‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ

1月4日

2010年1月4日 月曜日

新たにすの新聞案内人のコーナーに千駄木五丁目で起きているマンション紛争に
ついて書いた。そこに長くて引用できなかった、リリー・フランキー氏がマンション業者に
頼まれて書いたであろう詩だかエッセイだかわからないものをのせます。
当該地、団子坂上、もと駒込電話局の工事現場の看板でもみられます。

いい文章ですねえ。でもこれマンション販売の惹き文句なんだ。
そんな谷根千にマンションができる、買いませんか、という。
私も売文業者ではありますが、ベストセラー「東京タワー」の作者にこんな業者の
手先みたいな文書いて欲しくなかったな。

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僕は、九州から上京して東京に住みつき、もう、28年になります。
でも、今でもどこかでここの人ではない自分、という気持ちが、
心の奥底、肌のすきまに、離れることはありません。
谷根千と呼ばれる土地をゆっくり歩いた時、その疎外感から、
少し開放されている自分に気づきました。
この町は、人を受け入れてくれる。
人が作った、人が主役の町だから。
故郷の町にも、東京の都会にも、
同じように優しい体温を感じる場所があるのだと思いました。
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日照や通風を奪い環境を壊してつくったマンションの住人を地元住民
が「受け入れる」のはむずかしい。

今日、マーロン・ブランドについてのドキュメンタリーを見た。よくできていた。
彼のめちゃくちゃな私生活、しかし公民権運動や先住民の権利のために
発言行動したことは知らなかった。「ゴッドファーザー」でのアカデミー賞主演男優賞を
辞退し、その席で先住民の女性に記者会見させたりした。あんな美しい男も晩年は
タダのデブ。みんなそんなもの。

1月3日

2010年1月3日 日曜日

読みのこした去年の週刊「金曜日」を読む。昼すぎ、上野の噴水前での炊き出し
に行く。見物でもないし、支援でもない。人手は足りていてお手伝いにすらな
らない。
長年関わっている方達も、山谷争議団の当事者もいる。仲間たち、と呼びかける。
それを取り巻く人びと。私ももちを搗かせてもらった。それを丸め、上にもつ煮込みを
かける。
準備が終わったらどっと人がテーブルに寄った。おいしそうに食べ出した。
「あなたもどうぞ」と一杯もらったが、昼前に食べたばかりだし、近頃、菜食に
近くなっているのでせっかくだがテーブルにそっと載せた。
すぐ誰かが平らげてしまったようであった。
寒空で水族館劇場の「放浪記」があった。薄着で裸足で、ほんと役者魂である。
「放浪記」は都市の底辺で生きていた林芙美子が「私はふるさとを持たない」と
叫ぶ。集まった人びとはどのようにこのセリフを聞くのだろうか。何人かの人と
たわいない言葉を交わした。
夜遅く、サトコが帰って来た。「お餅にもつをかけるのはちょっと」というと、
「そう、なれればおいしいよ。毎年そうだし。今年のはとくにおいしかった」という。
下町の労働者の中で暮らそうとして暮らせなかった伊藤野枝にちかい敗北感を感じた。

1月2日

2010年1月2日 土曜日

新聞の整理。「マイフェアレディ」を見る。これまたいろんなことを
思い出す。最初、ブロードウェイで評判のこのミュージカルが日本に
来て、子供の私は宝塚劇場に連れて行ってもらった。そんなことは後にも
先にも一回。
イライザが江利チエミ、ヒギンズ教授が高島忠夫、かっこよかったなあ。
江利チエミは40代でなくなったし、高島は鬱病を告白している。
ピカリング大佐の益田喜頓、イライザのお父さん八破むと志、うまかったなあ。
それから映画がきて浅草に観に行って。オードリーの最高に輝いていた頃。
最後のほうで来ていたピンクのジョーゼットみたいな服を母がバービー人形の
ために作ってくれた。中学では音楽部でこの「君すむ街角」や「踊りあかそう」
をうたった。今みると、ヒギンズ教授の階級意識とミソロジー(女性嫌悪)は
ひどすぎるし、そんな男に惚れてスリッパを取ってやる必要なんかどこにあるんだ、 といいたくなるが、あの映画でロンドンの印象がきざまれたのも確かだ。
バーナード・ショーごのみの玉の輿伝説でした。

1月19日

2010年1月1日 金曜日

新聞に高次脳機能障害について載っていた。自転車選手の石井雅史さんという人の体験。病気や事故で脳が損傷を受け、記憶障害などが引き起こされる。 集中力が続かない、記憶障害もある。疲れやすい。 私はもしかしてこれではないか?まったくやる気のない日、雑用がしんどくてたまらない日、仕事が進まない。

