も国会もマスコミも信じられん。維新じゃなくてこれはまさに国家の瓦解だ。

名瀬までのバスは私1人。運転手さんに「奄美の主要産業は何ですか」と聞くと即座に「公共事業です」と返った。去年10月の大雨で崩れたところも直して仕事になったという。今回の台風でほくほくしている土建屋さんもいるのかも。国税からの補助金で奄美の自然がどんどん傷つけられているのを知ったら「離島振興法」の生みの親宮本常一も泉下で嘆くだろう。タコが自分の足食っているような。

夜、7年前の取材でお世話になったもと笠利町の学芸員、宇宿貝塚の番人だった中山清美さんとお仲間にあう。今朝の新聞にも万屋遺跡の撹乱について中山さんのコメントが載っていた。「文化財指定以前の遺跡ですが、ちょっと対応に追われて遅れました」と恥ずかしそうにいう。きらきらした目はそのままだが、熊本大学で博士号を取られ、この3月に退職して、余生は奄美と琉球弧の自然文化の保全をするつもり。こういう地方公務員もいることを大書しておきたい。「大学で教えないんですか」と聞くと、

「本土には私くらいの研究者はたくさんいます。奄美には大学がないので,私は奄美にいてこそ、子どもたちや大人たち、外から来る人に奄美の歴史や文化を伝えていける。むしろ一緒に掘り起こして行きたい。禁止や管理優先でない、みんなで掘り起こしゆるやかにつながって行く形の世界遺産はできないかと思っているんですよ」

奄美は独自の王権がなかった。あるときは琉球王朝に支配され、近世からは薩摩の支配を受けた。維新以降は薩長藩閥政府の支配、そして国の都合でアメリカ軍政下に。

「だから奄美独自のゆたかな文化を島人が自覚し、自信を持つことは大事なんです。森さんたちのように自分の足元を掘って記録した試みは勉強になります。島尾敏雄や田中一村はそんな奄美をかきのこしてくれましたからそれも大事、でもどのように描いたかより、彼らに描かせた奄美とはなにか、というほうに関心があります」

奄美のいたづらな妖怪けんむんがおすすめする「けんむん認定」をはじめている。「ザシキワラシみたいなものですか」と聞くと、「いや河童に似てるかな」。

ケンムンは本来穏やかな性格だが、自分の悪口を言ったりバカにする人は容赦しない。ガジュマルの木に住み、魚や貝が好きで、ときに魚の目玉だけとって食べる。相撲も大好き、通りすがりのひとに勝負を挑んだりする。占領軍がきて刑務所を建てるとき島人はケンムンの祟りをおそれて「マッカーサーの命令だ」と叫びながらガジュマルの木を切った。その後、ケンムンがすくなくなったのは住処の樹を失ったためとも、マッカーサーに祟りに行ったからとも。

震災日録 6月1日 磯あそび

2011年6月8日 水曜日

私1人のみしゃんに落してもらい、仁さんと磯あそびにいく。長靴はいて岩場を行くのはものすごく疲れる。でもシッタカやトコブシもとれるので張り切る。岩からはがしたアワビの表面をナイフでこすり、身をえぐりだし、塩で洗って食べる。そのこりこりとおいしいこと。と思ったらウニを踏んでそのとげが長靴を突き抜けて足に刺さり、いたい。海には毒を出す生物もいるそうで「ビーチサンダルはいて泳いだ方がええよ」と仁さん。「世界遺産になったらこんなふうに自由に獲れなくなるかもよ」と心配している。おばあのちえちゃんは大正生まれ、86歳なのに大きな病気したことない、綺麗好きでよく働く。

「子どもの頃は何でも家で作ったし、大島紬も織った。16歳のときにおじさんに連れられて東京にいってミシン踏んで兵隊さんの慰問袋に入れる褌を縫っていたの。空襲は恐かったよー。終戦後、奄美はアメリカの軍政になって、日本でなくなったら帰れないとあわてて帰って来たの。それから結婚したんだけど仕事がなくて沖縄に夫婦で出稼ぎにいって土方やってた。こんどは奄美が復帰になったら帰れなくなるとまた急いで帰って来たのよ」

