三連書房へ表敬訪問。平凡社とここで魯迅の二カ国語版を共同出版した。原研也さんの装丁で美しい。昼はそばの飯店で豆腐や魚をいただく。そこから前門、瑠璃厰はものすごい変化。時代劇のセットのようになってしまっている。老舎茶館でカンフーやアクロバットや物まね、漫才などをみた。ここでお茶を飲みながら笑っている人々をみて、福島の流された人たちを思い、涙が止まらなかった。
‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ
震災日録 10月17日 老舎茶館
2011年11月4日 金曜日震災日録 10月16日 北京の普通の町
2011年11月4日 金曜日朝、池のほとりで戸外で理髪師さんが髪を切っていた。梅蘭芳の記念館に行くも月曜日で休み。結局、またフートン巡り。2元でおいしいまんじゅうにありつく。餃子や麺は6元くらい。横町の食堂があるので一人暮らしのおばあちゃんなど食べにくる。
またなかなかタクシーとまらず、地下鉄は切符の買い方わからず。
竹下通りのようににぎわっている通りで双声という漫才をみる。みんなが楽しそうに笑っているのを見るとなんだか目頭が熱くなる。北京の人たちが楽しく暮らしているようなのがうれしい。テレビのニュースはあいかわらず要人の往来ばかりえんえんやっているが。まあバイアスと隠蔽は日本のジャーナリズムも同じ。
夜は家の近くの北京の食堂で水餃子、サンラータン、マーボー豆腐、ピクルズ。
燕京ビールは薄くて飲みやすい。餃子一つとってビールを飲んでいる楽しげなおじいさん二人をみてまた涙。北京の老人たちはなんだか日本よりはしあわせそう。
震災日録 10月15日 北京へ
2011年11月4日 金曜日ある人に聞いた話。「東京電力の社員は東大はじめ六大学あたり出ていても給料は10万円台まで下げられ悲惨な状況。何かミスをやると叩かれるから外でもうっかり飲んだり遊んだりできない」。あんまり東電ばかり悪者にするな、ということらしかった。でも放射能におわれた人々は家を失い、仕事を失い、ふるさとを失い、時には家族が離ればなれになっている。それとどっちが悲惨だというのか?
成田空港へ。今年はじめての海外。北京へ。ホテルは竹園賓館。四合院を改造したいい感じのホテルで大きな池のそばの散歩にいいところにあった。
8年の歳月は北京を変えた。まさに町は生き物。自転車部隊はなくなり町は渋滞。
それで魯迅故居についたのは3時半で、社会主義で4時には鍵をがちゃがちゃ持った女性に閉め出された。
夜、北京在住のライター原口純子さんと胡同の中にある雲南料理を食べに行く。路地奥の隠れ家のような意外性で客は欧米人ばかり。なかなかおいしい。
震災日録 10月14日 福島県産の米
2011年10月20日 木曜日世田谷の放射線量の以上に高いところが見つかったのは、福島原発のせいでなく、そこの屋敷になぜか古い放射性物質があったかららしい。人騒がせな。でもこまめに計ったらこんな場所がたくさんあるのかも知れぬ。こわいねえ。
福島県知事はきのう県内すべての米は基準値以下だったと胸を張ったが、1キロあたり500ベクレル以下などという大雑把で高い基準をクリアしたからって食べる気にはならぬ。数字を公表すべきだろう。うちは丸森の森ガーデンから新米を送ってもらった。セシウムだけでなく、残留農薬はじめ細かい項目が2ページに渡って調査済であってすべてND。これでこそ安心して食べられるというものだ。この米、じつにうまい。母、妹、弟のところにも5キロずつ分けた。そしたら山形の長井の菅野さんもお米を送ってくださるというので、嬉しく、こちらは玄米でいただくことに。3人で1日2合ずつ焚くと、だいたい2週間で5キロはなくなるのだ。
秋深し隣りの米はどこの米
震災日録 10月13日 大安亭商店街
2011年10月20日 木曜日神戸市のコミスタとか言うところで生涯学習の講演。行ってみると体育館に300人もの方が見えていた。与謝野晶子とシベリア鉄道について話す。近くに大安亭商店街といういい感じの通りがある。元になった大安亭という劇場はもうないのだそうな。神戸でも震災にならなかったところはあるんだな。こんな所に住んでみたい。なでしこジャパンの合宿所が近く選手たちはここで買物をしていたそうだ。隣りが賀川豊彦の記念館。徳島でも記念館を見たがずいぶん前。神戸で成人し、大正の震災で東京の中之条、大平あたりで被災者支援や貧民街の改良に取り組んだ。こんなえらい人とは知らなかった。
