2010年8月 のアーカイブ

5月16日

2010年8月31日 火曜日

アデアから中くらいの都市リムリックへ。「アンジェラの灰」の舞台なり。後で読みし所によれば、飲んだくれの父とリムリック生まれの母アンジェラ、こどもフランクはアメリカで食い詰めた両親に連れられ母の故郷リムリックへ戻る。しかし寒い北の町は貧しく、男たちはギネスのパイントに憂さを晴らし、弟妹は次々死んでゆく。なら産まなきゃいいのにと思うが、カソリックだし、他に楽しみもないからそうはいかない。便所も共用の臭い家で食べるものもなく、親戚には邪険にされ、朗読のアルバイト、弁当届けのアルバイト、でもひもじくて途中でイモをひとつ失敬、もうひとつ失敬すればイモが入っていたことはわからないはず、と弁当まるごと平らげて殴られる。悲惨極まる少年時代。のちにニューヨークの有名校で作文教師になった著者の自伝。
バスに乗って町をめぐる。ポテトマーケットがあった。大きなカテドラル。ジョン王の城。
モハーの断崖、風つよし。アラン島ゆきの船の出るドゥーランで食事。有名なパブでムール貝を頼んだら、なんとこれにもクリームがかけてある。何でもバターやクリーム、チーズで閉口。アラン島は観光地化しているそうだし、車を置いて船に乗らなければならずあきらめる。あらん編みのセーターを買う。アルウィンの洞窟を見る。バレン高原は白き石の積み重なり、このへん、詩人イエーツの空想のみなもとなり。
ゴールウェイの町、一方通行の見多くてホテル探せず、郊外の新しきホテルに泊まる。
セキュリティ、調度、従業員、申し分なし。小さなステーキ、タラのサラダ。ナカムラ氏、陽気なウェイトレスのススメでジェイムソンをのむ。先生、アップルサイダー、私とヤマモトさん、例によってギネス。

5月15日

2010年8月31日 火曜日

朝、川沿いを散歩。野鳥の楽園なり。ケリー周遊路を走る。木漏れ日のみちうるわし。
とおくに世界遺産スケッリングマイケルが見える。絶海の孤島とはいかに、と中村氏の疑問あり。ティングル半島に入る。ティングルの町も感じよい。目当ての店休みにて、隣りのレストランに入るも、牡蠣は紙袋を開けてそのまま出すがやや悪し。
先史時代の要塞、蜂の巣という名の住居など見る。すべて石の文化、海沿いの放牧地などもどこまでも石を積み上げて彼の地、我が地を境界せり。七世紀の教会、石もて作れり。美しき形なり。農夫の姿見ず、羊と馬の数のみ多し。ジプシーも見ず。福祉協会、健康センター、コミュニティ協会など地域の結束つよし。
アデアの美しき村に泊まる。しかしここのB&Bの化粧濃き女、強気で一人一室なら60ユーロと言う、これ余りの法外に気づくは後の祭りなり。しかしすすめられた中華料理今までヨーロッパで食せる中でベストなり。青島ビールうまし。帰り、アンノ先生、運転、みちに迷うもなぜか宿の前に出た。ラッキー。

5月14日

2010年8月31日 火曜日

朝、ヨールの町を走る。高台からの景色美し。ミドルトンのジェイムソン醸造所へ行く。
アイルランド移民、世界中に散らばりしとか。その数250万。
キンセールなる美しい港町にて魚やの経営するレストランにて昼食。今回の旅の白眉なり。ムール貝、牡蠣大きなロブスターの手、ヘイクのバターあげ。汽車ポッポのバスにてキンセールを一回り。五稜郭のような砦見る。
石橋の見えるリバーサイドカフェにてケーキと珈琲。ケーキの大きさに目を回す。オフェリアが流れてきそうな小川なり。ケンメアを目指す。しかしよきB&B見つからず、ケリー周遊路をずんずん進む。ここらの宿は夏しかやっていないとのこと。ようやくスニースなるちさき町にて、アコモデーションという種類の宿見つける。1868年、明治維新の年につくられしとか。木のベッド、古きテーブルに白きカバーかぶせてなかなかよし。橋を渡って向こうのレストランでカレーやサーモンを食す。オサリバン、オニール、オハラ、オキーフなどアイルランドの名前なり。この町にドゴールとチャップリンがきたとか。