1月18日

2010年1月1日 金曜日

ほとんど毎日見るbs1の「おはよう世界」でハイチ の地震のニュースを見る。5万とも7万とも20万 ともいわれる犠牲者。
地震から5日経ってほとんどがれきの中から生存者が救出される事はなくなった。スーパーの中にとじこめられ、スーパーの食糧を食べていき伸びた人が 5人救出された。まったく耐震基準などないよう な、コンクリの建物。そのがれきを取り除くにも機械がない。素手で掘る。通信手段がない。水、情報、食糧の順でほしい、とハイチ人はいう。 首都に支援物資が集中し、近郊の村は見捨てられた まま。略奪、暴行も広がりつつあって、一人が警官 に射殺された。こういうときもうまくやる連中がい て、オイルなどの救援物資をヤミに横流ししたりすると言う。見ていると来るべき東京の地震の事前勉強になる。フランスではハイチの孤児を養子にしよ うとする人が数千人、日本と発想がちがう。

1月1日

2010年1月1日 金曜日

青空。窓からぼーっと見る。母のところで新年会。持って行った中華
のおせちに他の人の持って来た料理をつめてかえる。「いつまでも減
らない魔法の重箱」とサトコが笑う。ヒロシは年越しバイトでくたくた、
私も3時間は保たないので9時には帰る。加藤周一さんの追悼集を読む。
一度くらい、お目にかかったり、または講演だけでも聞いておくのだった。
機会はあったのに。一度だけ鎌倉の喫茶店へ夫人の矢島翠さんと
入って来られるのをお見かけした。矢島さんは共同通信の記者だった
ころからファンだった。男女雇用機会均等法の前、共同の原寿雄さんに
「何で、矢島さんはお辞めになったんですか」と聞いたら、
「人生をかけるべき他のことが見つかったんでしょう」と静かにほほえまれた。
いろんなことを思い出す。

12月31日

2009年12月31日 木曜日

何も仕事する気起きず、紅白歌合戦を何十年ぶりかでまともに見る。
うまい人はみな昔の歌を歌っていて代わり映えせず。布施明も和田ア
キ子も森進一も石川さゆりも。新曲の連中はほとんど下手だし、
曲も自分探しみたいで詩も曲も似ている。といったら身近にコブクロや
ゆずのファンもいるので新年会ではそういうことを言わないように、
と釘を刺される。
大体こぶくろとかゆずなんて男のグループにつける名前か?嵐ッ
て出来の良くないスマップね。仲間由紀恵も原監督も「素晴らしい」
とか「感動した」しかいうことないのか?と画面にけちをつけている
と「お母さんは思ったことそのまま口に出してKYもいいとこだ」と
ヒロシに怒られる。こういうとき、須賀敦子の「ミラノ霧の風景」に
出てきたイタリアのおばあさんのセリフを憶い出す。
「悪口言っときゃまちがいない」。須賀さんの悪口もそりゃ辛辣だった。
なつかしい。

12月30日

2009年12月30日 水曜日

佐野洋子「役に立たない日々」を読んでうれしい。そのとおりそのと
おり。いつまでもこんなエッセイ書いてほしいな。佐野さんに会った
ことはないが
岸田衿子さんの話にはいつも佐野さんが生き生きと出てくるので、知
らない人とは思えない。衿子さんの話はとっても長くて、電話で話し
ていても受話器を持ったほうの手が筋肉痛を起こすほどだが、「吾輩
は猫である」の天障院のご祐筆さまみたいに、芋づる式に親しい人が
出てきて、その描写がなんともいえず面白いので電話がかかってくる
のが楽しみだ。
夕方、新宿のはじめてユニクロにはいって、ものすごい混雑のなか、
ヒートテックのシャツとタイツをかう。人気で色もサイズも不足。ユニクロが
日本を滅ぼすといった論がにぎわっているが、とりあえず冷え性対策に
役立つ商品は有り難い。恒例の年末チャイナ、石橋さん手づくりの
中華おせちを持って帰る。

12月29日

2009年12月29日 火曜日

ヒロシが帰って来て「お母さん、これ着てみな」と言う下着。ユニク
ロのヒートテック。ご高名はかねがね承れど着るのは初めて。もの
すごくあったかい。この上に薄いのを一枚着るだけで十分だ、とい
う。外出時にはその上にコートを着ればもこもこしない。なるほど。
高野山で外仕事のユタカも愛用しているという。これ着て映像の仲間
と編集ののち、蔵をみてもらい、来年のことを考えようとまたまた忘
年会。二十三日にやったばかりなのに?
十時過ぎ、みんなでブリックワンになだれ込み、ダンサー熊谷さんと
このおいしい料理でまた飲む。帰ったのは2時近かった。

12月26-28日

2009年12月26日 土曜日

能登。七尾へ行く。