震災日録 10月12日 神戸へ行く
2011年10月20日 木曜日神戸へ。宝塚近くのフルーツ・フラワーパークへ行く。神戸市がつくったハウステンボスのまがい物みたいな施設だが、ホテルのバイキングときたら前代未聞のまずさだった。サービスもひどい。庶民がやっている店の悪口は営業妨害になるので書かないが、税金を使ってこんな食事を出しているところは見たことがない。1時すぎにいったらほとんど何もなし。げっぷがでるような揚げ物が多い。これで神戸市の文化度を測られるとしたら、私が市民なら憤死しちゃうな。バブルの遺産でいまやお荷物なのであろう。夕方、絵描きの友だち太田さんと涌井さんと元町の庶民的なカレーライス屋さんに行って口直し。なんだかどっとつかれた。
震災日録 10月11日 神楽坂
2011年10月20日 木曜日夜、神楽坂で来年、三遊亭円朝の長い作品全段に取り組むという古今亭志ん輔師匠夫妻と平野甲賀・公子夫妻といろいろ話す。なんとも楽しい夜だった。
震災日録 10月10日 イスラムの人々の被災地支援
2011年10月20日 木曜日午後、東京大学弥生講堂でムスリムの方たちの被災地支援のシンポジウム。20分の話を頼まれたのに全部で5時間。行ってみてわかった。途中、ティーブレイクがあり、ゆっくり話し合う。名刺交換や写真撮影、中にはお祈りをする人も。それに決められた時間より長く話す人がいる。質問したい人が多い。それで長くなる。あんまりカメラのフラッシュが炊かれすぎで目が痛くなった。池袋のパキスタン料理店で打ち上げ。
エジプト国籍のロンドン在住の先生が話すが、日本人と全く違う断定的な力強い話であった。日本人は遠慮の塊だ。控えめ、謙虚、断定を避ける、どっちがいい悪いではないが、いろいろ考えるところがあった。
男女席が別々なのでイスラム圏の人と結婚した日本人女性などに話を聞いた。ムスリムは豚を食べないのはどうして?「それは神様が決めたことで理由はありません」お酒があきらめられないからなあ。「天国では大変おいしいお酒の川が流れています。そのときに飲めばいいのです」。それでも煙草は吸いますね。「本当は煙草もいけないんです」。何時も女性は長袖で頭にも被っています。「顔と手先しか見せてはいけないのです」。暑くありませんか。蒸れませんか。「なれればこんなものかと思います」いつも男女別に坐るんですか。「そうです」。男性同士は抱き合ったりしますが、女性はあれはできないんでしょうね。「そんなことをしたら大変です」。イスラム圏の男のひと何か問題は?「時間にルーズということかしら。のんびりしています」。いろいろわかった。「森さんはなぜムスリムになりませんか?」。まだ知り合ったばかりで誤解を解いている段階です。
震災日録 10月9日 岡本文弥没後15年祭
2011年10月20日 木曜日NHKの人からイスラムの被災地支援について番組を作るのだが、初期のころの活動の記録がないので、おにぎり握り隊そのほか貸してくれと言ってきた。ウーム、またかと思ったがマザーテープを貸してあげた。今日、せっかく提供いただいたのですが、レポートが短くなったこともあり、使わなかったとメール。ウーム、またか。
夜は岡本文弥没後15年祭。上野奏楽堂立錐の余地なし。きのうからテープを聴いて準備万端しただけに最近になくちゃんと話せた。秋草のようなオトコと言われたい、と文弥さんはいっていた。あの夏、わたしは男は文弥1人でいいとさえ思いつめた。今日、母は昔のボーイフレンドと来てくれた。その上、永六輔さんや朴京南さんも来てくださって、帰りに根津で永さんにご馳走になった。いいんですか、という私に「上を向いて歩こう、がいま売れてますから」と永さんは仰ったが、もちろん私に気を使わせまいというやさしさ。でも、たしかに震災後、この歌を口ずさむことは多いなあ。
震災日録 10月8日 冬へ向う被災地
2011年10月20日 木曜日秋の一箱古本市と芸工展を観に行く。団子坂のエスプレッソファクトリーから見る団子坂はいい。道灌山から見る動坂方面もいい。
被災地はだんだん寒くなってきている。石巻の避難所はようやく閉鎖になったようだ。
いわきでは仮設住宅には日赤から5点セットも配られたし、炬燵やストーブの配布があるが、一般の斡旋住宅にはいった人にはない。これも格差だと思うが、光源寺からは毛布、バスタオル、タオル、炬燵、ほっとカーペットなどを集めて送るという連絡があった。