ほっそりしてにこにこしているけど、大変な人生である。トコブシは台所を借りてバタ焼きにしてみた。夜、姪のタカラちゃんが三線を弾いて歌いに来てくれた。みんな遅くまでカラオケをやっていて病人継続中の私はそれを聞きながら寝た。

震災日録 5月31日 西阿室・南龍にて

2011年6月8日 水曜日

昨日にもまして快晴。秋徳小中学校でスズキさんの息子誠さんが石巻で地震と津波に合った話を聞く。缶詰会社に勤めていて、とにかく50人の社員は高台に徒歩で逃げて無事。全員なくなった会社もあるとか。ついて来た仁さん「焼酎がっこうを出たんだからねえ」とにやにや。今は8人の学校に先生はそれ以上いる。「男はつらいよ」のロケ地となった西阿室へ行く。スズキさんは郵便局で1000円積み立て。日本中の郵便局名の入った通帳を持っている。そのそばに相撲の土俵があった。朝汐関は奄美の出身だそうだ。眉が濃く背中に毛が生えて、色白の柏戸と対照的な力士だった。ガジュマルの大樹の下でうとうと。こういうのをブリーズというのだな。それから実久海岸のすばらしい青いビーチで泳いだ。他の人はかき氷を食べて居眠りしていたのだけど。

今日の宿は南龍。おじさんは奄美のひと、ながらく大阪で中華料理と喫茶店と雀荘までやっていたとか。

「よおくもうかったのよ。それ島にきて全部なくなった。子どもがいないからね、親戚の子どもを大学出したりしてね」「海岸も変わったのよ。こんなにコンクリートで固めて世界遺産なんて目指せるのかね。ばしゃ山村の社長さんは一生懸命反対して自分とこの前のビーチは手をつけさせん。えらいもんだねー」

夜はグルクンの唐揚げ、きはだまぐろの刺身など。

震災日録 5月30日 奄美で休息

2011年6月8日 水曜日

私は沖縄より奄美の方が静かで好き。で、カケロマでのんびりしよう、という誘いに乗って出かけた。台風で飛行機が飛ぶか心配だったが、東京は雨、ついた奄美は台風一過の快晴。ばしゃ山村でリーフの海を眺めながら鶏飯を食べ、南海岸沿いに南下する。途中、台風により道は折れ枝だらけ、あちこちで崖崩れ。古仁屋から生間へ、でいご丸で渡る。寅さんシリーズに登場する船長だった。船の中に田中邦衛さんや山田洋次監督の色紙が貼ってある。前にきた時は夕方の海上タクシーで「マリンブルーかけろま」にとまった。暮れ行く海をいつまでも眺めつづけて大満足だったが、翌朝、帰らなくてはならず、バイトの大阪人の兄ちゃんが「着てすぐ帰るなら来るんやない」と言ったのがはらがたった。人にはそれぞれの都合と事情があるんだから、十数時間の充実した滞在をけなすこともないのに。

今日の宿は同行のスズキさんの友人嘉野仁さんが経営する野見山、これで「のみしゃん」とよむ。お母さんのちえちゃんと2人、まさに「飲みしゃん」。仁さんは前の海で穫れたトコブシやシッタカ、トビンニャという不思議な貝を出してくれ、貝好きの私はこれでビール。そのうち山で穫った猪の肉を炭火で焼いてくれた。家も自力建設。2階はまさにバラック(兵舎)のようだが、海が見え、なんとも気持ちいい。お風呂も自分でこさえた五右衛門風呂だった。1階にはカウンターの居酒屋もあり、カラオケもできるのだ。「昔は前の堤防がなかったんでもっと景色が良かった。堤防かくしのためにアダンを植えたの」。それがいい景色だ。