5月13日

2010年8月31日 火曜日

ロックを観に行く。よき眺めなり。
昼過ぎ、リズモアを過ぎた山の中でパンク。換えのタイヤもパンク。
通る人みな気にしてくれる。親切なカーディガン姿の男性、やってきて汚れるのをものともせず、膝をつき、いろいろためすが駄目。ハーツの事務所にでんわ。コークから2時間半で来るとのこと。確かに時間通りにきた。でもこれしかない、と四人乗り乗用車でトランク乗らず。ザッツオール、でおしまい。車が違うので差額を返してもらうとか、事故の責任とか、ないのかしら。しかしアイルランド人の親切、友好に涙。「これからかの人のように誰にでも親切にしよう。アイルランドのためならいのちを投げ出しても惜しくない」とアンノ先生。シーフードの店にて牡蠣や魚を食べる。イモの付け合わせ多し。ヨールの陰気なB&B。目はすみれ色、ピンクのセーターの女主人。町で携帯のプラグを探す。何を食べたか忘れる。

5月12日

2010年8月31日 火曜日

空港で車をピックアップ。午前中、赤茶けた山の中をえんえん走る。黄色い花がきれい、というと「あれはエニシダ。そのうち見飽きて嫌になる」とアンノ先生。
グレンダロッホは中世の教会群。ハイクロスを多く見る。石の文化。
昼はイモばかり。行き交う人みな手を振る。サイクリングの人あごを横に振る。
キルケニーに到着。中華を食べる。余りおいしくない。
キャッシェルに到着。岩ノ下のピンクのB&Bに泊まる。親切なおばさん。
すすめられたパブは休み。ギネスを飲む。ニンジンスープ、黒いパンおいしい。

5月11日

2010年8月31日 火曜日

朝早い便でフランクフルトへ。アイスランドの噴火、ダブリン空港が開いたのは2、3日前、煙は南下してスペイン、イタリアの空港が閉鎖とか。フランクフルトで乗り換え、ダブリン着。夕方、小雨模様。空港のヒルトンに荷物を置き、タクシーで市内へ。運転手いい人。中央郵便局近くのラフカディオハーンの幼少時を暮らした家を見つける。帰る前の宿を予約。夕食はイタリアン。テンプルなるパブ街でギネスを飲む。

5月10日

2010年8月31日 火曜日

いよいよ念願のアイルランド。夕方、成田につき、ヒルトンで前夜祭。アンノ画伯を中心にヤマモトさん、ナカムラさんの男3人とわたし。

5月6日

2010年8月31日 火曜日

丸森にて畑作業。まだ遅霜がおりるかもしれないので熱帯原産のモロヘイヤ、オクラ、ゴーヤなどはまだ植えないでおく。6日、サトコ来る。あすから八島やさんでタケノコを掘る手伝い。入れ違いで帰る。

4月29日

2010年8月10日 火曜日

また丸森に逃げ出す。

4月27日

2010年8月10日 火曜日

ダム映画祭4日目。天気悪く、お客が来るか心配。60人近くが来てくれて、よかった。でも赤字。『水になった村』は岐阜徳山ダムによってなくなる村に住むお年寄りのはなし。橡もち、むかごの天ぷら、わさび、薬草酒、つけもの、どっさり作ってどっさり食べる楽しい。健康な暮らしが奪われる。町に降りてきたおばあちゃんは、そのためかは分からないけどすこしボケてしまったような。だれしも深い根っこを下ろした土地からむりやり引きはなされたら、友だちも茶飲み話も、畑仕事もなくなったらどうなるか。地上げで根津を出て行った老人たちのことを憶い出した。
大西監督のトーク、『映画ができてからも全国のダム計画の村に通っている。自分はひと月二時間、ダムに向かい合っているだけだけど、この人たちは20代からずっとずっとダム計画とともに生きてきた。反対していたのが外堀を埋められてようやく自分を納得させはんこをつかせられ、30年の反対してたのがラクになったのに、また中止になった。なんとも納得がいかないのは当たり前だ』税金だ官僚だ天下りだ雇用だではない、一人一人の暮らしからダムを考える視点を提供してくれるいい映画で、長らく住んだ家を壊す現場にいたじょさんにおもわずもらい泣きしてしまった。11時まで打ち上げ。