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日々録   2003年3月
No.596  2003年3月17日(月)

 私の母は幼稚園から小学校に上がるくらいの年で戦争を体験している。私は幼い頃、母からよく戦争の話を聞いた。電灯に黒い布を被せていつも薄暗いのがとても嫌だったこと、火の粉の散る中布団を被って逃げたこと、おかゆはご飯粒よりお芋や芋の蔓の方が多かったこと。いつも同じ話の繰り返しだったけれど、その度に私は「戦争」という言葉に言い様のない恐怖を感じ、「ねぇ、戦争はまた起こる?」と訊いた。そうすると、母は幼い私に向かって、非情にも「また起こるかもね。」と答えた。そして、「でも、今度戦争になったら、あんな思いは二度としたくないから、堂々と死んでやる。」と必ず付け加えた。母が死んでしまうことを想像して、悲しく心細かった。
 自分に、重ね合わせてみる。私が幼稚園に上がる前、家の隣のマンションが火事になったこと、小学生低学年の頃伊東の花火大会で火の粉が散ってきてとても恐かったこと、よく憶えている。
 丁度今の私くらいの年齢になっていた母が、子どもの私に戦争の話をした。幼い頃の衝撃的な体験は、一年前のことよりリアルだったりする。戦後20年、防災頭巾よりも防空頭巾という言葉の方がふつうに使われていた頃だ。いつ攻めてくるかわからない敵に怯えていた恐怖は、たとえ戦争が終わろうとも心に重たく残っているはずだ。自分がこの年になってみて、戦禍を逃げまどった幼い母を思うと不憫でならない。子どもの私に向かって「堂々と死んでやる。」と言った母の強い語気は、戦争への憎しみそのものだったのだ、と今になるとよく解る。
 
 私が通ったクエーカー派の女子高は、当時平和教育が盛んだった。中学の修学旅行で広島に行き、いくつかの班に分かれて、被爆した方々を訊ねお話を伺った。ケロイドで皮膚が大きく引きつっていたことを憶えている。恐い顔をしてあまり話したがらない人もいたように思う。
 日本は、たくさんの空襲を受け、被爆もしたが、加害者でもあることを忘れてはいけないということを、先生からは折りに触れ聞かされた。
 後に、あの原爆は戦争を早く終わらせるための、言わば正義の投下だったと、アメリカ側の投下理由を知って、我が耳を疑った。あんなに多くの人生を一変させ、死ぬまで後遺症に苦しまなければならないのに。

 学生の頃だったか、もう社会人になっていたか、夏休みに友人の親戚のいる長崎を訪れた。たまたま着いた日が、原爆記念日に重なり、たくさんの灯籠を橋の上から見送った。水面に揺れる灯籠の無数の灯りは、幻想的で美しく、美しいだけに悲しかった。
 私たちを泊めてくれた親友のおばちゃんは、もう初老であったけれど、お惣菜屋さんをしながらずっとひとりで生きてきた。若い頃に被爆したから結婚しなかった。結婚しないことを選んだのだ。たくさんの小さなきびなごを、私たちのために一匹ずつさばいて待っていてくれた。それが、私が生まれて初めて食べたきびなごだ。

 20代、学生の頃の友人が、釜山に行く船が安いよ、と雑誌のコピーを持ってきた。船旅というのと安いというのと外国ということで安易に決めたが、出発が近くなるにつれ、反日感情や、軍事上の問題から港の写真撮影は禁止というガイドブックの記述に不安を覚えた。
 実際に行ってみると、釜山の人たちはせっかちなところはあったけれど、道に迷っていると向こうから声をかけてくれ、とても親切に教えてくれた。
 私たちがバスを待っていると、老人が近付いてきて日本語で話しかけてきた。次第に何人も集まってきて、みな日本語を話した。彼らは私たちを責めたわけではなく、日本語が話せるんだぞというふうに、知っている単語を並べたり、持っている煙草の銘柄の説明をしていたのだけれど、これだけの月日を経て尚忘れないほど日本はこの人たちに強要したのかと、その夜は友人たちと肩を落とした。
 
 古本屋を始める少し前、沖縄に初めての一人旅をした。沖縄を選んだのは、さしたる理由があったわけではなく、船で行くと安いし、外国は言葉が不安だけど、沖縄なら言葉が通じる、くらいの気持ちだった。
 軽い気持ちであったけれど、初めて沖縄の地を踏む時は挨拶をしなければ、という思いがあった。自分なりの儀式のつもりだった。沖縄戦で命を落とした多くの人たちが眠る土地をズカズカ歩くことに、お許しをいただきたい、そんな気持ちだったかもしれない。とは言っても、沖縄戦の知識もない。中学の頃同級生が夏休みに訪れた沖縄から送ってきたひめゆりの塔絵はがきを思い出し、私も昔は同じ女学生だった、そんな理由をくっつけて、バスに乗ってひめゆりの塔へ向かった。
 ひめゆりの塔に併設された資料室には、暗いガマを模した展示があって、その前でくる日もくる日も自分の体験した地獄を語っているおばあたちがいた。助かった命、生き残ることが出来たのに、何十年経っても彼女たちは、友人たちや兵隊が血を流し、生きた身体に蛆が湧き、水を欲しがりながら死んでいったのとそっくりの作り物の前で、語らなければならないのだ。苦しみも、悲しみも、全て枯れてしまったように、抑揚のない声で繰り返し繰り返しテープレコーダーのようにおばあは語り続けていた。おばあ、大変でしたね、と声をかけたくともそれすら出来ず、私はトイレに駆け込んでよくもこんなに出るものだと思うほどの大量の涙と鼻水を流した。でも、泣くことのできる自分は、泣ける余裕があるのだと思った。
 どこかへ旅に出ようと地図を広げると、東南アジアの今でも簡単に行けないような島々まで、日本軍の足跡がある。よくもこんなところまで、と思うほど。なぜ、侵略なんてしてくれたのだ、私には関係ないことだ、と思ってしまうこともある。もっと楽に気兼ねせずに旅できたらと。しかし、前線で戦っていた人たちも本望でなかったはずだ。お国のため、そうするしかなかった。出来ることなら家へ帰って、家族とふつうの暮らしがしたかったろう。兵士を責めることは出来ない。彼らもまた被害者だ。コッカの上の方の一握りの人間によって、全ての人の運命が左右されるのだ。
 
 彼らがあげることの出来なかった反対の声を、今の私たちにはあげることが出来る。デモであれ、何であれ、自分の方法で表明できる。
 私の耳には、おばあの悲しい声が今でもはっきり残っている。 
 私がこれまで接してきた戦争体験者に戦争は素晴らしかった、良いものだった、と言った人はひとりもいなかった。被爆したことを嬉しい顔で語ってくれる人はいなかった。
 戦後処理とか、戦後復興とかいったって、死んだ人は帰ってこないし、失った腕も足も戻ってこない。そうして、恨みが残る。その繰り返し、繰り返すうちに恨みが複雑に絡み合って、解り合うところからどんどん遠ざかっていってしまう。
 世界中のたくさんの人たちが既にそれに気が付いているのだから、必ずいい方向へ行くと信じたい。私は自分が戦争を体験しているのと、していないのの境目の世代であることに、責任を感じている。

いかなる戦争にも反対します。
(アオキ)
 

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