NHKの番組審議会。このひと月に見た最良の番組はノルウェイの刑法学者ニルス・クリスティンの監獄に関するドキュメント、監獄は別の犯罪人と出会いもっと悪いことを覚える場所ではなく、彼らを人間として遇することによってもっとよりよく生きようと思うようにさせるところ。修復的司法のあり方に示唆に富む。
それにしても審議会の後に立食ながらフルコースの懇親会があり、そのあとハイヤーで送ってくれるというのは不必要ではないかと思う。まあ疲れてはいるし、局からうちまでの道は神宮をぬけ、赤坂御所から堀端を通る目に楽しいルートなのではあるが。
2009年11月 のアーカイブ
11月20日
2009年11月20日 金曜日11月19日
2009年11月19日 木曜日一日事務所の整理。ゴミ3袋出す。本を丸森に送る。ほこりでくしゃみひどし。根津にお住まいだった津谷さんからいただいた本、沢村貞子さんの解説を書いたご縁でいただいた旧蔵書など、出て来るたびに手を停め思いに耽り進まず。鼠にくわれた資料もごっそり、未練はあるが捨てる。
11月18日
2009年11月18日 水曜日一枚の繪、東京人、千駄木の漱石など校正。詩人の阿部日奈子さんからダニエル・シュミットの素晴らしい本翻訳したのでと届いたのを見ている。阿部さんは明治の随筆家で私の好きな馬場孤蝶のひ孫である。彼の名著「明治文壇の人びと」がウェッジ文庫に入ったので解説を書かせていただいた。
お父様の阿部洋さんにお会いしたことがある。「ふらっと出かけては森さんに辰猪や孤蝶のはなしを聞いていただくことが、父の何よりの楽しみだったのではないかと思われます」との日奈子さんの手紙の言葉に、連れ立って見えた、これもなきペリカン書房の品川力さんとおなじく背の高い、そして孤蝶の面差しにそっくりなお父様の面影をまざまざと憶い出した。
11月17日
2009年11月17日 火曜日広島へ行き、商工会議所で講演。そのまえに爆心地の壁に家族の消息の残る小学校や爆心地島外科などを訪ね、原爆ドームに手を合わせた。墜落したB29の搭乗員が捕虜となって広島に連れてこられたことは知っていたが、相生橋にくくりつけられていたという話ははじめて聞いた。だけど丸木夫妻の「原爆の図」にはそれが中央に描かれていると言う。今度よく見てみなければ。講演会、前列に群言堂の方達など来てらして上がる。
11月16日
2009年11月16日 月曜日朝、尾道の崖線上にある寺めぐり。午後の列車で宮嶋の先、大野浦にあるいま評判の宿上野純一さんの石亭にいって、ゆっくり時間を過ごし、温泉に何度もつかった。部屋から庭に出るところは両側から来が額縁を作り、その向こうに海が見える。上野さんは父上のはじめた旅館の屋根が台風ですべて飛んでしまったところから廃業も考えたが一念発起していまのこのすてきな宿を作り上げた。子供に宿をつがせることはないし、もしついでも子供の好きな風にやりかえればいいと言う。すっきりしたお考えだ。私には分不相応ではあるが、高級旅館にありがちな気取ったところがなく、親切で居心地がよく、館内に本の部屋やお茶の部屋や座ってみたくなる椅子の部屋があって楽しい。娘は「大人の考えで人を決めつけない方だね」と少しの会話で感じ入った様子。
11月15日
2009年11月15日 日曜日倉敷から鞆の浦に行く。海上を通る県の道路計画に反対し、長年戦って来た住民がおり、景観の価値が問われてはじめて地裁で住民の反対運動が勝った。県は上訴すると言うが無駄な抵抗は辞めろ、である。運動が始まった頃、ちょうど私たちは東京駅や不忍池地下駐車場反対運動をやっていて、鞆の浦の住民から照会があり、運動のやり方などの資料を送ったことがある。万感胸に迫る。またガタゴト福山から山陽本線に乗って、尾道の大好きな魚信旅館に泊まる。大好きな女将松林寿美恵さんともゆっくり話をしたかったのに、おいしい料理にすすめられるままに飲み過ぎてダウン、サトコは夜の一円ぽっぽで対岸に連れて行ってもらったとか。とにかく部屋から尾道水道を眺めているだけで余は満足じゃ、てな気分。
11月14日
2009年11月14日 土曜日広島に仕事があり、谷根千も一段落したのでサトコを誘い、瀬戸内を海沿いに走ることにする。めったに付いてこない娘が倉敷と尾道に引かれて行くと言う。倉敷はずいぶん、観光化したし、町並みの整備もしすぎだが、それでも出会う人みん な親切で上品だったのは土地に格があるからだろう。とくに倉紡の大原孫三郎とか正一郎とかいう経営者のたいしたこと。従業員を大事にしてそのための学校を作り、病院を作り、福利厚生施設を 作り、大原社会問題研究所をつくった。研究所はいま法政大学に移っている。そのうえ大原美術館。たいしたもんだ。いまそれほどの視野の経営者はほとんどいないだろう。きょうはクラボウの工場だったアイビースクエアに素泊まり。夜は町の焼き鳥屋でいっぱいのんで二人で5000円、結構安上がりな一日だった。
11月13日
2009年11月13日 金曜日原稿二つ、食事するまもなし。中央線沿線のホームに古い三十も年上の友人を訪ねる。お年とともにますます頭は冴え渡って居られるようだ。その人に指摘されて、自分が末期の資本主義社会の中で不必要にぐるぐる回っているだけのことに思いいたる。「いますぐ仕事を全部辞めて畑に行ってよくかんがえることね。ただし近くにちゃんとした病院のあるところに行きなさい」とのこと。
それにしてもいくらこども手当が出て、子供を生んだとしてもこんな先行きのない社会では生んでも未来がない。こども手当のばらまきより、若者支援にもおなじく対策を立てるべきだと思うがなあ。大学の制度はもう人を育てるには終わっちゃっているが、それにかわる塾とか、徒弟制度とか、もっとスキルを身につけ、人間を鍛える関係はうまれていない。
いっぽう就職できないことは若者の自己責任ではなくて、究極、求人がないからだということの厳しさがはっきりして来た。高度成長で蓄財し逃げ切れる世代が若者批判をするのを聞くと気持ち悪い。そのうちフィリッピンのように、失業率は高いが職のない人を大家族が支えていくように日本でもなるのだろうか。それこそ鳩山さんの友愛社会かもしれないが、そう広くない家に仕事のない家族がうろうろしていたら心の狭い私なんぞすぐ切れそうだなあ。
11月12日
2009年11月12日 木曜日八っ場ダム二日め。山木館のご主人にもインタビューを申し込んだが「あんたたちに話す言葉は一言もない」と一蹴されてしまい、泊まり客にずいぶんなことをいうなあとは思ったが、奥さんのなんとも言えないお顔を見て宿を出た。それだけ長い間につもった住民の怒りや下流都県民への不信は強い。
沖縄に行っても思うことだが、理解しようと思い、なにか自分にできることはないかと思い、出かけてゆく人にたいし、「あんた等の無関心が私たちの苦しみを生んでいるのよ」などと罵倒するのは戦術としては稚拙だとおもう。私も何度も罵倒されたが、その地の人びとの受苦を思えば居心地のよい書斎でリベラルな机上の空論を書いてすむものではない。そう思ってこりずに出かけてゆく。
つぎに豊田牛乳さんに行くと、こちらはインタビューの録画、公開もOKだとのこと。業種がちがうし、お仕事も順調、後継者にも恵まれ、ダムをちがう視点で考えている。もともとダムにはなんの期待もしていなかった。政権交代で馬鹿げた不必要な計画が止まるなら元通りだしなんにも困らない、とのこと。それでも地元でダム不賛成を言うこと自体、かなり抵抗があることらしく、途中でお母さまが心配して出ていらした。とにかく進んでいる工事、余りの自然の改変、ダメージに言葉がない。公共工事とその業者に天下った官僚によって生態系へつけられた傷はもとに戻らないだろう。
11月11日
2009年11月11日 水曜日映像ドキュメントの仲間と朝七時半集合で八ッ場ダムへ。途中八斗島に寄る。利根川水系の水位をはかるところ。本庄市と伊勢崎市の境でなかなか川に近づけなかったがついに国土交通省の事務所を発見。といっても自分たちでなく計測は下請け業者にやらせているらしく、二階から眺めているだけ。その車に乗って来た調査の業者は「マア、ダムが中止になればわれわれの仕事もなくなりますが」と言っていた。八ッ場では元町長の田村さん、民宿雷五郎の豊田政子さん、旬のマスターなどにはなしを聞いた。なかなか「出口なし」である。